第6話 今までどおり、今のまま

 電話がかかってきた。

 日野さんの隣で、IHヒーターの上で熱くなったフライパンに油を落として肉を置いたばかりだった。加熱を止めるボタンを押し、スマホを手に取る。宮沢さんからだった。

「余田っち、元気か」

「はい。何かありましたか」

「実はさ、今まで忙しかったろ。ワルガキとケンカしたりなんかして。羽鳥と高橋も退院したし、退院祝いも兼ねて、みんなでうちでメシ食おうかって」

 日野さんを見る。新玉ねぎを切ってる。目頭を押さえた。涙が出てきたか。

 ちょうど二人で晩メシの用意をしてたところだ。まあ、肉と野菜を焼くだけなんだけど。

「余田っちの友だちもつれてきていいよ。カタギなのに怖い思いさせちまったからさ。都合、聞いといて」

「わかりました。海斗は来れるんすか」

 海斗は俺らのワル仲間で、宮沢さんの一人息子だ。奥さんと離婚した宮沢さんが、一人で育ててきた。

「それがさぁ、娘、生まれたじゃん。手術するんだと。まあ、よくある病気みたいで、赤ん坊のうちにやっとけばそれで済むみたいなんで、たいしたことはねえんだけど。だから来れねえんだ」

 宮沢さんは日時をいって電話を切った。

 日野さんの隣に戻る。涙でうるうるした綺麗な目で、日野さんが俺を見た。

「宮沢さんから。ケンカとか忙しかったし、羽鳥も高橋も退院したんで、みんなで集まってメシ食わねえかって。日野さんも来たらって」

「俺も行っていいの」

「当たり前だろ」

 日時をいうと、日野さんの都合もいいという。俺はすぐに宮沢さんに電話して伝えた。

 肉を焼く。焼けた肉を皿に移して、日野さんが薄く切った新玉ねぎとにんじんを焼く。

 肩と肩がふれあって、お互いに顔を見合わせる。

「あんだよ」

 いまだに、大好きな日野さんが隣にいると、どきどきする。

 日野さんは俺に、にっこり笑う。かわいい。

「嬉しいな。余田さんが隣にいる」

「一緒に住んでんだから当然だろ」

 照れる。照れるあまり、巻き舌になる。日野さんが俺をのぞき込む。

「巻き舌だ。いいなあ。もっとやって」

「俺はもう、ワルじゃねえ」

 新玉ねぎとにんじんが音と湯気を立てる。菜箸でひっくり返した。焦げてない。セーフ。

 野菜を見守りながら日野さんが、綺麗な形のくちびるを開く。

「どうして俺たち、いまだに『さん』づけなんだろうね」

「出会ってすぐの頃、下の名前で呼んでたじゃねえか」

 もうそろそろいいだろう。俺はボタンを押して加熱を止める。

 日野さんの顔が暗くなった。

「あのときはごめん。俺、余田さんに、済まないことをした」


 三品が死んで、一週間経ったか経たないかのときだ。

 日野さんが三品のマンションに置いていた私物を返しに、三品が依頼してた弁護士が会社まで来た。ひとつひとつ、日野さんの私物かって、確認するところまでは当たり前の手続きだった。その中に、三品が日野さんを描いたスケッチブックもあった。全ページ開いて、これでまちがいありませんね、っていいやがったんだ。

 ただのスケッチじゃなかった。スケッチブックの半分は、幸せそうに、楽しそうに笑ってる上半身裸の日野さんだった。

 問題は残り半分だった。セックスしてるときの日野さんだったからだ。そんな姿まで、三品は描いていやがった。たまたま俺は日野さんの隣にいたんで、全部目撃しちまった。

 日野さんは、受け取ったスケッチブックの両端を握りしめてた。手が白くなってた。かたかた震えてた。そりゃ、そうなるだろう。自分の一番見せたくないところを、関係ねえ弁護士や俺にまで暴露されたんだから。

 俺はムカついた。三品にだけじゃねえ。その弁護士にもだ。

 三品は死んでる。目の前にいない。だから何もできない。

 弁護士は生きてる。追いかけて、転ばせた。

(何をするんだねっ、きみっ)

(ぶつかっただけっすよ)

(絶対わざとだろっ)

 助け起こすふりをしながら、やつの股間を膝で蹴る。

 痛かったんだろうな。ヒゲが生えたイケオジだったけど、もとの顔だちを忘れるくらい変顔になった。ワックスで整えた髪はぼさぼさ、高そうなスーツはよれよれだ。

 股間を押さえてアスファルトの上で「く」の字になってるそいつに俺はガンを飛ばした。

(さっさと帰れや、このタコ)

(こんなことをして、ただで済むと思うなよっ)

(弁護士が脅迫か? 脅迫なんかしていいと思ってんのかよ)

