不可侵の聖域


 空間が歪み、ドス黒いヘドロのような魔力が鍛冶場を埋め尽くす。

 一、二……いや、十体以上。

 召喚された魔物たちは、狼の俊敏さと熊の腕力を掛け合わせたような異形だった。狭い室内で、無数の赤い瞳がギラギラと飢餓感を湛えて悠を睨みつけている。


「……数で圧殺する作戦か。相変わらず芸がないというか、せこいというか」


 悠は深いため息を一つ。

 その態度は、死地に立つ者とは思えないほど気だるげだ。だが、その足運びにはミリ単位の隙もなく、重心は常に最適化されている。


「減らず口を! いけ、肉片も残さず食らい尽くせ!」


 男の号令と共に、魔物の群れが弾けたように殺到する。

 四方八方からの同時攻撃。逃げ場などどこにもない。

 だが、悠は動かなかった。ただ静かに、鉄板の盾を構えただけだ。


「――『守護領域(ガーディアン・テリトリー)』」


 先頭の魔物が、悠の鼻先数センチまで爪を迫らせた、その瞬間。

 

 バヂィンッ!!


 何かに弾かれたような乾いた音が響き、魔物は触れてもいないのに後方へと吹き飛んだ。


「な……ッ!? 防御結界だと? 詠唱もなしに!?」

 男が裏返った声を上げる。


「結界じゃない。『領域』だ」


 悠が盾を軽く薙ぐ。それだけの動作で、不可視の波動が周囲へ伝播する。

 続いて飛びかかってきた魔物たちの爪も、牙も、吐き出された炎さえも、悠を中心とした半径二メートルに入った瞬間、物理法則を無視して霧散し、あるいは弾き返された。


 そこは、悠が許した者以外、何人たりとも侵入できない絶対不可侵の聖域(サンクチュアリ)。


「なんだ……これは……。攻撃が、届かない……?」


 男の顔から余裕が消え、脂汗が噴き出す。

 悠は冷ややかな瞳で群れを見下ろしながら、しかし胸の奥で、燻っていた熾火(おきび)が燃え上がるのを感じていた。


(……ああ、そうだ。この感覚だ)


 悲鳴、爆音、肉が裂ける音。

 かつて嫌というほど味わった戦場の空気。だが、その中心で「誰も傷つけさせない」という一点に全霊を注ぐ高揚感。

 平穏を望んでいたはずの身体が、皮肉にも戦いの中でこそ最も鮮烈に呼吸をしていた。


(俺は戦いたくなんてなかった。……でも、守ることは嫌いじゃなかったんだ)


 それは、隠居した彼が初めて自覚する、冒険者としての業(ごう)だった。


「くそっ、化け物め……! だが、これならどうだ!」


 男が懐からどす黒い結晶を取り出し、砕く。

 魔力暴走。

 残った魔物たちが融合し、天井を突き破らんばかりの巨体へと変貌していく。


「まだ上乗せすんのかよ。……ほんと、学習しないな」


 呆れたように肩をすくめる悠だが、その瞳に宿る光は、もはや鍛冶屋のものではなかった。

 盾を持つ手に力が篭る。


「いいぜ。そっちが全力なら、こっちも『仕事』の時間だ」


 悠の全身から黄金のオーラが立ち昇る。

 それは鍛冶場の煤(すす)けた空気を浄化し、男の放つ闇を圧倒的な光量で塗り潰していく。


* * *


 一方、鍛冶場の外。

 避難する村人たちを誘導していたリリアの足が、不意に止まった。


「皆さん、あの丘の向こうへ! 決して振り返らないで!」


 村人たちが走り去るのを見届け、彼女は鍛冶場の方角を振り返る。

 窓から漏れ出す、神々しいまでの黄金の光。そして、肌が粟立つような魔力の奔流。


「悠人さん……」


 彼なら大丈夫だ。あれほどの実力があれば、負けるはずがない。

 頭では分かっている。

 けれど、先ほど見た悠の背中――「一人でいい」と言い放ったその背中が、あまりにも孤独に見えたことが、リリアの胸に棘のように刺さっていた。


(あの人は、ずっと一人で全てを受け止めてきたの? ……誰にも頼らず、たった一人で?)


 守られるだけの立場は、もう嫌だった。

 リリアは強く拳を握りしめ、唇を噛む。


「……放っておけません!」


 彼女は踵(きびす)を返すと、爆心地である鍛冶場へと全速力で駆け出した。

 たとえ足手まといでも、あの孤独な背中を、もう一度一人にはさせないために。

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