第18話
「ん、ふあぁ……」
アイネが目を覚ますと、そこはふかふかしたベッドの上だった。
僅かに開いた白いカーテンの隙間から朝日がキラキラと差し込んでいる。
ここは……どこ?
誰かの寝室なのだろうか。
高級なホテルを思わせるその一室は実に完璧な空間に思えた。
空調はほどよい涼しさに設定され、毎朝感じるまとわりつくような暑さは微塵もない。
都会特有の耳に不快な騒音もせず、微かに小鳥の鳴き声が聞こえるばかりだ。
当然のごとくゴミの臭いなんてぜんぜんしないし、やわらかなベッドのおかげか背中の痛みとも無縁だった。
少し喉が乾いたな。
アイネはふとそんなことを思う。
すると、都合の良いことにサイドテーブルの上にはグラスに注がれたオレンジジュースが置かれていた。
口に含むとさわやかな清涼感が身体中に染み渡る。
いつも飲んでいる雑菌まみれの水とはえらい違いだ。
芳醇なオレンジの香りと共にアイネは完全に眼を覚まし、そしてもう一度考える。
ここはいったいどこなんだろう。
自分はなぜここにいるのだろう……。
しかし考えてどうこうなる問題でもないので、アイネはとりあえずこの寝室から出てみることにした。
扉を開け、リビングっぽい部屋に足を踏み入れる。
すると、
「あ、やっと起きてきたねアイネちゃん! おはよー」
「おはよう、アイネくん」
「あ、エリさん、沙知乃さん……。お二人ともいらっしゃったんですか」
「うん! ここはいいよ~。よくわからないけど美味しいもの食べ放題みたいだし」
見れば、部屋の中央に置かれたテーブルの上には色とりどりのごちそうが並んでいた。
七面鳥からにぎり寿司、ホールケーキから杏仁豆腐までなんでもありの椀飯振舞……。まさに夢のような光景で、起きたばかりなのにすごくお腹が空いてくる。
アイネはとりあえずエリの隣に腰掛けて、カキフライにフォークを突き刺しつつ質問した。
「あの……、今っていったい、どういう状況なんですかね?」
「普通に考えて夢の中だと思うよ」
対面の沙知乃がアボガドのサラダをもぐもぐしながら完璧な答えを返してくる。
なるほど。
シンプルだけどそれ故に最強の解だ。
夢だと言われればどんな事でも納得できる。
「でも、夢にしては少し意識がはっきりしすぎている気がするんですよね」
「それはたぶん“明晰夢”ってやつじゃないかな?」
「……あ、なんか聞いたことあります。夢の中で夢を自覚することで、その夢を自在に操ることができる……っていうアレですよね。上手くいけば味や質感も伝わってくるとか」
「そうそう。こんな具合にね」
沙知乃がピトッと指の先でかっぱ巻きに触れると、なんと瞬く間に緑色のきゅうりが黄色のたくあんに変化した。
「わ、すごーい」
「実際にはちょっとコツがいるんだけどね。自由自在に夢を支配するにはそれなりの練習が必要みたいだよ。まぁ『夢の中で夢を操る練習をする』っていうのもだいぶおかしな話ではあるけど……」
「不思議ですね。でも、やがて覚めてしまう夢だとわかると少し悲しい感じもします……。少し後にはいつもの汚ったない路地裏で排気ガスに咳き込みながら目を覚ますわけでしょ?」
「まぁまぁ、だからこそ今を楽しまなくちゃ損だよ! その……明晰夢? って滅多に見られるものじゃないんでしょ?」
フライドチキンにかぶりつきつつエリが言う。
確かにその通りだ。
せっかくラッキーな夢を見れたのだから楽しめるだけ楽しもう。
思い、アイネはホールケーキのイチゴをつまんで口に入れた。
◆◇◆
夢の中なので時間の感覚が曖昧だ。
最初にこの家で目覚めてからいったいどれくらい経ったのだろう。
まだ10分くらいかもしれないが、とっくに2時間を超えている可能性だってじゅうぶんにある。
いずれにせよ「なんかBGMがほしいな」と思ったアイネは、テーブルの上に置かれたリモコンでテレビのスイッチをオンにした。
ニュースの時間だったらしく、外国人のアナウンサーが淡々と原稿を読み上げている。
アナウンサーの言葉が聞き取れないのでどうやら外国の番組らしいが、なぜかテロップを読むことはできた。まぁそこは夢なので設定もテキトーなのだろう。
それよりも興味深いのはそのニュースの映像に映っている風景だ。
「あ、外国の番組っぽいのにあたし達の街の特集やってるよ! なんかすごいね」
エリが興奮気味に口を開いた。
まさに彼女の言う通りで、今、テレビに映っているのはアイネ達の住む国……その首都の街並みだったのだ。
アイネも一瞬は「知ってる場所がテレビに出てるなんてスゴイ!」なんて思ったのだが、表示されたテロップを見て悪寒が走る。
『……氏の訪問に合わせ、路上の子どもたちを“保護”の名目で収容所へ』
え?
