第33話 楽園の一部
首田は昔を思い出していた。あの不気味な道具は手放してしまったが、今は楽だった。介護士をしている。
首田がその店に足を踏み入れた瞬間、奇妙な空気に包まれた。薄暗い店内には、奇怪な道具や古びた装飾が無造作に並べられており、何か不穏な予感を感じさせる。まるで時代が停滞したかのような、異世界の片隅に迷い込んだような感覚があった。
店の奥に座っている老人は、目を閉じて何かを呟いている。首田は最初、ただの年老いた店主かと思ったが、目を凝らしてみると、その顔つきにどこか見覚えがある。しばらくすると、その老人が静かに顔を上げ、目が合った。彼の目には、どこか冷徹で鋭い輝きが宿っている。
「君が来るのを待っていた」
その一言に、首田は息を呑む。どうしてそんなことがわかるのか。そのとき、老人が自ら名乗り出る。
「私は赤染悪右衛門。豪商として名を馳せ、そして、地獄から蘇った者だ」
首田の心臓が一瞬、止まりそうになった。赤染悪右衛門。彼の名前は、どこかで聞いたことがある。あの時代の悪党、商人たちの暗黒の象徴。しかし、そんな人物が「地獄から蘇った」とはどういうことだろうか?首田は思わず尋ねる。
「地獄から蘇った…? それって、どういう意味なんですか?」
悪右衛門は笑みを浮かべながら答える。
「我が人生、ただの商売に終わらなかった。私が死んだ後も、その影響は今も残っている。そして、今この店で見えるもの、これらはただの道具ではない。私が生前集めた『不正』の証、そして『楽園』へ至るための鍵だ」
首田の背筋が寒くなった。店内のアイテムがただの奇妙な物ではなく、何か大きな秘密を抱えていることが感じ取れた。そして、悪右衛門の言葉通り、彼が何らかの力を持っていることは間違いないと直感した。
「君もこれから、この『楽園』の一部になるのだ」
その言葉に、首田は身体を硬直させた。
首田は、赤染悪右衛門の言葉が頭の中で何度も反響する中、ふと過去を思い出していた。あの頃の自分は、まだ若く、無謀で、人生に対する疑念を抱えながらも常に新しい冒険を求めていた。そして、あの古びた道具—奇妙なアイテムの数々—を手に入れた時、自分も何か特別な力を得られると信じていたのだ。
だが、その道具はすぐに首田の手に余るものだと気づいた。力を持つということが、いかに危険であるかを肌で感じた。今では、それらをすべて手放し、普通の人々と変わらぬ日々を送っている。介護士として、誰かの命を預かる仕事。穏やかな生活を求め、過去を封印したつもりだった。
「もう、あんなことは二度とない」首田は心の中で呟く。
今の自分には、他人を支え、癒やすという役割がある。老いたり病んだりした人々に寄り添い、彼らの最後の瞬間まで穏やかに過ごせるよう手を差し伸べることが、首田の人生の全てだと思っていた。過去の出来事は、まるで遠い夢のように感じられた。しかし、目の前にいる赤染悪右衛門の存在が、再びその封印を破ろうとしているかのようだった。
首田は顔を上げ、悪右衛門の冷徹な目を見つめた。
「あなたは、もう何も私に関わることはない。私は普通の生活をしている。過去には戻りたくない」
悪右衛門は静かに笑った。その笑顔は、ただの薄ら笑いではなく、まるで彼の過去と未来が交差する瞬間を知っているかのような、どこか悟ったようなものだった。
「君がどんなに逃げようとしても、この『楽園』の力は君を離さない」
首田は強い決意を胸に抱いた。自分はもう、あの闇の中には戻らない。そして、あの不気味な道具がもたらしたものの恐ろしさを知っている今、再びそのような力に引き寄せられることはないと、心の底から誓った。
だが、悪右衛門が指差す先には、またしても不気味な道具たちが並んでいる。その中には、首田がかつて持っていたものも混ざっているのを見て、彼の胸は一瞬、激しく鼓動を打った。あの道具がもたらした不安と恐怖が、再び彼を取り巻こうとしているような気がしてならなかった。
「楽園に入るか、出るか。それは君の選択だ」
悪右衛門の声が低く響いた。
