天気は夕方から崩れはじめた。

 最初に彼女を見つけたのは、白ヒゲだった。

 眉根を寄せ、うさんくさそうな目で堤防のうえを見上げている。


 そこにはタクシーのハザードらしい点滅をバックに、人影がひとつ。

 和傘を差した、落ち着いた和服の女。

 アキと白ヒゲが並んで眺めていると、気配を察知したホームレスたちも数人、何事かと寄ってきた。

 まるで予定調和のように、全員が、アキと白ヒゲの立っている場所を目指して雲集する。


 と、アキは白ヒゲ以上に複雑に表情を変え、ただごとではないようすで立ち尽くした。

 いつのまにか横にいたヤマさんが、不思議そうに彼を眺めていることにも気づかなかった。

 上方ふう、というよりは王道の京女。きめの細かい、うりざね顔の、そうとうな美人。淡い色彩の西陣を着こなし、日本髪に結い上げた頭には真珠のかんざしが光る。


 ──薫子かおるこ

 アキは、彼女を知っている。


 遺伝子の半分は、たしかに京女だ。ユダヤ人ふうに言えば、父親が京男である以上、生まれついての京都教の信徒ということになる。

 が、母親はダ埼玉出身で、垢抜けない田舎者。もともと外科医の女傑だったが、諸般の事情から、現在は家庭に引きこもっている。


 日本が誇る偉大な数学者である父親は、つい一か月ほどまえに亡くなり、たいへんなニュースになった。

 この事実は、アキ自身にも重大な鬱屈と、発想の転換をもたらした。


 ともかく薫子は理系どまんなかの血統であり、さしずめ有能なリケジョかと思いきや、モデルをしながら農業をやる、という地に足の着いた(?)女に成り下がっている。

 農業といっても、数日ごとに畑を見回る程度の家庭菜園的な自然農法、自家消費だけをもくろむ「ナンチャッテ農家」だ。

 アキが看破するまでもなく、要するにファッション。


「おい、アキ」


 ヤマさんに肘でつつかれ、アキはしかたなく口を開いた。


「なんの用だ、薫子カオ


 声の届く距離まで寄ってきて足を止めた彼女が、彼のことばを待っていることは明白だった。

 この場にふさわしい文句ではなかったが、目のまえの京女は如才なくほほえみ、手にしていたきれいな紙袋を、横にいるヤマさんに手渡した。


「おおきに、がお世話んなって。こちら、おみやどす、皆はんで召し上がっとくれやす」


 女を見慣れない、というよりも根源的に縁遠い薄汚れた男たちの大半が、いる。そこはかとない、はんなりさんの感染拡大だ。

 薫子め、えげつない京都弁の使い方をしやがる……。


「思い出した、ニュースで見たことある、渡会博士の娘さんですよね?」


 ホームレスのひとりが言った。

 当然、日本人ならたいてい知っているフィールズ賞およびノーベル物理学賞受賞者、渡会博士は京都が誇る偉人だ。


「つまり、ってことかよ」


 ヤマさんのことばに、ざわめきが広がった。

 そうだ……俺は一年まえまで薫子と結婚していて、九か月まえまで京都の誇る世界企業ザイオンに籍があった。

 すべてを失うまえ、アキはすべてを持っていた。

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