第19話

「できるだけ遠くへ逃げなさい。もうこれ以上は一歩も進めないってくらいまで、遠くに……!」

「で、でも」

「いいから早く! 振り返らないで走るのよ。大丈夫、後で必ず迎えに行くから!」

「本当に? 約束してくれる?」

「当然! 約束、す――」



 それが最後の言葉だった。

 アイネは押し出されるようにして邸宅の裏口を飛び出す

 直後、悲鳴と共に数発の発砲音が鳴り響いた。

 

 振り返らないで。

 遠くへ行く。

 

 アイネはその言葉の通りにひた走った。

 家の中で尋常ならざる“何か”が起こったであろうことは、彼女にも察しがついていた。


 アイネの父はこの界隈では結構有名な“こわいひとたち”のボスだったのだが、近年、対抗する同業者との不仲が顕著になっていたのだ。

 しかし、どんな事情があるにせよ、今のアイネにできることは都会の喧騒の中を走り続けることだけだった。


 明るかった空が暗くなり、さすがに疲れてとぼとぼ歩きに変わっても、しかしアイネは前に進んだ。

 視界の端に交番が映ったが、彼らを頼ろうとは思わなかった。

 父たちと警察は基本的には犬猿の仲で敵対者だからだ。連中が、事あるごとに父たちの邪魔をしてくるのも知っていた。

 奴らにどこかへ連れ去られ、そのまま何年も戻ってこなかった仲間もひとりやふたりではなかったわけで……。

 そういう場面を幼少の頃から見ていたアイネは、だんだんと警察そのものが嫌いになっていった。

 

 だから警察には頼れない。

 お金もまったく持っていない。

 今いる場所ががどこなのかすらもわからない。


 足の痛みに耐えながら、アイネはひとり毒々しいネオンの光の中を歩いた。

 眩しい。

 アイネは思った。

 変な色の看板の光が、行き交う車のヘッドライトが、ごちゃごちゃになってくらくら回る。

 力を抜いたらそのまま倒れこんでしまいそうだった。

 

「お母さん……」


 呟き、極彩色の光から逃れるように狭っ苦しい裏路地に入る。

 コンクリートの壁に手をつき、荒い息を吐きながら、それでも彼女は前進することをやめなかった。


 度重なる疲労で意識はぼんやりと霞んでいた。

 這うような速度で一歩、また一歩と暗い裏路地を進んでいく。

 しかし、それも長くは続かない。

 とっくに限界を超えた彼女の身体は、薄汚れた路地に崩れ落ちるように倒れこみ――


 瞬間、薄暗い路地の奥から一人の女の子が飛び出してきた。


 自分と同じかそれより少しだけ年上に見える、粗末なキャミソールを身につけたかわいい少女。


 彼女はきっと、自分を抱きとめてくれようとしたのだろう。

 吸い寄せられるように地面へ倒れるアイネの元に滑りこんで……、

 

 ガチンッ!


 おでことおでこがぶつかった。

 ぼやけていた視界がパッと一瞬真っ白になり、お互いふらふらと尻もちをつく。


「あぅ……」


 痛みに耐えて上体を起こすと、薄汚れた少女が額をさすりつつこちらを見ていた。


「あ、起きた?」

「……? も、もしかして私、気絶とかしてました?」

「うん。ちょっとね」

「そうですか……。ええっと……今、何時なんでしょう?」

「んー、それよかきみ大丈夫? すっごく顔色悪いよ~。いったいなにがあったの?」


 ――なにがあったの?

 その問いに、アイネは答えようとした。

 でも、できなかった。

 思い出せないのだ。


「…………? あ、あの、とりあえず貴方様のお名前を教えてもらってもいいですか?」

「え、あたし? あたしはエリだけど……」


 アイネの頭上に浮かぶ大量のハテナマークはエリにもしっかりと伝わったようで、


「なんか、本格的にヤバそーだね……」


 彼女は額をさすりつつ、ぼんやりとそう呟いた。


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