なんですかこれ。
助けを求めるように沙知乃の顔に視線を送ると、彼女はため息混じりに言った。
「ああ、またあの悲劇が繰り返されるのか……」
「何年か前にも同じことしてたけどさぁ、ホント迷惑だよお」
珍しくエリもげんなりしてるし、アイネはますます不安になった。
「ええっと、つまりどういうことなんでしょうか?」
「つまりもなにも、外国から超エラい誰かさんがこの国の首都を訪問するから、公僕がそのためのお掃除をはじめたってことでしょ」
「は……? で、でも、保護してくれるならそれは良いことのはずですよね?」
「そう思うでしょ? でもね、収容所(あそこ)は地球上でも数少ない路上生活以下の場所なんだよ……」
「んん?」
「まぁ要するに、わたし達みたいなみすぼらしい少年少女が街をうろうろしていたら国の印象が悪くなるから、訪問期間だけでも掃き溜めに隔離しておきましょう、ってことなわけ」
「そ、そんな馬鹿なことがありますか!? それじゃ、私達はまるでゴミクズ――」
「連中から見たらゴミクズも同然なんじゃない? でもなければあんなところに閉じ込めるわけがないよ。ま、何日かしてその“超エラい人”が帰れば出してもらえるから、少しの間我慢してればいいだけではあるんだけど……。うぅ、思い出しただけで頭がイタイ……」
「あの時はホント恐かったよね~。収容所ってようは刑務所だよ? 部屋が臭いとかご飯がアレとかそのあたりはまだいいけどさ、ガチ犯罪者のおにいさん達に囲まれての生活は生きた心地がしなかったよぉ。看守の人は役立たずだから全体的にカオスだし……」
アイネは絶句した。
それが国のやる事なのかとか、その“超エラい人”はこの事を知っているのかとか、言いたいことは色々とある。
悲しいし、悔しいし、腹立たしくもある。
けれども今、胸の内から湧き上がってくるこの感情はそのどれとも少し異なっていた。
なんだろう。
この形容しがたい熱い想いは。
この胸を焦がすような懐かしさは……。
バゴンッ!
瞬間、なにかが破壊された音が部屋中に響いた。
たぶん玄関が破られたのだ。
警官だかなんだかがこの家の中に押し入り、アイネたちを捉えて収容所送りにしようとしている――。
アイネは刹那にそう感じた。
というより確信した。
もちろん無根拠だし状況的にもおかしな部分がたくさんあるが、夢の中なので特に変だとは思わなかった。
「な、なに? 今の音……」
「ッ……」
エリと沙知乃が出入り口の扉に眼を向ける。
同時、複数人の足音が響く。
それはだんだんと大きくなって、ふたりは不安そうに顔を見合わせた。
「エリさん、沙知乃さん、」
アイネは椅子から立ち上がり、あえてゆっくりと言葉を紡いだ。
もはやここが明晰夢の中であることなんて忘れていた。
「決まってますよ、公僕(やつら)が来たんです。私達を捕まえに」
「……! だ、だったら早く逃げなきゃ! 落ち着いてる場合じゃないってアイネちゃん!」
「おふたりで先に行ってください。ここは私が引き受けますから」
「そんな事できるわけないでしょ! ほら、早くいっしょに――」
「駄目です! 相手は大人なんだから、3人で逃げたらいずれ追いつかれて全員捕まっちゃいますって!」
「アイネくん! キミの言う事はもっともだけど、でも、友達を見捨てる事なんてできるわけないよ!」
「友達ですって? 違いますねぇ……」
アイネはエリと沙知乃をしっかりと見据え、言った。
「私はあなた方に助けられました。おふたりとも自分のことだけで精一杯のはずなのに、どこの誰ともしれない記憶喪失のこの私に、すごく親切にしてくれた……。お金になるゴミを集めて、残飯を漁って、コンクリートの地面で夜を明かして……そんな日々も、おふたりと一緒だったから楽しかった! だから……だから! 私はあなた達を友達だなんて思ってません! その、なんて言ったらよいのでしょうか……家族っていうか、姉妹(きょうだい)……! そう、おふたりは私の義姉妹(きょうだい)、妹です……! 姉が妹を助けるのは当然のこと! だから今は、できるだけ遠くへ逃げてください。もうこれ以上は一歩も進めないってくらいまで、遠くに!」
「で、でも」
「いいから早く! 振り返らないで走って! 大丈夫ですよ、後で必ず迎えに行きますから」
「本当に? 約束してくれる?」
「当然! 約束します!」
言って、アイネは出入り口の扉に向き直った。
その小さな手にはいつの間にやら鈍色の刀が握られている。
同時。
ガラッ……っと、背後から窓の開く音が聞こえた。
エリと沙知乃が逃げたのだろう。
そうだ、それでいい。
アイネは思った。
妹達(きょうだい)を守り、愚かな公僕を叩き伏せる……これは自らの意地と誇りをかけた戦いなのだ。
彼女の心の根源に潜むなにか、その熱い情念がアイネを突き動かしていた。
刀を握る手に力を込める。
バゴンッ!