首田は再び考え込んだ。自分の過去を背負いながらも、それを切り離すことはできない。そして、この老人が言うように、楽園に足を踏み入れることが本当に自分の望む未来なのか。いや、どうしてもそんなことは信じたくなかった。
だが、悪右衛門の言葉は無情にも耳の中でこだまする。
首田は深く息を吸い込み、店を出る決意を固めた。人生を変える選択肢が目の前にあるとしたら、もう一度その運命に立ち向かう覚悟を決める時が来たのかもしれない。
首田は深く息を吸い込み、目の前に広がる不気味な道具たちを一瞥した。どれもこれも、彼がかつて手にしたもの、そして放棄したものだ。それらが今、再び彼の前に現れる理由がわからない。しかし、心のどこかで、彼が逃げることができるならそれが一番だと思っていた。
だが、悪右衛門の冷徹な視線が首田を引き寄せる。あの道具たちが彼にとって、過去の罪の証であり、今もなお恐ろしい力を宿していることは間違いない。首田はかつてそれらに手を出し、深い闇に引き寄せられた。その結果、最愛の人々を傷つけ、自分自身も壊れかけた。しかし、今の自分にはその過ちを償い、他者を支える使命があるのだ。
「もう戻れない」首田は心の中で誓った。その言葉を胸に、足を一歩踏み出す。
だが、悪右衛門の声が再び耳に届く。
「君が逃げることはできない。楽園への扉は、もう開かれているんだ」
首田は立ち止まり、振り返った。悪右衛門が指差す先には、道具の数々がまるで生き物のように揺れ、彼を誘っているように感じた。それらの道具の一つ一つが、かつての自分を試し、誘惑してきたことを思い出す。
「あれを再び手にしたところで、君は何も得られない」首田は冷静に言い放った。「それらに戻れば、また私の命を奪われることになる。私が求めているのは、力ではなく、平穏だ」
悪右衛門は静かに微笑んだ。その微笑みは、まるで首田の心の奥底を見透かしているかのようだった。「平穏? 君が求めているのはただの逃げ道だろう。だが、君の心の中には、あの道具を再び手にしたいという欲望が眠っている。それが君の本当の望みだ」
その言葉に、首田は思わず反応した。欲望。それは確かに、過去の自分の中に根深く刻まれていた。力を得ることで自分の無力さを埋め、世界を支配するという幻想に囚われていた。しかし、今やその欲望は彼にとって、恐怖と後悔しかもたらさなかった。
首田は自分の胸を強く握りしめ、悪右衛門に向き直った。「もう終わりだ。私は何も求めない。私はただ、他者を支えることだけを望む」
悪右衛門はしばらく黙って首田を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。「君がそれを望むなら、私はもう何も言わない。ただ、君の選んだ道を進みなさい」
首田はその言葉に何も答えず、店を出ようと歩き出す。外の空気は冷たく、彼の心にひとしずくの安堵をもたらした。しかし、その安堵も長くは続かなかった。足元に何かが引っかかり、首田は一瞬、足を止める。
振り返ると、店の入り口には何もなかったはずの道具が、一つ、また一つと現れていた。それらはまるで生き物のように首田を見つめ、彼を引き寄せようとしている。首田は胸の奥から湧き上がる恐怖を感じ、足早に店を離れた。
だが、その後ろで、赤染悪右衛門の声が響く。
「君が逃げられないことを、君自身が理解する日が来るだろう」
首田はその声を背後に感じながら、街の喧騒へと足を踏み出した。彼の中に、何かが動き始めていた。それは過去の影、決して消え去ることのないもの。そして、今度はそれと向き合う覚悟を決めたのだ。
未来がどうなるか、今はまだわからない。しかし、彼は一つだけ確信していた。過去を乗り越え、真の平穏を手に入れるためには、もはや逃げることはできない。そして、赤染悪右衛門の「楽園」に待ち受ける試練を乗り越えなければ、真の解放には至らないことを。
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