第20話 最終章

 宮本武蔵


 大坂の地である。


 現在は大阪おおさかだが、当時は大坂おおさかと書いた、読み方は同じ(おおさか)だ。


 慶長けいちょう 十九年(1614年)十一月、宮本武蔵は、大坂に居た。


 大坂冬の陣である。


 豊臣方九万の軍勢ぐんぜいに対して、徳川方の軍勢は二十万だったとされて居る。


 緒戦しょせんは十一月十九日、木津川口きつかわぐちとりでにおいて始まる、この日より大坂冬のじん開戦かいせんしたのである。


 武蔵は雑兵ざつへいと共に、大坂城の中に居た。


 宮本武蔵ほどに名が売れている兵法者ひょうほうものであっても、豊臣家とよとみけに置いては、雑兵として扱ったのである。


 武蔵は自尊心プライドを大いに傷つけられたが、万を超える合戦に、兵法者はそれほど重要視じゅうようしされて居なかったのだ。


「宮本武蔵が豊臣家の為、そんじた」


 自信満々じしんまんまんに名を告げた武蔵に対して、豊臣家の役人がしたのは、名記台帳に記載きさいする事と、いくらかの銭を渡したことだけだ。


 その後で、ほかの浪人達ろうにんたちと同じように列に並び、雑兵が身に着ける甲冑かっちゅう(傘と同丸)を貸し与えられた。


 武蔵は落胆らくたんしたが、いざ合戦が始まり、兜首かぶとくびの二、三、でもげれば立場も上るだろうと思い直した。


 しかし開戦かいせんが始まって見ると、大坂城の中に居た武蔵に活躍かつやくの場はなかった。


 籠城戦ろうじょうせんなのだ。


 他の雑兵と共に大坂城の中を、右へ走り、左へ走りをしただけだった。


 結局武蔵は何も出来ぬまま、冬の陣は和議わぎで終わった。


 武蔵は夢破ゆめやぶれ、失意しついのまま大坂城を後にするしか無かった。


 この後、大坂夏の陣が起り、豊臣家は滅亡めつぼうするのだが、武蔵は夏の陣には参戦さんせんする事はなかった、前回の冬の陣の時に己の自尊心を大いに傷つけられたからだ。


 武蔵の孤独こどくの旅はまだ続く。


 武蔵は晩年ばんねん、島原の乱にも参戦する事に成るのだが、その時も天草四郎あまくさしろうこもる原城を包囲ほういしている時に、信徒しんとが投げた石礫いしつぶてに当たり怪我を負って、退散たいさんする羽目はめに合って居る。


 兵法者として、その名は天下にとどろき、天下無双てんかむそうとまでうたわれた宮本武蔵であったが、生涯しょうがいに起こった大きな戦、関ヶ原の合戦、大坂の陣、そして島原の乱と、どれをとっても、その名はるわなかった。




 柳生兵庫助


 安芸の国、宮島にある厳島神社への参拝さんぱいを最後に、諸国巡遊しょこくじゅんゆうの旅を終えた。


 その後兵庫助は、尾張徳川家おわりとくがわけつかえることに成る。


 駿府すんぷに居た、徳川家康より直々に義直(尾張徳川家、尾藩藩主)の師範しはんとなるよう要請ようせいされたと言う。


 兵庫助はこれを受け、尾張藩剣術指南役おわりはんけんじゅつしなんやくとして、尾張に屋敷やしきかまえ、生涯しょうがいをその地で送るのである。


 剣術指南役としての支給しきゅうは五百石だった。


 徳川将軍家の剣術指南役が、叔父おじの柳生宗矩であり、尾張徳川家の剣術指南役の兵庫助は同じ柳生新陰流、これをして、江戸柳生、尾張柳生と分けて呼ばれる様になる。


 宗矩と兵庫助は仲が悪い。


 その為、江戸柳生新陰流と尾張柳生新陰流とは、江戸時代を通じて、一切の交流こうりゅうは無かったと言う。




 小坂部姫


 小坂部は、今日も姫路城城主ひめじじょうじょうしゅ寝屋ねやたずねた。


「良いか、わらわは神じゃ、この姫路城を守る神じゃ、鬼神じゃ、決して妖怪などと呼ぶでないぞ、わかったの」


 忠政は、ただただひれしている。


「わかったのかと聞いて居ろう」


 小坂部は忠政の顔をのぞき込む。


「解って居ります、小坂部姫様は神です」


 びくりとして忠政は叫ぶ様に言った。


「じゃあなぜやしろを作らぬのじゃ」


「はあ」


「なぜ神社じんじゃを作らぬと言っているのじゃ」


 小坂部は大声で言った。


「ひっ、は、はい、ただちに作らせます」


 天守閣最上階てんしゅかくさいじょうかいには刑部神社おさかべじんじゃ(小坂部神社)は現在も存在している。


 小坂部の言う通り、姫路城は不落の城となった。


 一度も焼け落ちてない。


 時が進み、日本が戦時下せんじかであった時も、姫路城は焼けなかった。


 幾度いくどかの改修工事を重ねては居るが、今現在も唯一現存ゆいいつげんぞんする城の一つとして、ユネスコの世界文化遺産として登録されて居る。


 姫路城は本当の不落城になったのだ。


 小坂部は今でも、約束を守り続けている。




 十八世紀後半に著された、「兵術要訓」と言う書物の中に、宮本武蔵と柳生兵庫について、こんなくだりがある。


 宮本武蔵が尾張を訪れた際に、城下で柳生兵庫助とすれ違った。


 その時、武蔵が兵庫助に


「久々にて活きた人を見た。 あなたは柳生兵庫助ではないか」


 とたずねると、兵庫助は


「そう言うあなたは、宮本武蔵ですね」


 と答えたと言うものがある。


 武蔵はそのまま兵庫助の屋敷に滞在たいざいしたと言う。


 武蔵と兵庫助は、共に酒を飲み、囲碁いごを打ったりして過ごしたが、最後までお互いの剣術は、見せることの無いまま別れたと言う。




 それはそうであろう、見せないまでも、お互いの剣術は承知しょうちして居たのだから……

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