「いつもなら森の時点で選別されるのに…」

 と言ったのは、アンスタウトの筈だが、谷の反響か、レイノシュから聞こえた気がした。


 小一時間程歩いて、レイノシュは歩みを止めた。

 別段なにも変わらない崖の風景。

 何を目印にしたかも、俺が見る限りは分からない。

「あ、あれ。足元です」

 背中からアンスタウトが答える。

 レイノシュが乗り移ったのかと思ったら、

「あまりにも回りを見回しておいでだから。それより、ほら。レ…イノシユさんを見失いますよ」


 天然のカーテン、と言うのか、パーティションと言うべきなのか。

 正面からは見逃しそうな微妙な岩の重なり。

 人工でも、天然でも見事なものだ。

 

 分け入れば、外からの光はない筈なのに、岩がほんのりと光を放っている。

 一体どんな仕掛けが施されているのだ?

「何なんです?ここは…」

 背中から聞こえるアンスタウトの、驚嘆とも不安とも取れる声がする。

 

 レイノシュはそれに答える気はないらしく、歩みを止めるどころか振り向きもせず前を進む。

「なあ?レイノシュ。厭なら無理するなよ」

 そう言うと、漸く足を止めてくれたレイノシュが振り返って、

「ここまで来たらそういうわけには行かないですよ」

 と、あの顔をして笑う。

 

 ここに来て初めて、掴み所の無い“不安”が俺にのし掛かる。

 レイノシュ?

 彼は腕を伸ばし、“岩”に手を触れる。

 溶けるように拡がる視界。

 

 東洋の建築物のような、木材が使われている、見慣れない知識でしか知らない内装が拡がる。


「レイノシュさん!?ここは!」

 突然、アンスタウトが声を上げる。

 いや、耳元で聞こえたからびっくりはしたが、彼の声量は極力、押さえられている。

 

 レイノシュは口の前に人差し指を立て

「しぃー」

 と音を立てないように俺達に合図をする。

 

 俺はレイノシュに近寄ってから

「誰の家だ?」

 と、俺なりに声を潜めて聞いた。

 俺の顔を見たレイノシュは、注射を見た猫みたいな真ん丸な目をして、そして吹き出した。

「全く、あなたって人は…」

 褒められてるのだろうか?

 

 そんな俺らの軽口を余所に、俺の首の前で重なっているアンスタウトの腕は、明白に緊張を感じる。

 

 レイノシュは、俺ではなくアンスタウトと顔を合わせる。

 それから、ゆっくりと俺を見ると、

「ん~。それはまだ知らなくてもいいかもです」

 と、いつもの調子になっている。

 あれ?『不安』はもう終わったのか?


 それにしても、だ。

 辛うじて建物の内部だろうと思われるここは、薄暗く、然程モノが有るわけでもないのに、雑然とした雰囲気がある。

 見慣れないだけかも知れないが、不思議な内装に眼を奪われる。

「あ、グラスコさん。ここ、土禁です」

 と、アンスタウトが言う。

「それと、大丈夫みたいですので、下ろしてください」


 背中からアンスタウトを下ろすと、彼はまず靴を脱いだ。

「掃除はされていますから、きれいですよ。暗いだけです」

 見ればレイノシュはとっくに靴を脱いで手に持っている。

 いつの間に。

「レイノシュ…」

「気づかない方がいけないんです。注意力散漫ですよ」

 はいはい。

 俺は不貞腐れた子供のごとく、その場に座り込んで靴を脱いだ。

 初めて触れる、草の床。

冷たくもない、暖かくもない、草の匂いが微かに漂う。

 

 見上げれば、なぜか微笑ましい眼差しが俺に向けられている。

 何だ?それは。

 

「さあ、行きましょうか」

 ここが何かは教えてくれないんだな、と俺はレイノシュの後ろに、大人しく従った。


 紙製の、大凡防御を欠いた扉を通り抜ける。

 レイノシュもアンスタウトも勝手知ったるらしく、迷いがない。

 俺は扉と天井の間の彫刻が気になりはするのだか、構っては貰えないようだ。

 

 何回か紙製の扉を抜けると、空気が急に軽くなる。

 と、云うことは今まで重かったのだろうか。

 

 扉の先には、それまでと打って変わってインスラと同じ、曲線を描く石の壁が天井まで高く続く。

 『研究室』のような、雑然とした無機質なそこはアンスタウト部屋の空気に似ていて、紙製の扉で区切られていた今までの部屋と明らかに別物の様相だ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る