東大出の晶。

 新しいコミュニティに混ぜてもらうのに、わかりやすいキャッチコピーが役立ったことは、事実だ。

 べつに大学なんてどこだろうと、せいぜい選択肢が広がるという効果しかないが、うまく利用できるに越したことはない。


 お金持ちでも、貧乏でもない家庭に育ち、一応は序列トップの大学へはいった。

 金に飽かせて受験テクニックをたたき込める上流階級が東大に行く、みたいに言われることもあるが、昔よりそういう傾向が強くなったことは事実でも、中の上くらいの収入がある家なら、ふつうに行ける。


 アキ自身、なんでも小器用にこなせるタイプだった。

 スポーツ教室や英会話、ピアノに塾に部活、いろいろ「がんばっている」子。こざかしいのでテストでは要領よく点をとり、リア充カーストにも組み入れられていた。


 気心の知れた友人と、盗んだバイクで走りだすような悪さをしたこともあったが、捕まったのは要領のわるいアホだけだった。

 内申を危険にさらしたくないので、そいつとは二度と話さなくなった。

 全体的に友達は、まあ多いほうだと思っていた。


 ……ほんとうの友達? なにそれ食べれるの?

 要するに、そういうことだ。お互いに、それなりの立場にいるときは、お互いを利用し合う関係を維持する必要上、友達でいる。

 片方が落っこちたときが、ほんとうの友達かどうかの境目だ。

 で、こんどは自分が見捨てられる番。理解せざるを得ず、自嘲する。


 ──それにしたって、ひでえじゃねーか。

 この年で、もっかい就活するハメになるとも思わなかった。それより想定外なのは、まさか、どこの会社もご活躍を「お祈りメール」だったことだ。

 おかしいだろ。これだけの実績とスキルのある俺を、だれも拾ってくれないって、どういう了見だよ。


 くそ、わるいのは全部、社会だ、国だ、人間どもだ。

 ……あの女だ!


「なにやってんだ、アキ。それ腐ってるぞ、除けとけ」


 白ヒゲの声にハッとする。

 思い出すだけは、ありあまっているホームレス。

 顧みて、淡々と「エサチェック」をつづける白ヒゲに、一種の郷愁をおぼえる。


 あれはまだ春先、お祈りメール三昧で、離婚後の住む場所さえ不安になりはじめていた夕暮れ、四条で記憶がなくなるまで呑んだ。

 文字どおりのやけ酒。店から追い出され、なお彷徨した。


 修学旅行の高校生らしい集団に出くわした記憶がある。京都にくるくらいだから、よほど底辺の公立高校だろう、というのは偏見か。

 口論になったような気がするが、よく覚えていない。金髪とピアスと、変なパーカーとタトゥーが、断片的に思い出される。財布を奪われ、電話はその場で破壊された。


 肋骨がきしみ、手足はぼろぼろ。川に投げ捨てられ、溺れ死ななかったのは、生存本能だろう。

 市内からだいぶ流されて、住宅街らしい淀川の中流域に着岸した。

 どこか見覚えがあったのは、元嫁を口説いた場所だったからかもしれない。


 まだ生きてはいたが、もう死んでもいいと思えた。

 全部、失ったのだ。もうどうでもいい。

 暗がりに、しばらくたゆたった。


 どれほど時間がたっただろう。

 アキの記憶に、断片的に思い浮かぶのは、まさに「白いヒゲ」だった。

 薄汚れてへたった黒いジャンパーに黒いズボン、ヒゲ面にべったりしたぼさぼさの髪は半白だ。

 垢じみた皺を蠢かせて、彼は言った。


「兄ちゃん、こっちくるか」


 ひさしぶりに聞いた、やさしいことば。いや、ただの質問かもしれない。

 そもそもホームレスに、その質問をされるような状態に、アキが陥っていただけのことだ。


 ふざけんな、だれがおまえらなんかと。

 最初は反発しかなかった。背を向けて、その場を去った。


 どのタイミングで翻ったのかは、おぼえていない。

 身体と服しかもっていない状態で三日間、京都の町をさまよった。

 ひらめきは、唐突にやってきた。


 ──俺はホームレスになるんだ!


