第20話 恋した記憶
私は晴さんに抱かれて、エレベーターに乗り、部屋に入った。そしてそのままソファに降ろされる。降ろされた瞬間に怒られるかと思って、両手は膝の上に置いて、俯いた。でもいつまで経っても晴さんから何も言われない。恐る恐る顔を上げると晴さんはそこにいなくて、私は立ち上がって、探した。
洗面台で手を洗っている。それで私も手を洗わなければ、と思って後ろに並んだ。
「灯花」と言って、手をタオルで拭きながら鏡越しで私を見る。
「…はい」
「日本とは違うし…、日本でも暗い時間に一人で飛び出して来るなんて…」と言って、晴さんはお説教を突然やめた。
そして私に手を洗うように促す。高級なハンドソープの匂いがする。私はしっかり手を洗って、泡を流した。
「ごめんなさい」と心配してくれた晴さんに謝った。
「じゃ、こっち来て。お腹空いてない?」
「お腹はいっぱい。クスクス食べたから」
「クスクス?」
「お肉いっぱいで美味しかった」
晴さんはため息をついて、紅茶を入れてくれる。
「晴さん…。ごめんね。パパをママのところに行かせて」
「分かってる。灯花が考えてることくらい」
そんなふうに言われると、ものすごく小さい子供みたいに思われてて、少し気分が悪くなる。
「じゃあ、晴さん、私のこともらってくれるの? パパはあげるって言ってたけど」
そう言うと、困ったような顔で笑う。
「パパの代わりにはならないけど…」
「灯花にそんなこと何も望んでない」
そう言われると、さらに癪に触る。まるで無能だと言われたようだ。晴さんが椅子に座ったタイミングで立ち上がって、私は膝の上に乗った。そしてまるで晴さんがいないかのように独り言を言い始める。
「あーあ。こんなに可愛い子がいるのに。晴さんはいらないって言うし」
「灯花?」
聞こえないふりをして、私は続けた。
「本当はすっごく寂しがりやで、私と一緒にいたら楽しいと思ってるくせに、ものすごく意地張って断るなんて、ひどいやつだ」
そう言って、足をバタバタさせる。
「勝手にフランスに一人で行って…。ママからパパを取って…。私のこともいらないって…絶対、許せない」
晴さんの足に私の足をぶつける。モデルの脚に痣を作ってしまったらどうしようと思いながら、両手でテーブルを掴むと足をバタバタさせる。
「晴さんなんて、大嫌い。大嫌い。大嫌い」とリズム良く脚をぶつける。
大嫌いと言いながら、心の中では反対のことを思っている。晴さんはさっき灯花の考えていることくらい分かるって言ってたからきっと分かるはず。それなのに、晴さんは何も言わない。
(なんで分かってくれないの)と足をぶつける。
「大嫌い」
(大好き)
「大嫌い」
(大好き)
数回繰り返すけど、晴さんは少しも動かない。
「大…」
ふと、分からなかったらどうしよう、と不安になる。大嫌いって言い続けている口と蹴り続けている脚が止まった。
恐ろしい沈黙の時間。
たまらなくなって振り返って、晴さんを見ると、声も上げずに晴さんの目から涙が流れていた。
「嘘。嘘。嘘。晴さん、私の考えてることって分かるって言ってたのに。嘘ばっかり」と言って、晴さんの首に抱きついて「痛かった?」と聞く。
晴さんはゆっくり首を横に振った。
「ごめんなさい。本当は大好き」
「分かってる」
この後に及んでも、まだそんなことを言う晴さんの顔をしっかり見た。
「俺がひどいやつっていうことも…灯花が…どれほど大切かっていうことも…分かってる」
「大切?」
「灯花…。芽依は本当にいい名前をつけたね」
突然、そんなことを言う晴さんに面食らう。
「私の名前?」
「
晴さんの涙を私は手で拭く。綺麗な顔の晴さんは涙も綺麗な気がした。
「晴さん…ごめんなさい。ひどいやつって言って。晴さんは全然悪くない。悪くないけど…」
「けど何?」
「晴さんの心もあったかいのも分かって欲しい」
私なんかより、晴さんの方がずっとずっと優しくて、温かいのを私は知っている。ずっと私を抱っこしてくれていて、世話をしてくれて…。
「ずっと私に愛をくれてたの…知って欲しい」
晴さんはパパに恋しているかもしれない。でも私に惜しみない愛を注いでくれた。それは私が純粋無垢な赤ちゃんだったからかもしれない。私が無力で無害な存在だったからかもしれない。それでも確実に私には晴さんに愛された記憶がある。
「晴さんは人を愛せる人だから」
小さい頃、いつもお出かけする時、晴さんの隣だった。その綺麗な男の人は私が歩き疲れると嫌がらず抱っこしてくれたし、ご飯を食べる時はいつも笑いかけてくれた。私が欲しいものを探すとすぐにそれを持ってきて、欲しいものが思いつかなくなるまで、玩具屋で買い物しようとした。多少、行き過ぎた行為があったけれど、全て私の笑顔のためだった。
「だから…仕事が終わったら日本に戻ってきて欲しいし…、もしずっとフランスにいるのなら…側にいさせて欲しい」
「灯花が…フランスに?」
「パパが私をあげるって言ってたの。多分、晴さんのためだと思う」
「俺の?」
「パパよりきっと私の方が晴さんの気持ちを明るくできるから」
パパのように恋愛はできないけど、私が側にいて、晴さんの寂しさをいつか小さくできたらいい。
「でも…」と首を横に振る。
「大丈夫。晴さん」
「何が?」
「私、晴さんの役に立つから」
「どんな?」
「えっと…」と考えると私はほとんど何もできないことに気づく。
ご飯も作れなければ、洗濯だって、晴さんみたいに細かく分けることもできない。掃除だって、適当だ。何なら、お世話してもらってばかりだ。
「えっと…多分、楽しいお話相手とか?」
晴さんは一瞬、動きが止まり、その後、笑い出した。
「あ、他にもあります。先に寝て、お布団をあったかくしておくとか」と言いながら、ほぼ何もできないことを告白しているようで自分が悲しくなった。
「灯花…無理しなくていい」
「してないです」
「確かに」と言って、またさらに笑う。
私は笑い続ける晴さんの膝から降りた。そして冷めてしまった紅茶を飲む。案外笑い上戸なのか、まだ笑っている。
「帰るよ…。日本に。仕事終わったら…だけど」
「本当?」
「灯花といたら、寂しくないし…」
「本当?」
「うん。ずっと赤ちゃんの頃からそうだった。灯花を抱っこしてたら…悲しさが小さくなってた」
「それ、私が吸収してたかも」
「吸収?」
「そう。ちゅーっと」と言ったが、また晴さんが笑う。
晴さんは笑うが私は本気で思っていた。赤ちゃんの記憶なんて、私もあてにはならないと思うけど、大きな体に抱っこされて、緩い風に吹かれて、確かに私は晴さんの孤独を感じていた。でもそれはとても綺麗で、きらきら川面に反射する光みたいに純粋でーー。
それは多分、私が恋した瞬間だった。
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