扉があっさりと蹴破られ、制服を着た男たちが飛び込んできた。
いよいよか。
「さぁ、かかってきなさい公僕ども! この私が相手になります!」
アイネは叫んだ。
そして真っ向から制服の集団へと斬りかかって――。
◆◇◆
「……かはッ!」
次の瞬間、アイネは再び目を覚ました。
びっしょりと汗をかいていて、背中……というより身体のあちこちが微妙に痛い。
空気も妙に悪いらしく、すえたような臭いが鼻をついた。
ああ、これは現実だ。
アイネは起き抜けに確信した。
しかしいつもの路地裏ではない。
まず、室内だ。
貧相且つ殺風景な大部屋で、窓と出入り口は塗装の禿げた鉄格子で覆われている。
周囲を見れば、幾人ものガラの悪そうな大人たちが退屈そうに座っていた。
そう。
ここは……収容所だ。
「ああ、そういえば……」
アイネは直前の記憶を掘り返す。
ついさっきまで見ていたあの夢は、ある意味で現実をなぞっていた。
もちろん、前半の「ステキなお家でパーティー」的な部分は完全なるただの夢だ。
ところが後半の「偉い人の訪問にあわせて子供たちを収容所送りにする」という話を聞いたあたりからの流れは結構リアルに忠実だった。
アイネは改めて考える。
ええっと、確か……いつもの裏路地でダベっていたら、例の“お掃除作戦”を実行中だった警官かなにかに見つかったのだ。
その後は夢とだいたい同じ感じでエリと沙知乃をかばって逃し、自分だけ捕まってしまった……と。
まぁ、現実の方はあそこまでドラマチックな展開ではなく、当たり前だが刀で斬りかかるなんて事はしていないが……。
「よぅお嬢ちゃん、やっとお目覚めか?」
野太い男の声が聞こえた。
振り向くと、いかにもな人相のおじさんがこちらを見ている。
2~3人は殺していそうな雰囲気があるが、不思議と恐怖は感じなかった。
「貴方は?」
「オレはここを仕切ってるナンバー2よ。ま、お前のような貧乏なだけの小娘は数週間と経たずに出ていくのだろうが……それでも、その期間を少しでも平穏に過ごしたいならオレの言うことには逆らわないほうが得策だぜ」
なるほど。
つまりは囚人の中でのリーダー格ということか。
「じゃ、早速だが肩でも揉んでもらおうか」
「失礼ですが、貴方はナンバー2なんですよね? ナンバー1の方は今おトイレかなにかですか?」
「……あぁ?」
なんか妙に凄まれた。
牢屋全体にピリッとした緊張が走る。
確かにナンバー2を名乗るだけあって、それなりの影響力はあるのだろうか。
周囲からもヒソヒソ声で「なんだあのガキ……」とか「妙にキモが座ってやがんな……」とか、そんなような会話が漏れ聞こえた。
まぁいい。
こんなチンピラに使われるのは気に入らないが、わざわざ火種をまくこともないだろう。
アイネは素直に男の肩をもみもみした。
「おい、力が弱いぞ」
「は、はい」
「まだ弱えなぁ」
「すいません……」
たかが肩もみでも全力でやれば限界は早い。
10分も経たないうちにアイネの両指は悲鳴を上げた。
荒い息を吐きながら痛みに耐えて手を動かすも、男は一向に満足する様子を見せなかった。
「ったく、役にたたねえなぁ。ちょっとこっち来てみろ」
「は、はぁ……」
よろよろと男の目の前に回り込む。
すると彼はアイネの肩に手を添えて、あろうことかその親指に力を込めた。
「肩もみってのはなぁ、こうやるんだよ」
「え……あぅッ!? イダダダダダッ!」
あまりの衝撃に身を捩って床に倒れる。
しかし今度はアイネの髪を鷲掴みにして対面させるとにやにやした笑みを浮かべながら、
「どうだ? 気持ちよかっただろ?」
とか言い出した。
この人、さりげなくさっきの一言を根に持ってるんじゃ……。
