第36話
使用人室へ行くとユウはもう部屋に戻っているというので、言われた部屋まで俺は暗澹とした気持ちで向かった。
まずなんて言おう、ごめんなさい、か。
いや大丈夫?だろうか。
俺がナイフを王子の喉元にあてていた時、ユウはどんな顔して俺を見ていたのだろうと記憶を呼び起こしてみるが、なぜかそこだけ靄がかかったように思い出せない。
軽蔑していたか、それとも俺のことなどそっちのけで王子の危機を憂いていたのか。
もっと冷静であればよかったのだが、いや、もし冷静に物事を観察する余裕があって、ユウが軽蔑の表情を浮かべていることに気づいていたなら、自棄を起こして王子の首を掻っ切っていたかもしれない。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、部屋の前までたどり着いた。
今は一刻も早く会って顔を見たいのに、会うのが怖かった。
扉の前でドアノブを握ったまま、これを捻って押して開けるとこの先にユウがいる、捻るとユウがいる、と何度か念じるだけ念じてじっとしていると、部屋から声がした。
「ハチでしょ?入らないの」
彼女は俺が扉の前で手をこまねいているのに気づいたらしい。
無意識のうちに、ドアノブを動かしていたのかもしれない。
「えっと、お、お邪魔します……」
入るとユウがベッドに腰かけて窓の外を眺めている。月明かりに横顔がさらされ、頬に濃い影が落ち、泣いているようにも微笑んでいるようにも見えた。
一番気になっていた右手は、何重にも真っ白な包帯に包まれて自由に動かすのもままならない様子で、だらりと力なくベッドへ下ろされていた。
痛々しい。さっきのあの光景が蘇った。
「ごめんね、ハチ」
ユウが視線を窓に向けたまま、謝った。
そして、こちらを見ようともしない。
「なんでユウが謝るんだよ。俺だろう? 手をそんな風にしたのは」
「ううん。これは私が勝手にしたことだし、いいの。
でもハチ、びっくりしたかなって思って。ごめんね、あんな乱暴な止め方しかできなくて」
「……なあ、ユウ」
なんでこっち見ないんだよ。
愛想をつかしたのか? 俺はもうユウの目に映ることもできないのか?
「ユウ!」
俺は泣き叫ぶような悲痛な声で名前を呼んでユウを抱きしめ、懇願するみたいに膝をついた。
「お願いだから、こっち見てよ」と縋る。
このまま、永遠に目を合わせてくれなかったらどうしようと思うと胸が軋んだ。
怒ってもいい、罵倒してもいい、嫌いになったとしても、それでもいいからこっちを見てほしかった。
俺はこの日初めて、誰かを怖いと思った。
どれだけひどい仕打ちをされても、死にかけても怖いと思わなかった俺は、この日、この瞬間、世界の終りのような絶望感とともに恐怖を知った。
しかしユウは根負けしたように、ゆったりと俺の方に顔を向けた。
「ハチ、私ね多分どんなハチでも好きだよ。私の嫌がることをしたとしても、私はきっとハチのこと嫌いになれない。だから、もうちょっと安心してくれてもいいよ」
よしよしと包帯の巻いていない方の手が頭に乗せられた。
「ユウ……俺もうだめかも」
心臓が変な音を立て、ぎゅっと絞られるような感覚になる。
俺は床にへたり込んで、もう立てそうにない。
彼女の膝に顔をうずめるとユウが心配そうに顔を覗き込む。
「えっハチ? な、泣いてるの?」
「言うな。泣いてない」
「いや、絶対泣いてるよ。……そんなに怖かったの?」
「もう、あんなことしないから。ユウに心配もかけない、から」
包帯を巻かれた手をそっと持ちあげ、そっと口をつける。
「な、なに」
「もう自分を傷つけるようなことはしないって約束して」
「う、うん。もうしない」
「これ、俺のトラウマになってるからな」
「うん」
ユウはしゅんと眉を下げた。
俺はこの人を守る。そして、絶対に手放さないと誓った。
あのクソ王子はむかつくが、ユウに手を出せないように監視を兼ねてしっかり守ってやろう。
そして正々堂々とユウと一緒にいられる道を探す。
そう決心したと同時に、ユウが俺の肩に頭を置いて寝落ちした。
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