夕日に照らされて

 直がまだ息を整えている中、彼女はバランスを取るために彼の袖をしっかりと掴んでいた。二人の顔は、たぶんどちらにとっても近すぎる距離だった。 一瞬の沈黙が流れた——そして、不意打ちのように、彼女の手が勢いよく振り下ろされた。


 頬に走る鋭い痛みとともに、彼は瞬きをした。しかし、それ以上に衝撃的だったのは、直自身が同じくらい驚いた表情をしていることだった。二人はしばらくそのまま硬直する。

 だが次の瞬間、まるでスイッチを切り替えるように、直は腕を組み、ふんっと息を吐いた。


「直ー?! 」彼は顔を押さえながらふらついた。「なんだよ、いきなり?! 顔面から地面に突っ込むのを助けてやったのに!」


 すでに何事もなかったかのように背筋を伸ばした直は、低く唸るように声を上げ、鋭く指を突きつけた。

「バカ! 誰が女の子にベタベタ触っていいって言ったの?! ましてや私を掴むなんてありえない! まず霞に手を出して、次は私?! 」

 怒りよりも羞恥が混ざった声だった。頬がほんのりと赤い。


「はいはい、ごめんなさいね。じゃあ次は遠慮なく地面にダイブさせてやるよ! 記念に写真も撮ってやろうか!」

 彼は睨み返しながら指を突きつけた。


「ふん! そうしなさいよ!」

 直も負けじと応戦し、腕を組みながらすぐに首を振った。まるで自分が意地を張っていないかのような態度で、勢いよく息を吐くと服を整えた。

「いや、違う、もういい! どうでもいいわ! あんたは写真を撮るために来たの! くだらない口論で私の大事な霞の時間を無駄にしないで!」


「俺が時間を無駄にしてる?! いつも霞にベタベタくっついてるお前のほうがよっぽど時間泥棒だろ! もしかして『白原さん捕食者説』ってやつか?!」

 彼はカメラをバッグから取り出しながら鼻で笑った。


 一方、霞はただ二人の言い合いを見守るしかなかった。

 普段は(比較的)冷静なはずの二人が、まるで子供のように言い争っている光景は、なんとも言えない気分にさせられる。


 霞は小さくため息をつき、割って入るタイミングを探した。

 多少のからかいはあると思っていたが、ここまでヒートアップするとは思わなかった。


「白原さん、木漏れ日くん……」

 彼女は控えめに呼びかけたが、二人はまったく聞いていなかった。


 ……もう放っておくのが正解かもしれない。

 どうせそのうち疲れるだろうし、無理に止めても余計に長引くだけだ。


 霞は二人から目を逸らし、目の前の景色へと意識を向けた。

 夕焼けに染まった空。オレンジと紫のグラデーションが広がり、地平線の先には海が重なっている。

 映画のワンシーンのような光景。まさに写真に収めるべき瞬間。


 ……というか、そもそも写真を撮るためにここに来たはずだった。


「白原さん、木漏れ日くん……太陽が沈んじゃうよ?」

 少し強めに声をかけてみたものの、あまり期待はしていなかった。


 そして、その予想は的中する。


「私は捕食者じゃないわよ、木漏れ日くん!」

 直は拳を握りしめ、ムスッと頬を膨らませる。


「なら、そういう態度やめろよ。もしかして、小笠原さん、ちょっとはプライベート空間ほしいんじゃないか?」

 カメラの設定を調整しながら、彼は淡々と言った。


「え? 」

 霞は瞬きをした。


「霞ちゃんにはちゃんとスペースをあげてるもん! ね、霞ちゃん?! 」

 直は急に振り向き、霞に期待のまなざしを向けた。


 霞は戸惑いながら二人を交互に見る。

 ……これ、どう答えればいいの?

「うん」と言えば、直が一晩中拗ねそうだし、「いや」と言えば、それはそれで変な空気になる……


「え、えっと……」


 ——遅すぎた。


 直は霞の沈黙を勝利の証と捉え、得意げな笑みを浮かべながら振り返る。

「ほらね! 霞ちゃん、何も文句言ってないじゃない!」


 木漏れ日は霞をじっと見つめ、ぼそっと言った。

「助けが必要なら二回瞬きしろよ」


「木漏れ日!!」


 彼はクスクス笑ったが、直が飛びかかりそうな気配を感じ、慌てて咳払いをする。

 ここからまだ山を下らなきゃならない。

 あまり挑発しすぎると、本当に“事故”が起こるかもしれない……


 霞は苦笑しつつ、再び夕焼けへと目を向けた。

「……太陽……」

 今度は少し弱めに言ったものの、その目には「早くして」という切実な訴えが込められていた。


 木漏れ日は息を吐き、直を睨みながらカメラを構えた。

「撮るよ……」


 直はまだ不満げな顔をしていたが、それ以上文句を言うことはなかった。

 代わりに、ふと視線を遠くに向け、静かに風を感じるように目を細めた。

 彼女の髪が風になびき、無意識のうちに穏やかな表情が浮かんでいる。


 木漏れ日はカメラをゆっくりと構え、彼女に向けた。

 最後の夕陽が彼女の横顔を照らし、その瞬間を切り取るには完璧なシーンだった。


 ——いや、違う。ただの仕返しだ。


 カシャ。


 直は驚いて振り向いた。

「はぁ?! 何撮ってんのよ!!」


 木漏れ日はカメラを少し下げ、彼女の睨みを受け止める。

「写真を撮ってるんだよ。ここはそういう場所だろ?」


「夕焼けを撮るんでしょ! 私じゃなくて!!」

 彼女は怒りながらカメラを奪おうと手を伸ばす。


 木漏れ日はすばやく身を引き、カメラを高く掲げた。

「何を撮るかは俺の自由だろ。部長の写真くらい必要だと思うけど?」


「消して!」


「やだ」


「消しなさい!!」


「やだ!」


「何よその"やだ"って?! どこから湧いてきたのよ、その反抗心は! 消さないとあんたを消すわよ!!」


 霞はまたもやため息をついた。

 ……ほんと、子供みたい。


 木漏れ日はカメラを片手で掲げながら、もう片方の手を腰に当て、余裕の笑みを浮かべた。

「素直に褒め言葉だと思えば?」


 直はジト目で睨む。

「は? 隠し撮りが褒め言葉? 何それ、ストーカーなの?」


「さっきは捕食者で、今度はストーカー? お前、人を貶める才能すごいな。『名誉棄損部長』って呼ぼうか?」


「お前ー!! さっさと写真撮りなさいよ!!」

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