第37話 神保株式会社の闇
神保株式会社は、社員の顔を見ている余裕がないほど忙しく、冷徹な効率主義が支配する企業だった。新しく入社したばかりの若者、佐藤悠斗もその一員だった。大学を卒業したばかりで、初めての社会人生活に胸を躍らせていたが、彼が思い描いていた職場環境とは、まったく異なるものだった。
初めての朝、オフィスに足を踏み入れると、暗い雰囲気が漂っていた。会議室には、会社の上司や先輩たちが集まっている。どこか疲れた顔をしているが、その表情からは、長い間この場所での仕事に慣れ切っていることが伺えた。
「佐藤くん、自己紹介をしてもらおうか」
上司の神保健一が低い声で言った。彼の声には無機質な冷たさがあり、佐藤はその圧力を感じた。周囲の目線が一斉に集まり、彼は軽く肩をすくめながら、立ち上がった。
「えっと、佐藤悠斗です。よろしくお願いします」
短く、ぎこちない自己紹介を終えた瞬間、神保は不快そうに眉をひそめた。
「自己紹介がそれだけか?もっとしっかり自己アピールしろよ。これじゃ全然ダメだな」
佐藤は驚き、言葉を失った。自分でも緊張していたし、上手く話せなかったことはわかっていた。しかし、神保の一言は、それだけで終わらなかった。
「お前、こんなんでうちの会社で生き残れると思ってんのか?こういう態度じゃ、すぐに辞めることになるぞ」
佐藤は心の中で何かが折れる音を聞いたような気がした。しかし、彼はその場で反論することもできず、黙って座った。その時、他の社員たちも視線をそらし、何事もなかったかのように振る舞い続けた。まるで、この光景が日常であり、誰もそれを問題視しないかのように。
数週間が過ぎ、佐藤は次第に神保株式会社の冷徹な業務環境に慣れていった。毎日のように膨大な仕事量が与えられ、終わりの見えないタスクに追われる日々が続く。だが、彼が最も恐れていたのは、業務そのものよりも、その背後で暗躍していた「空気」だった。
ある日のこと、会議室でのプロジェクトの進行を巡って、神保が強い口調で社員たちを叱責していた。
「お前ら、どこまで遅れを出せば気が済むんだ!時間に対する責任感が足りない!何度言えばわかる!」
佐藤は、その口調に圧倒され、背筋が冷たくなるのを感じた。周囲の社員たちは、誰一人として反論することなく、黙ってその言葉を受け入れていた。その様子に、彼はますます自分の立場が弱いことを痛感した。
「佐藤、君もだ。お前、意見があるなら言えよ。黙っているくらいなら、辞めたほうがマシだぞ」
神保が佐藤を指名した。佐藤は驚いて顔を上げると、周りの目が一斉に彼を見つめていた。そのプレッシャーに押しつぶされそうになり、彼は何も言えなかった。
「…な、何もありません」
その瞬間、神保は冷笑を浮かべた。
「何もない?そんなことはないだろ。お前が意見を言わないのは、ただの逃げだ」
その言葉が、佐藤の胸に突き刺さった。言葉を交わすことすら許されず、ただ黙っていることが求められる。これが、この職場のルールだった。
その後も、佐藤は神保の怒声に耐え、ひたすら仕事をこなす日々が続いた。だが、次第に彼はあることに気づき始めた。神保には、ただのパワハラだけでなく、モラハラも日常的に行われていたのだ。
ある日、佐藤が先輩の鈴木と一緒に昼食を取っていると、鈴木がふと呟いた。
「佐藤くん、気をつけたほうがいいよ。あの人、神保さんのやり方を受け入れられないと、どんどん追い詰められるから」
「でも、あんな言い方をされたら、誰だって…」
「分かるよ。でも、あれが普通だと思って我慢するしかないんだ。意見を言う勇気がないやつは、いつまでもモヤモヤするだけだよ」
鈴木の言葉には、どこか諦めが含まれていた。そのとき、佐藤は自分が想像していたよりもずっと深刻な状況に置かれていることを実感した。この会社では、無言で耐え続けることが美徳とされているようだった。
日々の業務に追われ、神保の圧力に晒されるうちに、佐藤の心は次第に壊れていった。ある晩、彼は疲れ切った体で自宅に帰る途中、ついに限界を迎えた。
「どうして、こんなことをしているんだろう…」
独り言を呟きながら歩き続けると、突然、胸の奥から怒りがこみ上げてきた。自分が無理に我慢し続け、他人の言動に耐えてきたことが、こんなにも理不尽だと感じた瞬間だった。
その夜、佐藤は決意した。このままではいけないと、何かを変えなければならないと。
翌日、佐藤は神保の元へ足を運び、心を決めて言った。
「神保さん、もう我慢できません。これ以上、この職場で働くのは無理です」
神保は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷笑を浮かべた。
「辞めるのは自由だが、君が言うことを聞かなかった結果、どうなったかはわかるだろうな?」
だが、佐藤はもう後ろを振り返ることはなかった。彼は会社を辞めることを決意し、新たな一歩を踏み出した。
その後、佐藤は新しい職場で、より健全で、意見を尊重し合える環境を見つけることができた。彼はその経験を胸に、パワハラやモラハラに立ち向かう強さを身につけていった。
神保株式会社は、相変わらず厳しい環境を保っていた。だが、佐藤のように心を閉ざさず、声を上げて変化を求める者が現れたとき、少しずつその温度は変わり始めるだろう。どんなに強大な力でも、無視され、無言で耐え続ける人々が声を上げた時、ようやくその悪しき慣習は終わりを迎えるのだ。
佐藤はそう信じて、次の一歩を踏み出していった。
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