(私をわざと転ばせて、股間まで蹴ったじゃないかっ)

(だから、たまたま、ぶつかっただけっつってるだろ。起こそうとしてやったときに、たまたま、膝が当たっただけじゃねえかよ)

(それにしてもタコは余計だろっ)

(タコなんていってねえよ。さっさと帰ってくださいっていっただけだよ。それよりも『ただで済むと思うなよ』ってほうが問題じゃねえのか)

 図星を指されたらしい。弁護士はドイツの高級車に乗って、爆速で駐車場から出て行った。

 ワルでよかった。初めてそう思えた。

 日野さんは真っ白な、今にも死にそうな顔で俺を待っていた。

(嫌いに、ならないの)

 なるわけがねえだろ。なぜか俺はそのとき、そう思った。でも、いわなかった。野郎にこんな気持ちになるなんて、初めてだったからだ。

(軽蔑、しないの)

 するとしたら、そんな大事なものを見えるところに置いといた三品と、それを日野さんに見せた弁護士だ。

(遠くへ行きませんか)

 日野さんをここから離したほうがいい。そう思って俺は続けた。

(仕事終わったら、二人で遠くへ行きましょ。俺、運転するんで。仕事でもしてるし、得意なんで)

 慎重に、でも、何かを期待するように、日野さんが聞いた。

(どこでもいいのですか)

(どこでもいいすよ)

 日野さんが行きたいといった場所は、三品の生まれ故郷だった。何度か二人で旅行したことがあるらしい。そのときの俺は、特に腹は立たなかった。まだ俺たちは同じ会社に勤める、同い年で同学年の同僚だったから。

 夜中、俺の車に乗ってでかけた。「明」、「誠司」と呼んで、敬語もやめた。

 でもそれは、朝になるまでだった。俺が、ふと口にした一言で日野さんがガチギレしたからだ。

 二人で並んで、安い定食屋で朝メシを食ってたときのことだ。

 目玉焼きが皿に乗っている。

(よく作ってあげたな)

 日野さんがほほえんだ。スケッチブックで見たのと同じ笑顔だった。

 三品がもし生きてて、俺の目の前にいたら、秒でぶん殴っていただろう。でも、三品はいない。いるのは、思い出にひたってる日野さんだけだ。日野さんを殴るわけにはいかない。

 俺にもう少しこらえ性があったなら、三品の思い出話でもさせてあげて、日野さんの氷みたいにがちがちになってる心を、溶かしてあげることだってできただろう。

 それなのに、俺の口から出たのは、びっくりするくらい冷たい笑いだった。

(うまかったんだろうな。二人でいちゃついたあとに食う目玉焼き)


(あなたの好意に甘えた俺が馬鹿でした。帰りましょう)

 冷たくガチギレしてる日野さんを一生懸命なだめた。三品の話なら何でも聞くから、という俺を、どの程度かわからないけど、日野さんは許してくれた。

 それ以来、俺たちは「余田さん」、「日野さん」と呼び合っている。もう二度と同じことをくり返さないためになのかもしれない。お互いの、いや、日野さんが大事に心の中で守ってる領域に、俺がうっかり足を踏み入れないように、かもしれない。

 俺にはそんなものはない。親父や母ちゃん、弟たちが死んだあの火事は、誰かがうっかり見てしまったとしても、隠すこともできないし、なかったことにもできないからだ。

 俺は野菜を皿にとる。

 泣きそうなのを必死でこらえて、日野さんは俺が焼いた野菜をテーブルに運んでくれた。

 二人で並んでしんみりメシを食う。

 沈黙が重すぎる。それは日野さんも同じだったみたいだ。二人で同時に顔を見て、聞いてしまった。

「また、名前で呼びたい?」

 日野さんが箸を置く。

「余田さんは、嫌じゃないの。俺、聡にも『誠司』って呼ばれてたから。健も俺のこと『誠司さん』て呼んでるし」

 俺も箸を置いて考える。

 答えはすぐに出た。

「だよな。いいか嫌かでいったら、確かに嫌だわ」

「だよね。だから俺は今のまま、『余田さん』って呼びたいんだ」

「俺はずっと『余田』だよ。『明』なんて呼ぶのは、じいちゃんばあちゃんぐれえだ。『余田』って、母ちゃんの旧姓なんだよ。親父が生きてたころは『小野』だったんだ。けど、親父が死んだだろ。じいちゃんばあちゃんの戸籍に入って、『余田』になった」

