第5話

その次の日の、宇宙標準時間では深夜に当たる時間。彼はベランダで人工風に吹かれていた。胸にできた治りかけの傷が、治癒の過程で彼に実家時代の悪夢を見せていたのだ。

アクリルのカーゴの中には、コンピュータ制御された風が吹いていた。風の種類は日替わりだったが、この日はミストラルだった。

冷たい風の中で、彼は今日も一人であろうリザのことを思った。


ミストラルに吹かれている者はもう一人いた。リザである。

彼女は、エンペラースイートで女を囲っているのであろう婚約者、ロー・ルーモアを思っていた。

彼は平民の出だった。その彼が貴族の彼女と婚約できたのは、未亡人の貴族に養子入りしたからだ。

彼には優れた容姿と会話の才があった。その弁舌を5分も聞いていると、話し相手の女性はポーっと話に引き込まれていくほどであった。

その才は女と別れる時にも存分に発揮されていたらしく、彼の評判は「恋多き男」と言うタイプの、どちらかといえば高評価だった。

会社も持っている。どうやら資源衛星の採掘事業をやっているらしかった。それも未亡人のうちの一人から貰った会社だが。

身分も申し訳なく才色兼備とあれば、外戚を一族の繁栄の元としていたバンクロフト家としても、婚約を拒む手はない。殊更母親の方がこの結婚を強く推した。


しかし彼女は彼を嫌っていた。それは浮気が嫌だったと言うよりもむしろ、彼の人間性が嫌いだったのだ。

表面的な慇懃さの奥に見える、生きることへの真摯さが見えないところが気に食わなかった。

彼女は人を見る目があったが、自分の才能にのみ頼った、努力の裏付けがないような人間は唾棄していた。


さて由衣の方はというと、カーゴの中で、星の光に腕時計を晒していた。亡くなった祖父の形見である。

白金の本体に、風防はアクリルと石英ガラスの複層構造。

「困った時にはこれを売れ」と彼は由衣によく言ったものだった。一見してただの腕時計だったが、どこでも生活の種銭とできるほどに高価なものだった。

(・・・でも、今じゃない)


実は彼にもう金はなかった。船のチケットを買うのが精一杯で、着の身着のままで乗船したのだ。上着だけは買うことができたが、服屋で上下一式と靴までを取り替えなければ、追手にいつかバレるだろう。


「そうだ」


彼はリザのクイーンスイートの扉を叩いた。

「何よ」

「頼みがあるんだ。俺に働き口をくれないか」

「なんなのよいきなり」

「いやさ、この時計を修理したいんだ。俺の祖父の形見でさ、ただの時計じゃないんだよ。多分防水パッキンとゼンマイが壊れてて、でも修理費が・・・。なあ、頼むよ」


リザは、彼が手首に巻いた時計の値打ちに気づいていた。そして、それが壊れていないことも。だが、そのような嘘をついてまでどうして金が欲しいのか?

それが気になり、由衣の嘘に乗ってみようと思った。

「ダメって言ったら?」

「俺しか知らない君の秘密が、ゴシップ誌に漏れちゃうかもな。たとえば、バンクロフト・グループの豪華客船の衛生状況は、ゴキブリがクイーンスイートに出てくるくらい酷い・・・とか」

「私を脅すわけ?」

「お願いだからさ。人助けだと思って」


彼女は観念した。

「わかったわよ。じゃあ、執事にしてあげる・・・どうせ、今のやつにだって休暇は必要だろうし。ただし!もしゴシップが漏れるなら、あなたの乗船記録を船内から抹消してみせるわよ。覚悟しておきなさい」


リザは冷たい声で告げたが、その口元は微かな微笑みが見られた。

彼が「自分が主導権を握っている」と考えているうちに、実際は自分が全て掌握している、という状況を彼女は楽しんでいたのだ。彼女はそういうサディスティックな・・・よく言えば小悪魔的な女性だった。


しかし彼女にはそれ以上の理由があった。彼はゴキブリ退治を嫌な顔ひとつせずに行えるようなお人好しだ。にもかかわらず、交渉を有利に進める強かさも併せ持っている。

このギャップに彼女は惹かれたのだ。


それで話は決まった。彼は職を得て、彼女はゴシップの流出を防いだ。

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