涙目になりながらそんなことを考えた時、鉄格子の扉が開く軋んだ音が響き渡った。
チラリと視線をそちらに送ると、気だるそうな男と眼があってしまう。
おそらくは彼も囚人のひとりで、今どこかから戻ってきたのだ。例によってガラが悪いが、細身の長身でパッと見の迫力はさほどでもない。
しかし、なんというべきか……彼には他の連中にはない独特のヤバゲな雰囲気があった。
男は数秒アイネを見つめ、それからつかつかと歩を寄せてくる。
空気が改めてピリリとひりつく。
ここにきて、アイネははじめて僅かながらの恐怖を感じた。
「……この娘は?」
長身の男はアイネのそばまでやってくると、ナンバー2の男に向かって口を開いた。
ナンバー2にタメ口という事は、この人がナンバー1なのだろうか。
それにしても、普通にしゃべっているだけなのに無駄にすごい威圧感だ。
「あ、ああこのガキですか。さっき入ってきたばかりの新入りですよ。これが使えないくせして生意気でね。(アイネの頬をペチペチと叩きながら)少しばかりここでの礼儀ってものを教えてやろうと思いまして」
「……」
長身の男はその答えを聞き、黙ったままにしゃがみこんだ。
そしてもう一度アイネの顔をまじまじと見つめ(気のせいか頬の古傷を特に見られている気がする)、ナンバー2に向き直った。
その動きをなぜか2~3回繰り返した後、長身の男はなにかを確信したかのように深くうなずく。
それからナンバー2を見据え、言う。
「……なにやってんだ? お前は」
「へ……、で、ですからこの小娘に礼儀を――」
「礼儀だぁ……? テメェが今いったい誰にちょっかい出してんのかわかってんのか? このドチンピラがよぉッ!」
「ごはッ!?」
瞬間、長身の男がナンバー2をぶん殴った。
刹那にノックアウトされるナンバー2……そんな彼を尻目に、長身の男は感極まったようにアイネの肩に両手をおいた。
そして決定的な一言を放つ。
「アイネお嬢様……! よくぞ、ご無事で……」
◆◇◆
「お嬢様? 私が? ……失礼ですけど、貴方はどちら様でしょうか」
「……ッ! わ、わたしくの顔を忘れちまったんですか? 若頭補佐の紺来(こんらい)ですよ!」
「え、ええと……」
「ッ! そんな馬鹿な、あなたは確かにアイネお嬢様のはず……、ああ、ずいぶんとやつれておいでで、初見じゃ確信がもてやせんでしたが、でも……」
「はい、私はアイネですよ。それは間違いないんですが、色々あってどうにも記憶が曖昧でして。貴方……紺来さんのことも、喉まで出かかっている気はするんですけど――」
「あ? もしかして記憶喪失ってやつですか? ……ならばどうか、これを見て思い出してくだせぇ!」
叫び、紺来と名乗った男は胸につけていた何かを外してアイネの眼前につきつけた。
――なんだろう。これ。
黄金色に光る綺麗な……バッチ?
それは数センチほどの小さなバッチで、植物の葉を連想させる抽象的な模様が彫り込まれていた。
眺めていると不思議に懐かしさが溢れ出てくる。
アイネは思う。
……そうだ。
自分はこのマークを知っている。
最初の記憶から刻まれている……。
だって、このマークは物心ついた時から自分と共にあったのだから。
自分と、家族と、大勢の仲間たち。
その全ての象徴。
「これは、幻楼会の代紋……?」
ああ。
思い出した。
完璧に、完全に。
自分はいったい何者なのか。
どうして記憶を失うまでに至ったのか。
封印されていた思い出がなだれのように押し寄せる。
そうだ。
自分は。
私は。
「私はこの街の極道、幻楼会の親分の娘……桜川アイネです…………!」
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