第49話◇還暦なのに◇

木村は瑠璃子の先に立って、出口に向かって歩き出した。ホテルの前に停まっているタクシーの前で立ち止まると、木村は乗車を促した。瑠璃子は色々考えるのに疲れ、半ば諦めタクシーに乗ると木村が隣に座った。タクシーに乗り暫くすると、木村は座席の上に置いていた瑠璃子の手に自分の手を重ねた。瑠璃子が驚いて木村の方を向くと、突然唇を合わせてきた。瑠璃子は驚き動揺したが、タクシーの中なので、拒絶する事もできず、されるがままにじっとしていた。

「還暦なのに。」

頭の中で何度も巡った。どのくらい時間が過ぎただろう。木村の唇が離れると、瑠璃子の唇にはたばこの匂いが残っていた。

「運転手が見てるだろうな。」

 瑠璃子は、突然キスをされても、そんな事を考えている冷静な自分に驚いた。さっきまで、遠い切ない思い出に浸っていたからかもしれない。木村は「すみません。」と、言った。

瑠璃子は脳裏に湧いてくるあらゆる言葉を全部飲み込んで、タクシーの外の流れていく街の明かりを見つめていた。タクシーはやっと「れもん薬局」に着いた。十分ほどの道のりがとても長く感じられた。タクシーのドアが開くと、ドアの側に座っていた木村がタクシーを降り、続いて瑠璃子が降りた。木村はアロマボトルの入った袋を瑠璃子に渡した。袋を売登るとタクシーの中での事には触れずに木村に礼を言った。

「ありがとう。アロマボトル見せて貰って連絡します。頑張ってね。」

 木村は深々と頭を下げた後、タクシーに乗り込んだ。瑠璃子は、去ってゆくタクシーを見つめながら、「還暦なのに。」と、呟いた。思いもよらぬ出来事に戸惑いながら勝手口から店に入った。そのまま二階の自分の部屋に行った。部屋に入ると明かりもつけず、ベッドに腰を下ろして後ろに力なく倒れた。

「還暦なのに。」

 瑠璃子の脳裏には同じ言葉しかでて来なかった。予期しない出来事に心ときめかず、静観している自分がいた。アラフィフの扉は勢い良く開いたのに、アラ還の扉は錆び付いているかのように固く、開こうとしなかった。

「恋じゃない。」

 瑠璃子は呟いた。自分より十五歳も年下のイケメンに、好意を持たれても、子犬にじゃれつかれているようで、坂道を転がる様な我を忘れる激しい恋に発展する事が出来ない老いを感じた。暫くベッドに寝転んで、天井を見つめていた。アラフィフの突然訪れた恋愛から十年が経って、相手の向こう側を見られるようになった。恋愛は場合によっては自分達だけの話では済まない。周りが目に入らず、つっぱしった過去を振り返り、「向こう側にいる人を傷つけてはいけない。」そう言う思いが強く瑠璃子を包んでいた。

「疲れた。」

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