第30話 三ン蛇浜⑤

 古びた座敷牢の格子に体当たりをする。三回目で一部が壊れて、外に出ることができた。全身が痛い。普段の響野きょうのなら諦めて──いや、普段とは、いつのことだ? ここまでの修羅場に巻き込まれたことはなかった。修羅場を安全圏から見下ろして、面白おかしく記事として書き散らかすのが雑誌記者・響野きょうの憲造けんぞうの生き方だったではないか。


「何の音!?」

「記者! 響野憲造!!」


 どうやらこの座敷牢は神社の地下にあるらしい。階段を駆け降りてくる女たちが真っ直ぐに座敷牢の中──夜明だけを残してきた冷たい牢獄に駆け込むのを確認し、響野は震える足で立ち上がる。腕を戒めていた縄も、足首を縛り付けていた縄も、どちらも夜明よあけが解いてくれた。「もう これぐらいしかできないが」と自嘲気味に笑う愛しいヒトガタとはここで永遠の別れになると、理解できないほど察しは悪くなかった。

 夜明──三ン蛇さんじゃはまの蛇神姉妹、その長女に最後に愛されたヒトガタは、響野憲造というニンゲンを座敷牢から逃すために自分を捨てた。

 楓子ふうこの妹たちには、くったりと横たわる夜明の姿が響野憲造として映っているはずだ。


「ちょっと……動かない」

「ああもう、姉様! 人間は脆いとあれほど。これを今ここで死なせるのは、予定が違うでしょう!」

「うるさい! 起きろ、記者! くたばった振りをしても、無駄──」


 階段を駆け上がる。すべては夜明が教えてくれた。灯油缶が幾つも置いてある小さな小屋。響野は真っ直ぐにそこに向かい。灯油缶の中身を神社の最奥──本殿にぶち撒ける。

 ポケットの中に残っていた銀色のオイルライター。いつだったかの年末に泥酔した市岡いちおかヒサシが「友情の証に〜」と言って寄越したものだ。年が明けて暫く経って再会した際、「俺のライター知らない?」と訊かれたが、何を言われているのか分からない顔をしてやり過ごした。


 火を灯したオイルライターを、灯油の海の中に放り込む。

 火の手が上がる。


 こんなものではまだまだ足りない。


 夜明に「記憶しろ」と命じられたから、すべてを必死で頭に叩き込んだ。本殿、拝殿、社務所、それぞれに灯油を巻き、延焼を招き、それから最後に駆け込んだ場所──宝物殿。

 風松かぜまつ楓子ふうこの妹、和服姿の女に見せられた社務所の光景。あれだって大嘘だ。

 所狭しと並べられた目のない人形たち。あれらには何の意味もない。

 東京の風松邸、時藤ときとう叶子きょうこが引きこもっていた飴色の扉の周りに並べられていた目のない人形たちと同じだ。


 本当に意味のあるものは、嘘とは正反対の場所にある。

 寒空の下を突っ走り、宝物殿の扉に手を掛ける。鍵は開いている。

 夜明。

 今頃あの座敷牢も燃えているだろうか。夜明の体は、溶けて消えてしまっただろうか。

 体当たりをして扉を開ける。中には。


「人形……」


 天井から吊り下げられた、巨大な操り人形──木偶でくの姿に、響野は瞬間言葉を失う。

 文字通りの木彫りの人形ではない。頭も、腕も、足も、胴体も──すべてが煤けた骨で作られている。頭蓋骨の形が独特で、人間のそれではないとひと目で理解できる。アレは。


「蛇……!!」


 だが、蛇には腕や脚や手はないはずだ。だから。この木偶の長い腕、巨大な手、渦巻く脚を形造る無数の骨は、人間のそれだ。

 祭りの日に差し出された男児と女児、それに楓子のつがいとして運び込まれた若い男。彼らはそれぞれの役目を──食糧として、或いはつがいとして──を終えた後、骨を、皮を、この宝物殿で活用された。

