炊煙の立ち昇る河川敷で、彼らはしばし方向感を見失った。

 なぜ、こんなところに薫子がいる? 彼女の目的は……。


 薫子は冷たい目でアキを見つめている、ような気がする。

 彼女に愛されていた自信はあるが、時に愛は、より以上の憎悪へと取って代わる。

 真正面から伸びてきた指が、アキのヒゲもじゃのアゴに触れた。アキはわずかに血管が浮いたことを自覚する。


「おひげ、剃りはったらいかがどす。せっかくのアゴが、ちいとも見いしまへん」


 薫子は心底から言っているのだろうが、アキにとっては猛烈な皮肉だ。


「うるせえ! ケツアゴ言うな!」


「……ゆうてまへんが」


 彼女は特殊な性癖の持ち主で、とくに「ケツアゴ」に対して妄執に近い性的嗜好を有していることを思い出した。

 いや、おどろくにはあたらない。鎖骨が好きとか、膝を舐めたいとか、首を絞めてとか、変なフェチの女はこの世にゴマンといるのだ。


 アキ自身、見た目はまあまあだと自覚している。

 尋常ではないケツアゴがコンプレックスだったが、学歴のおかげで磨きがかかり、モテ度は上位だった。


 もちろん過去形だ。三十代の坂を転がり落ちている現在、苦労の多かった生活のせいもあり、劣化が著しい。

 頭髪はだいぶM字化が進んでおり、遺伝子的にも、すっきりさわやか頭皮が約束されている。が、まだヘアスタイルで遊べる程度の量はあるし、ホームレスという環境のおかげか、肥満は避けつつ、ホームレス狩りに対抗できる程度の筋力は保持している。


「そろそろ手を放せ、薫子」


 客観的には、相手のアゴをつかまえてイワしている体。


「よろしおす。アゴの話できたわけやあらしまへん」


「あたりまえだ! ……俺も一応、人間の心はもっている。お悔やみ申し上げるよ」


 努めて冷たく言い放つアキのことばに、


社交辞令は結構どす。……アーさん、すこうし力、貸しとくれまへんか」


 アーさん。懐かしい呼ばれ方だ。


「いまさらなんだよ。渡会博士が死んだときだって、顔を見せなかったじゃないか」


「アーさんこそ」


「見せられるかよ!」


 会社をクビになり、結婚も破綻して、再就職もままならず、ホームレスまで堕ちた元旦那です、と自己紹介して元義父の葬儀に出席できるほど、トンチキではない。

 それでも彼女が、ここにこうしてやってきた。相応の理由を想定すべきで、まずはそれを訊くべきなのだろうが、どうも頭が混乱して優先順位がつけられない。


 堕ちるところまで堕ちた元旦那を救い出しにきてくれた救世主のようにも思えるが、すなおにそう信じられるほど呑気にもなれない。

 そのとき彼は白ヒゲに呼ばれ、そちらに顔を向けた。


 いつのまにかテントから秘蔵の日本酒を持ち出し、猪口に中身を注いで、アキに差し出す。その行動は唐突のように見えるが、当然そうなるべき流れを踏まえているだけのようにも思えた。


んだろ。


 すとん、となにかが腑に落ちる感覚。鬱血していた血管の栓が外れ、じわりと循環を再開するかのごとき温かさをおぼえる。

 ──そうか、俺はのか。


 先刻承知の白ヒゲに、曰く言いがたい感情をおぼえたが、その気持ちはありがたく受け取る以外にない。

 うなずき、一気に猪口を空ける。空きっ腹に心地よく落ちる銘酒。


「なにがあっても、礼にはくるよ」


「二度とくるな、ここはおまえのようなやつのいるところじゃねえ。やれるさ、おまえなら、なんでも小器用にな。……おまえの私物はみんなで分けるぜ」


 白ヒゲは肩をそびやかして言い、踵を返した。

 もどってくる場所を奪われるような危惧もおぼえたが、そもそも、もどりたくない場所のはずだ。


 白ヒゲも、おそらく見透かしていた。そんなに根性のある人間ではない、と。

 死ぬような気候に身をさらしつづける覚悟も余裕もない。制度を調べ、折り合いさえつけば、屋根のあるところへ行くことは意外なほど簡単だ。


 腰掛けのつもりだろうと、よく言われた。そのとおりだった。

 そもそも本腰を入れて、ホームレスをやりたい人間などいるのか? のが、ホームレスってもんだろ。


 ほんとはもっと早く、出て行くはずだった。

 予定が狂ったのは、渡会博士の死によってだ。

 あれから、いろいろ考え直さなければならないプランに追われ、もしかしたらここで一冬を過ごさなければならなくなるかもしれない、という最悪のケースも考えた。


 だが、こうして薫子がやってきた。

 どういう理由かはまだわからないが、追い手に帆かけて、だ。

 アキは薫子の背を追い、ゆっくりと歩き出した。


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