3  おやしきの洞穴

 しかし、どこまで歩くのだろう。

 亀松かめまつのおやしきのろうかは長かった。それも誰も何も言わなかったが、土足で歩いている。キワ子は、エナメルの黒いかわのくつをはいたままだった。亀松かめまつばばも、ぞうりをはいたままだ。

 ふたりは土足で、黒光りする板のろうかを歩いていた。


 すると、何か近づいてきた。

 ろうかの向こうの突き当りの角から、がっしりした犬が、きっかり90度曲がって、ぞうきんがけをしてきた。

 尾が、くるんと巻いている。柴犬しばけん秋田犬あきたけんか。亀松かめまつばばとキワ子の前に来ると、すっくと、うしろ足で立ち上がった。

『うぇるかーむ、うぇるかーむ』

 犬は、りゅうちょうな英語をしゃべった。

 顔はマスクをかぶったように黒くて、耳の内側も黒い。あとは明るい茶色の毛並みで、足はハイソックスをはいたように白かった。目は豆のように小さく一重だ。。

「はろー」

 キワ子は覚えたての英語で、あわてて、あいさつを返した。


 それだけだった。

 がっしりした犬は、ぞうきんを握った前足を下ろすと、また、ろうかをふきながら行ってしまった。亀松かめまつばばは、その、うしろ姿を見送って言った。

「あれは、アメリカン秋田あきたじゃ。自分の祖先のことを知りたいと、大戦後に日本に戻ってきた。えんあって、うちにつかえておる」


「戦争が終わったのは、ずいぶん前ですよね。アメリカン秋田あきたって長生きなんですね」

 キワ子は感心した。

「品種改良しておるからの。長生きさ。ちなみに」

 亀松かめまつばばは、目を細めた。

「わしは何才に見えるかね。キワ子ちゃん」


「――」

 キワ子の目が泳いだ。この問いは、地雷じらいだ。

 地雷じらいとは踏むと、ばく発する、ばく弾だ。

 キワ子は父の妹、つまり、おばさんで学習していた。この問いをする大人が、どれほどやっかいなのかを。黙り込んだキワ子の顔を、亀松かめまつばばはのぞき込んだ。

「クイズじゃないで。キワ子ちゃんの直感でええのよ」


(その直感が、おばあさんの本当の年を上回ったら?)   

 キワ子は、しんちょうに考えた。

「――亀松かめまつのおばあさまはデイサービスに行っているから、65歳だと思います」

 あのとき、おかあさんに、デイサービスって何? って聞いておいてよかった。65歳以上の人で――、かいごが必要な人が――、と教えてもらった。

「そうかぁ~?」

 あきらかに、亀松かめまつばばの笑顔が3割ほど増した。


 そうして話している間にも、ふたりは、ゆっくりと和室を抜けていた。それぞれの部屋の仕切りは、ふすまだが、それが、亀松かめまつばばが歩んで行く先々で、するすると自動ドアのように左右両側に開いた。

 いく枚も、いく枚も、ふすまは開いた。ふすまの色は、よもぎ色やら、もえぎ色、若苗わかなえ色だ。そのまま、山の緑のようだった。

「さぁ、着いたぞ」

 ふすまの開け閉めが、どれほど続いたか、数えられなくなったころに、ふすまの向こうにあったのは洞穴だった。


 ごぉぉぉ、ごぉぉぉ。

 洞穴の奥から、くぐもった風の音がした。冷たい風が、吹いてきた。


 キワ子が、ぶるっと身震いすると、「そこにかけてある、モモンガコートを着るとよい」と、亀松かめまつばばは、あさっての方向を指さした。

 キワ子は、ぐるりを見渡した。タケノコのように、にょきにょき生えている石のかたまりに、くすんだ色合いのコートが、いくつか、かかっていた。

「好きな色のコートを選ぶとよい」

 亀松かめまつばばの言葉にキワ子は、うぐいす色のモモンガコートを手に取った。

 コートは、長方形の布を二つ折りにして、短い辺に両手を入れるところがあった。

「モモンガコートの作り方はなぁ、130センチかける110センチくらいの長方形の布をなぁ、中側を表地にして二つ折りにするんじゃ。そいで、袖口になる15センチほどを残して、短ぇ辺をぬいあわせるのよ。あとは、端っこの処理を、ちょちょいのちょいとして、できあがりじゃ」

 キワ子は、その説明を右の耳から左の耳へ受け流し、長方形の長い辺を肩にかけて、手を短い辺の袖口に差し込んだ。たしかに両手を広げると、モモンガが飛んでいる形になる。

 すると、体が地面から10センチほど浮かんだ。


「わぁ」

 おどろいたキワ子が手をバタバタすると、コートは、もっと、キワ子の体を持ち上げた。それから、キワ子が両手を動かすのをやめると、ゆっくり地面に戻した。


「そのまま飛んで行け。足元が、あぶないでなー」

 おばあさんは、ふすまの前から動かず手を振っていた。

 どうやら、ここからはキワ子ひとりで行けということらしい。


 今日からは、ひとりで行動する。

 それが10才になるということなんだろうか。


 キワ子は足場の悪い洞穴の中を時々、地面をけっては、はずむように進んだ。

 洞穴は一本道だった。前へ前へと勢いにまかせて、キワ子は進んだ。

 しばらく進む。

 すると、つららのように、たれ下がった岩の下で、しゃがんでいる女子が見えた。


「あれ? 一ノ瀬いちのせさん?」

 キワ子は思わず口にした。

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