 夜明が最後に言っていた。

 これは人形劇。

 風松楓子最期の、渾身の一幕。


「燃やせばいいのか? これも……!」


 手が震える。勢いで振り回していた灯油缶が急に重い。オイルライターを放り込んでしまったせいで、今の響野の手の中には『純喫茶カズイ』と印刷された白い小さなライターしか残っていない。

 大きくよろめいて、その場に座り込む。高い天井から吊り下げられた木偶があまりに哀れで──そうだ、終わらせなくてはいけない。


 夜明がそれを望んでいる。


 灯油缶の蓋に手をかけた響野の腕を、焼け焦げた手ががっしりと掴んだ。記者、という低く焼け爛れた声に、全身に鳥肌が立つのがわかる。

 あの座敷牢から抜け出してきたのか。スーツを着ていた方の女の面差しを残した──全身の皮膚が焼け爛れた、腰から上は人間、下は鱗に包まれた蛇、という生き物が、響野の首に手をかける。


「燃やせばいいと、誰に習った」

「っ……離してくださいよ! 今検討中なんだ!」

「妹は死んだぞ。あのくだらない木偶と一緒にな!」

「自業自得でしょうに! 楓子さんが……あんたたちのお姉さんが、こんな場所を出てった理由も分かる気がするよ!」

「おまえに」


 響野の手からライターを取り上げ、遠くに放り投げながら女が喚く。


「何が分かる! ここは私たちの場所だ! 私たちの聖地だ!」

「気まぐれで人間を助けたところまでは、まあ、いい話だったんじゃないっすか……!? でもねその後、あんたたちはただの神聖な生き物から神になりたがった! そのために人間に社を作らせ、祭りを行うように命じた! ……馬鹿みたいだ!!」


 女の腕を振り払い、宝物殿の中に後退りをしながら響野は呻く。


「あんたたちは神でもなんでもない、所詮畜生だ。生贄として差し出される男児と女児だけじゃない。姉の楓子さんとつがった男、それに楓子さんが産んだ卵も食っただろう。その結果が、この木偶だ!」


 大きく腕を広げた響野をじっと見詰めた女が、初めて穏やかな声を吐き出した。


「……なんだ。気付いていたのか」

「はあ……?」

「そうだ。私たちはただの畜生だ。それを神の遣いだ神獣だと持て囃したのはおまえたち人間だ。社を作り、祭りを行い、生贄を差し出すのを、止める理由があるか? ないだろう? 私たちはこの浜の人間たちを守ってやった。あいつらはそれに感謝した。それだけだ。なあ記者。おまえには何の関係もない話だろう。そうじゃないか?」

「どうでしょうね……俺は夜明さんのことも、楓子さんのことも結構好きだったからな……」


 じりじりと半獣の女が近付いてくる。響野は相手と距離を取るために後退りを繰り返し、やがて背中が、骨と骨を繋いで作られた巨大な肋骨に触れる。


「燃やすか? すべてを?」

「夜明さんがそう望んだから」

「木偶の望みを命懸けで叶えるか。愚かだな」

「あんたにも一緒に焼け死んでもらいますよ──


 目を合わせて──呼ぶ。

 瞬間、女の動きが鈍くなるのが分かる。


「な……あ……?」

「これも夜明さんから。。所詮はですからねぇ」


 誰がそうしたのかは分からないけれど、躾からは逃れられない──片頬で笑った響野は腕を伸ばし、半獣の女の二の腕を強く掴む。

 そのまま女を宝物庫に叩き込み、灯油を撒き、捨てられたライターの代わりに──『純喫茶カズイ』と大きく印刷された燐寸の箱を取り出した。


「さようなら、蛇神の一族」


 囁いて、宝物殿の扉を閉める。

 断末魔の悲鳴を聴きながら、煙草に火を点ける。


 夜明のことを、考えていた。

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