「俺も似たような感じだよ。母親の旧姓が『日野』なんだ。離婚前は『白鳥』」

「じゃあ、今までどおり、『日野さん』呼びでいい?」

 うん、と、日野さんがようやく笑顔になる。

 俺もやっと笑えた。

「宮沢さんちでごはん食べるんだ」

「おう。よく俺ら呼んで、メシ作って食わせてくれてた。買ってくるときもあったけど」

「楽しみだな。富田さんも来るかな」

「たぶん、来るんじゃねえかな」

 日野さんが立ち上がる。

「まだ肉あるから、焼いて来るよ」

 俺も日野さんと一緒に台所へ行った。


 俺が生まれて育ったのは県北だ。雪は膝まで積もるし、最高気温は県庁所在地よりも五度低い。日野さんと住んでる市と比べると、山が多くて、空が小さい。

 途中で富田を拾って、俺の車で向かった。

「ほんとに田舎でしょ」

 後部座席に座った富田に、助手席に座った日野さんが笑う。

「でも、いいところですよね」

「友斗はつれてこなかったのか」

 富田はやわらかい声で俺に答えた。

「今日は友だちとゲーセンに行く約束なんだそうですよ。夜はその友だちの家で、お母さんも合流して、一緒にごはんを食べるそうです」

 宮沢さんの自宅は国道から山に登った畑の中にある。駐車場が広い。運送会社をやってたときは、自宅の敷地内にプレハブの社屋があった。今はもう解体して、なくなっている。

 羽鳥も高橋も平井もいる。

「出張してたんじゃねえのか」

 聞くと、平井は糸目を半円にして笑った。

「土曜だから帰れたんだ。明日には戻るよ」

 宮沢さんは相変わらず見事なリーゼントだ。ホットプレートの脇に肉のパックが積んである。缶ビールや缶チューハイも二十本近く置いてある。

 ホットプレートの上で牛肉や豚肉や鶏肉、輪切りにした玉ねぎや、薄切りにしたにんじんやなすが焼けて湯気を立てる。

「ごはんも炊いたからいくらでもおかわりしてくれよ」

 宮沢さんが俺らにてんこ盛りにしたごはんをよこす。

「日野くん、これノンアル」

 酒が弱い日野さんに、ノンアルコールのビールやチューハイをまとめて渡す。

「ありがとうございます」

「それにしてもさあ、余田っちと日野くんて、結婚しないの」

 俺は肉を口に入れようとしたまま、日野さんはノンアルコールビールのプルタブを開けたまま、かちーんと固まる。

 宮沢さんは、「余田っちも、日野くんも、結婚しないのか」と聞きたいんだろう。けど、今の聞き方だと、俺ら二人が結婚しないのかというふうにも受け取れる。

 富田が人さし指と中指で丸メガネの真ん中を押し上げた。

「宮沢さん。コンプライアンス的に、その発言は問題だと思います」

「えー、そう? 二人ともいい年なんだしさあ、イケメンなんだから、相手くらいいるだんべ」

 未開封の缶ビールのプルタブをプシュッと開け、富田は宮沢さんの前にぐいと押し出す。

「そんなこと聞くひまがあるなら飲んでください」

「まあ、そうだいなあ。俺も一度失敗してるから、ひとのことはいえねえや。結婚するなら慎重にしないとだいなあ」

 リーゼントを天井に向けながら宮沢さんが缶ビールをあおった。

 富田が俺と日野さんの前で、ぱん、と手を叩いた。

「ほら、いつまでも石化してないで。余田氏は肉を食いたまえ。日野さんはお飲みください」

 俺は肉を口に入れ、日野さんはひと息にノンアルコールビールを飲む。

「もうケンカとかねえよなあ」

 羽鳥がサンチュで牛肉を巻いてかぶりつく。

「アスファルトの上で寝技はもう勘弁だぜ」

 高橋が三本目の缶ビールを飲み干す。

「俺も加勢したかったなあ」

 平井がホットプレートの上のなすを皿に取り、焼き肉のたれにつけてほおばる。

「すべては純氏の電話から始まったんですよ」

 富田がレモンサワーを開け、三口飲む。

「俺もまだまだやるだんべえ。見た? 俺のウイリー」

 てんこ盛りにしたごはんの上に豚カルビを乗せ、宮沢さんがかき込む。

「いつ練習してんすか」

 俺は牛タンに塩を振って口に運ぶ。

「非番の日はいつもやってるよーん」

「すごかったです。ほんとにできる人、初めて見ました」

 日野さんがホットプレートの上で残った鶏肉やにんじんを集めて自分の皿に取り、食べ始める。

「昔は俺も国道、トップク着て爆走してたのよ。ケンカもすげえ、したし。だからこいつらのこと、放っておけないんさ。日野くんだってそうだよ。こいつらの友だちは、俺の仲間でもある。富田さ、今度は友斗も一緒につれてこいよ」

「ええ、もちろん」

 富田が笑う。

 宮沢さんも笑う。

 羽鳥も、高橋も、平井も、日野さんも笑う。

 俺も笑った。

 きっと俺らはこれからも、こんなふうにメシを食って、しゃべって、笑っていく。 

 今までも、そして、これからも。

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