 発想の転換、ただの捨て鉢、それとも諦め、あるいは興味だろうか。

 たぶん熱のせいだ。

 再びたどり着いた河原で、その夜、白ヒゲが泊めてくれなければ、アキは春先の京都の冷たい雨に打たれて死んでいた可能性がある。


 行路病死者という、近年あまり聞いたことのないカテゴリに該当する無縁仏になって、彼を見捨てた世間に恨みを返してやりたい気もしたが、その決断はもうすこしさきでいい。

 三日間、高熱にうなされている間、白ヒゲは迷惑そうな表情を浮かべつつも、外に放り出したりボランティアを呼んだりはしなかった。

 あとで聞いたところ、彼に「同じ気配」を感じたらしい。


 中途半端に小器用で、努力して社会に合わせたが、どこかで破綻してドロップアウトするタイプ。

 無理やり合わせつづけることで、ある日、突然首をくくる人間。

 ──おれたちの先行きには、どっちかしかねえんだ。


 勝手に決めつけられても困るが、納得がいく部分もあった。

 白ヒゲは筋道の通った話し方をする、小器用な文系だ。

 一方、アキは小器用な理系だ。どちらがマシかはわからないが、すくなくとも白ヒゲは、アキよりはやさしい人間だった。

 ──なぜならあいつの目からは、俺がよほど冷たく見えるらしいから。


 あの日から、ホームレスをやっている。

 京都の空を屋根にして過ごすうち、正直ホームレスはわるくないと思えた。

 コンビニの廃棄品ばかり食っていると栄養が偏ると、どこで調達してきたのか肉や野菜を使って、かなりうまいカレーやうどんをつくってくれた。

 彼らは意外なほどグルメなんだと知った。


 白ヒゲは、空き缶やペットボトルの回収で生計を立てていた。

 たまに日雇いの仕事に出かける者もいるが、基本はゴミ拾いだ。

 テントの片隅に何本も置かれている四リットルの大五郎は、テントが吹っ飛ばないための重しであり、おおむね一週間分の生活用水でもあると知った。


 独特の饐えた臭いにさえ慣れれば、さして不快な要素はなかった。

 言語矛盾のようにも思えるが、きれい好きのホームレスのテントは片づいていて、広々と居心地がいい。


 ブルーシートと段ボールでできた「家」を、侮ってはいけない。

 段ボールを敷いた部屋で生活してみればわかるが、踏みしめるほど肌触りはよくなるし、定期的に交換すればヘタな絨毯を敷いた洋間より清潔だ。


 去年の冬に死んだ男の形見だといって、毛布をもらった。いやな形見分けだが、冷え込む夜にはずいぶん助かったものだ。

 トイレとシャワーがないことを除けば、これといった不自由もない。むしろ快適な生活が送れると気づいた。


 数週間でもホームレス生活を味わうと、ひとはその「完全な自由」に慣れていく。

 いつでも好きなことができて、なにものにも縛られない。


 仕事があれば仕事に縛られるし、家族があれば家族に縛られる。好きな相手と交流できず、外の空気すら吸えないこともある。事実、そういう生活をしていた。

 だがホームレスには、ほんとうの自由がある。

 それに不安を感じる者もいるだろうが、どうしようもなく慣れてしまう者もいる。


 そうして……人生をあきらめる。

 これも選択肢のひとつだと認め、安住する。

 正解か、そうでないか。大事なのは、それを他人に決めてもらう必要がないことだ。


 天の下に暮らし、死ぬまで生きる。

 意外にわるくないと思えた。……が、同時に、やはりまずいと思う自分もいる。


 どちらを選ぶか、まだ俺には選択の余地がある。

 そういう意識が、この中途半端な状態を楽しませているだけなのかもしれない。

 もし、やり直せるなら──。


 時間だけはあった。いろいろと考えることができた。

 いまこの瞬間を、あとからふりかえれば「かけがえのない宝物」だった、と言えるときがくるかもしれない。

 殊勝にもそんなことを考えたある日、あんときは助けてくれてありがとう、と白ヒゲに感謝のことばを向けたことがあった。


 すると白ヒゲは表情も変えず、ぽつりと言った。

 口先だけの感謝は聞きたくねえ。おめえに友達はいねえんだろ。


 ひとつひとつのことばが、あまりにも深く、心に突き刺さる。

 ──そうだ。俺にはひとりの友達もいやしねえ、過去いたこともないし、これからだってできないだろうよ。


 ちょっと酔っぱらっていたときに、通り過ぎ、やり過ごした断片的な会話だ。

 言い換えれば、おまえらと友達になることもないよ、という意味に受け取られた可能性もある。

 もうわからない。

 この世界でも、うまく生きるのに向いていないとしたら、どこへ行けばいいのだろう。


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