3
天気は夕方から崩れはじめた。
最初に彼女を見つけたのは、白ヒゲだった。
眉根を寄せ、うさんくさそうな目で堤防のうえを見上げている。
そこにはタクシーのハザードらしい点滅をバックに、人影がひとつ。
和傘を差した、落ち着いた和服の女。
アキと白ヒゲが並んで眺めていると、気配を察知したホームレスたちも数人、何事かと寄ってきた。
まるで予定調和のように、全員が、アキと白ヒゲの立っている場所を目指して雲集する。
と、アキは白ヒゲ以上に複雑に表情を変え、ただごとではないようすで立ち尽くした。
いつのまにか横にいたヤマさんが、不思議そうに彼を眺めていることにも気づかなかった。
上方ふう、というよりは王道の京女。きめの細かい、うりざね顔の、そうとうな美人。淡い色彩の西陣を着こなし、日本髪に結い上げた頭には真珠のかんざしが光る。
──
アキは、彼女を知っている。
遺伝子の半分は、たしかに京女だ。ユダヤ人ふうに言えば、父親が京男である以上、生まれついての京都教の信徒ということになる。
が、母親はダ埼玉出身で、垢抜けない田舎者。もともと外科医の女傑だったが、諸般の事情から、現在は家庭に引きこもっている。
日本が誇る偉大な数学者である父親は、つい一か月ほどまえに亡くなり、たいへんなニュースになった。
この事実は、アキ自身にも重大な鬱屈と、発想の転換をもたらした。
ともかく薫子は理系どまんなかの血統であり、さしずめ有能なリケジョかと思いきや、モデルをしながら農業をやる、という地に足の着いた(?)女に成り下がっている。
農業といっても、数日ごとに畑を見回る程度の家庭菜園的な自然農法、自家消費だけをもくろむ「ナンチャッテ農家」だ。
アキが看破するまでもなく、要するにファッション。
「おい、アキ」
ヤマさんに肘でつつかれ、アキはしかたなく口を開いた。
「なんの用だ、
声の届く距離まで寄ってきて足を止めた彼女が、彼のことばを待っていることは明白だった。
この場にふさわしい文句ではなかったが、目のまえの京女は如才なくほほえみ、手にしていたきれいな紙袋を、横にいるヤマさんに手渡した。
「おおきに、うちのひとがお世話んなって。こちら、おみやどす、皆はんで召し上がっとくれやす」
女を見慣れない、というよりも根源的に縁遠い薄汚れた男たちの大半が、もっていかれている。そこはかとない、はんなりさんの感染拡大だ。
薫子め、えげつない京都弁の使い方をしやがる……。
「思い出した、ニュースで見たことある、渡会博士の娘さんですよね?」
ホームレスのひとりが言った。
当然、日本人ならたいてい知っているフィールズ賞およびノーベル物理学賞受賞者、渡会博士は京都が誇る偉人だ。
「つまり、アキの元嫁ってことかよ」
ヤマさんのことばに、ざわめきが広がった。
そうだ……俺は一年まえまで薫子と結婚していて、九か月まえまで京都の誇る世界企業ザイオンに籍があった。
すべてを失うまえ、アキはすべてを持っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます