第二章
1
乗り込んだタクシーの後部座席に、並んで座る元夫婦。
「下鴨へ」
薫子の声に応じて静かに走り出す車内に、しばし沈黙が降りた。
メーターはすでに三千円超の料金を示していたから、おそらく四条烏丸の自宅か京都駅あたりから乗った。
目的地に下鴨を告げたということは、目指すは実家だ。
ここからだと三十分くらいだろうか、一万円でおつりがくるかな……。
「なにを考えているのですか、アーさん?」
軽い嘲弄を帯びて響く薫子の問いに、アキは貧乏性な
「うるさい、俺は宵越しのゼニを持たない身分だ、江戸っ子だからな」
まさか「タクシー代を払え」などと言われるわけもなく、そんなくだらないことを想像している時点で、どうかしている。
「ご心配なく、アーさんにゼニを求めるつもりは、さらさらありません」
薫子の口調は、完全な標準語にもどっている。
アキは鼻白んだように、その美しい横顔を一瞥した。
「あいかわらず巧妙なビジネスはんなりだな、薫子」
地方色、というビジネス。
京都それ自体が観光資源であることを、だれより地域住民が思い知っている。
「みなさん好きでしょう、京言葉」
鉄壁の東京弁を踏まえて、方言を売り物にする女。
アキは苦虫を噛み潰す。方言男子の弱みにつけこまれ、当時、女子力全開の薫子に惚れたのは、たしかに彼のほうからだった。
ふと、アキは最初からタクシーの足元にあった小さな紙袋に目を止め、
「桔梗屋か?」
「ええ、いただきました。新製品らしいですよ」
ホームレスたちに対しては定番の高級品を与え、自分のところにサービスでもらった新製品を残しておいた、ということのようだ。
アキは無遠慮にその紙袋を手に取り、包装を引き破った。
「こんなもん、どこがうまいんだ」
皮の薄い饅頭を口に放り込む。
──ひたすら甘い。
「アーさんが和菓子の奥深さを理解できるまでには、まだ時間がかかるでしょうね。うちで採れたお野菜も、使ってもらっているんですよ」
和菓子と自然を愛するヴィーガン、自家で採れた豆や京野菜を近所の老舗に流して、高級和菓子をゲットする姿勢はあいかわらずのようだ。
「なにが和菓子だ、しょせん砂糖のカタマリだろ。京野菜? だいたい成分はおんなじだ。出身地とか地方色とか、くだらねえ。おまえんちの親だって
一般にいい組み合わせとされているのは「東男に京女」だが、薫子の両親は逆だ。
そもそも芸の相性を詠った川柳が由来だが、いろいろな意味が寄せ集められて現在に至っている。
もちろん、さしたる意味のない戯言だ。
どこの人間だろうが、うまくいく夫婦はうまくいくし、ダメなものはダメなのだ。
「そうですね、そういう問題ではないです。夫婦は力を合わせ、お互いを補いながら、ともに幸せを目指すもの。一方的な関係になってしまっては、成立しません。たとえば片方が、夫婦で築いた全財産まですっきり吹っ飛ばしてくれたり、ね」
冷たい目でアキを見つめる薫子。
ぐさりと突き刺さる。
──たしかに、あれについては俺がわるかった。
鳴り響く追証アラートに包まれながら、モニターを眺める自身の背中に流れる冷たい脂汗の感触は、なかなか忘れがたい。嫁名義の通帳まで空にしたのだから、損害賠償請求されてもしかたのない案件だ。
昨今の新型伝染病で乱高下する相場に「目がくらんで」短期売買をくりかえし、莫大な損失を出した。
それでも趣味でお金を配りつづけられる資産家もいるようだが、アキのような小市民の生活を破綻させるにはじゅうぶんな衝撃だった。
自分の金はなくなっても、生活する金ならある、妻の実家に──という「甘え」があったことも否定しない。
彼がここまで堕ちた理由のひとつだ。
「うまくいくときは、うまくいくんだよ。勝敗は兵家の常っていうだろ」
想像しづらいが、勝つ可能性はゼロではなかった……はずだ。
いまさらそんなことを言うアキに、薫子はあきれたように嘆息した。
「結局、なんでもやってみたいひとなんですよね、アーさんは」
──こいつは俺のことを、それなりに理解してくれている。だからこそ、まさかそう簡単に捨てられるとは思っていなかった。
アキは複雑な内心を吐露するように、
「ヨリをもどしたいのか、そうだろうな、おまえって女は」
そこまで言って、息を呑んだ。
薫子の視線が、おそろしく冷たいままだったからだ。
いぜんとして真意は読めないが、そういう呑気な話でないことだけは、まちがいなさそうだ。
タクシーは東大路通から五条バイパスへ。
いつのまにか雨は激しさを増している。
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