「その火を飛び越して来い」


 新潮文庫『潮騒』。税別520円。波を背景に鮮やかに記される潮騒の黒黒とした二文字が目を引く質実剛健な表紙。『その火を飛び越して来い。永遠の青春がここに──。』執筆時の三島は29歳である。


 伊勢湾の小島を舞台に、海の若者新治と、少女初江の純愛を描く。三島由紀夫の言わずとしれた代表作だ。


 知名度も高く、高校時代に何となく捲った国語便覧には『金閣寺』『仮面の告白』と一緒に載っていた記憶がある。

 更に遡れば、連続テレビ小説『あまちゃん』にてヒロインであるアキが炎を飛び越えたり『潮騒のメモリー』にはガッツリ「その火を飛び越えて」とあったりして、それ見ていた頃の私は「何か有名な文豪が元ネタらしい」とぼんやり思っていた。


 それぐらい有名な作品である。


 しかし色々読み終えてから振り返ると、代表作ではあるのだが、同時に異色な作品とも思えてくる。


 まず三島の作品は都会を舞台とすることが多く、地方であっても地方都市だとかが舞台となり、そうでなくとも主役はたいてい都会人である。

 『潮騒』のように都会を離れた小島とそこの住人が主役を張るのは珍しいのではなかろうか。

 第二に、当時人物たちに意地悪さがない。三島の作風で見られる特徴のひとつとして、どんな人物にも何かしらの過失や欠点を持っていてそれが何処かで露わになるところがあり、シニシズムやニヒリズムと語られる。これを私は「意地悪さ」──わざわざ欠点を持たせて、それが目立つように書いてくる三島の意地悪さと捉えているが、『潮騒』には、確かに意地悪な人物はいても、「意地悪さ」の発露は抑えられている。


 何よりも、この物語は、例えば「己の吃音と醜さと金閣寺の美に執着し、金閣寺を燃やさなくてはならないと決意する僧」だとか、「美男子を利用し復讐を果たそうとする老小説家」だとか、「不感症の女に惹かれ、ダムに冬籠もりする御曹司」だとか、そういう常識の世界に存在しないような強烈な個性を持つ存在を、描かない。いや、常識の世界と表現すると語弊があるかもしれない。より適切に言うなれば、『潮騒』の人物は、物語の枠からはみ出さないのだ。物語に要請された役割から逸脱することがキャラクターの強烈さに繋がるとしたら、『潮騒』の人物は皆、そこから逸脱することがない。科学技術と資本主義による近代科の影響を受けることのない、コッツウォルズの風景じみた理想郷のような小島で、理想的な人間によるドラマが起こる。そういう話だ。

 

 正直に言えば、この『潮騒』、現代のエンタメ作品溢れる時代にあって、エンターテイメントとして面白いかと言われれば悩むところがある。


 なぜならこの物語は現代エンタメ作品の有する枠組みから一歩たりとも逸脱しない。言ってみれば全てが予定調和的だ。その枠組みを作った側の作品なのだから仕方ないと言えばそうだけれど。

 

 物語は予定調和から外れた瞬間に加速する。その加速が面白さに大きく影響すると思っている。『呪術廻戦』の話をまた出して申し訳ないが、この漫画は予定調和に反抗しようという姿勢が強く、そこが好きだった(予定調和への反抗が、面白さに直結していたかはともかくとして)。


 『潮騒』は現代エンタメの礎のひとつであるが、礎であるがゆえにどうしても後発の数多のエンタメに、そのエンターテイメント性では劣るところがある。物語は予定調和的で、キャラクターは類型的で、逸脱するところがないから、驚きもない。


 ゾルトラークってやつだ。


 でも。三島を何冊も読んでから『潮騒』を思い返すと、なんだか胸に来るものがある。こういう清明で力強い青春を、何一つ歪ませることなく作り上げてみせることができた日の三島を思うと、心に込み上げてくるものがある。


 物語というものを虚無に放り込んだ11月25日、45歳の三島を知っていると、物語の枠組みにそって丁寧に綺麗に人物や出来事を収めていった硝子細工のような『潮騒』を完成させた29歳の三島が、若々しく、瑞々しく思えてくる。


 その若々しさ、瑞々しさを、彼はどこで失ったのだろうと思うと、なんだろうな。悲しくなる。


 そんな気持ちになる。


 物語そのものの内容は語れない。語るほど私の心は動かされなかったのが正直なところだ。

 けれど作品そのものを語る言葉は溢れてくる。『潮騒』は三島の作品の中でもひときわ異質で、けれどそんな異質さを理性で作り上げた三島のスタイルに気持ちが動かされるからだ。私にとって『潮騒』とはそんな作品だった。




「その火を飛び越して来い」というセリフに代表される『潮騒』の2年後、昭和31年。「火」は小島を離れ、小さな池に立つ仏閣を焼く。


 次回語りたいのは、『金閣寺』だ。

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三島由紀夫30冊読んでみた話 みやこ @miyage

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