「理想郷?」普段、戯れを言うことのない、レイノシュから出た突飛な言葉に驚く。何を持って理想郷と言うのだろう。切り返す言葉に詰まっていた時、ドアをノックする音がした。


 レイノシュがドアへ移動し来訪者と対応をしている。

 理想郷を鵜呑みにするわけではないが、映画の中でしか御目にかかれない、時代がかった古めかしい質素な室内を見渡すと、まるでタイムスリップでもしたような気分になるのは確かだ。


 レイノシュに促されて、気の強そうな瞳の赤毛の女性と、終始笑みを称えた掴み所の無い金髪の優男が入ってきた。

 二人は、綿素材で袖付きの貫頭衣を身に付けている。


 しげしげと見ていたせいか、赤毛の女性とすぐ様に目が合った。

 すると赤毛の女性は、厳めしい顔付きから一転して、花の綻ぶような笑顔を向けてきたので、思わず面喰らう。

「目を覚まされたのですね。食事をお二人分用意してきて良かったです…………牛……」

 ん?牛って言わなかったか、こいつ?何だ、この妙にキラキラした笑顔は?


 優男が手にしていたトレイをテーブルに置いて椅子に座ると、女性が慌てるように手にしていた紙を拡げ、隣の椅子に座る。


「取り敢えず、お名前だけは頂いて宜しいですか?」と優男が事務的に聞いてくる。

 調書を取るなら出自はいいのか?と思うが、言わないでいいならそれに越したことはない。

 お言葉に甘えて「グラスコ・グレコ」と名前だけを伝える。


 レイノシュは、俺の顔を戸惑いながら伺って「……レイ……レイ・グレコ」と答えた。

 何か思惑があるのだろうか。偽名を名乗った。

 俺と同じ名字を名乗ったが、どういう関係を想定しているのだろう?


 女性は書類に名前を記載すると顔を上げ「わたしはメイペスです。早速ですが、あなた方は、このエデノに永住を希望されますか?」と、紋切り口調で聞いてきた。


「分からん」

 ついさっき、目が醒めたばかりだしな、と、俺は考え無しに返す。


 ふう、とメイペスは聞えよがしに大きな溜息をついてから、

「即答は求めていません。ただ、念頭には置いてほしいということです。永住か、否か。ここには、対価さえ頂ければいくら居てくださっても構いません」と、言葉こそ丁寧だか、些かキツい口調で言ってくるので、

「勝手に治療しておいて、金を取る気か?」と、細やかな反撃に出る。

 いや、助けて貰ったのだから、それなりに礼は尽くしたいが、色々と不躾な態度が気に食わない。


「……勝手って……」メイペスは、明白あからさまに苛立ちを見せる。

「細かい事情はさて置き。レイ・グレコさんはその華奢な体で。グラスコ・グレコさん、あなたの意識の無い、巨体を背負って、険しい崖を登ってきたのですよ。それだけで尋常でないことだけは分かります。それに、ここでは金は対価に当たりません。労働で返してください」

 荒げた口調で捲し立てる。


 ありゃ。

 そりゃ、苛立ちもするか。

 それにしてもレイノシュよ。

 俺を背負って崖登りって……顔色が悪いのも当然だ。


 言いたいことを言って満足したらしいメイペスは、一転して落ち着いたようで、「それと、これはこちらの落ち度ですが、まずお食事を召し上がってください。折角の暖かいスープが冷めては勿体無いです」と皿を並べ始めた。


 俺は一連の流れに付いていきかねて「この状況で、飯?」と、思わず口にした。

 むう、と拗ねた表情を見せるメイペス。


 彼女の子供みたいにくるくる変わる表情は、見ていて面白い。

 そうか、子供なんだ。

 これまでの彼女の素直な表情に納得がいく。


 少々乱暴に配膳を始めているのは、照れ隠しなんだろうか。

「食事は大事です。毒は入ってません。大事な食事ですから」

 大真面目に返してくる様子は、レイノシュを見ているようで好感が持てる。


 その横で優男が笑いを堪えるのに必死になっている。

 笑ってていいのか?


 俺の腹の傷を考慮してあるのか、実のないスープだけが俺の前に置かれる。

 レイノシュには、丸い武骨なパンと具沢山のスープが用意され、一安心する。


 レイノシュは、俺の大事な友人だが、覇気のない見た目からか、時々下人のように麁雑に扱われる事がある。

 甚だ遺憾ではあるが、レイノシュ本人は目立たないことを常としており、自分の扱れ方に頓着していない。

 元来の綺麗な黒い波打つ巻き毛を、態々オレンジに染めているのは、俺にも隠している出自を誤魔化すためだろう。


 皿からスープを掬って口に入れる。

 温かい……が、それだけだ。

 不味くはないが、特別旨くもない。

「どう?」とメイペスが自信満々に聞いてくるが、ここで正直に答えようものなら先程のような剣呑な遣り取りが戻るのは、火を見るより明らかだ。

「……優しい味だ」

 と、無難に返すと、メイペスはどこか誇らしそうで、俺は自分の答えが及第点だったことに安心し胸を撫で下ろす。


「では、わたしからは伝えるべき事は伝えたのでこれでお暇します。食器は食堂に返して下さい。この建物内は好きに回っていただいて結構です。案内が必要なら一階にいる者を訪ねて下さい」と、言うとメイペスと優男は椅子から立ち上がった。

「侵入禁止場所はないのかい?」念のため聞くと

「見える秘密なんてないわ」と言って部屋から出ていった。


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