第19話 優しい人

 灯花から電話がかかってきて、慌ただしく切れた。

「芽依がどうしたって?」と晴が両手にミネラルウォーターを持って、テーブルに置く。

「…灯花に…役立たずって言われた」

「言われてなかったけど?」

「そんな感じで言われた」

「…帰る?」

「いや。もういいらしい」と言って、鉄雄は窓から外を眺める。

「いい月…」と鉄雄が呟いた。

 電話越しに自分が夫だから、妻に何か用かと聞いた。聞いておきながら、何を偉そうに…と自分に思った。

「鉄雄…」

「プチラパンはもう…確かに大きくなった…。あの子…私に助けを求めなかったし」

「そういうところ、元々じゃない?」

「そっか。元々ね。晴の方が分かってる」

 後ろから鉄雄を抱きしめながら「なんで俺を選択した?」と聞く。

「…好きだからよ」

「…それだけじゃないよね? 他にもあるはず」

 鉄雄は軽く笑って「性欲?」と自問した。

「性欲…か。あと半年は帰らないから」と言いながら首の後ろのキスをする。

「半年分は無理だから。時々、来るわよ」と鉄雄は言った。

「じゃあ別れなくてもいいのに。どうして…」と言う言葉を遮った。

「良くないよ。芽依も灯花も。灯花は本気で晴のこと好きになってるし…」

「だから?」

「でもフランスで一人でいる晴を放って置けない。灯花には芽依がいるけど、晴は一人だから」

 そう言われて、晴は腕を解いた。

「一人は慣れてる」

「知ってる」と鉄雄は晴の方に向き直る。

「慣れすぎてることも分かってる。だから芽依が出した最悪解を採用することにしたの」

「でも…鉄雄には二人の側にいて欲しい」

 晴の目が真っ直ぐ鉄雄に向いていた。

「大好きな人を放っておけない」と鉄雄は言う。

 少し遅かったかもしれない。芽依だって、他の人との幸せを探せるチャンスがあったはずだったのに、と鉄雄は後悔している。どっちを選んでも後悔はある。辛い思いをさせるのも分かっているけれど、芽依ならきっと…という思いもある。

「鉄雄…。俺も好きな人が悲しい気持ちなのは放っておけない。…悲しそうなのダダ漏れしてる」

「そう? …じゃあ、お似合いってこと?」

 お互いに力無く笑った。鉄雄からベッドに誘う。また新しいシーツが敷かれている。ベッドに座ってキスを繰り返している時、電話が鳴った。

「でないの?」と晴が聞く。

「いい」

「でたら? 何かあったかも?」と晴が立ち上がって、携帯を取りに行く。

 表示はラパンになっていた。

「芽依から…だけど? どうする?」

「プチラパン?」と聞き返して、嫌な予感がした。

 すぐに受け取って、通話ボタンを押す。

「どうしたの?」

「あの…ごめんなさい。私が…シャワー浴びてる間に…灯花が…いなくなっちゃって…」

「え?」

「そっちに行ってないかなって」

「来てないけど。まだ家の途中かもしれないいし、灯花に電話してみた?」

「それが出てくれなくて…。ごめんなさい」

「謝ることなんて…」と言いながら、胸が苦しい。

「灯花がどうかした?」

「いなくなっちゃったみたいで」と言った瞬間、晴は部屋着の上にコートを着ると、出て行った。

「今、晴が迎えに行ってくれてるから、心配しないで」

 芽依は聞こえていないのか、ごめんなさいを何度も繰り返す。しばらくしていると、キャッチが入る。

「多分、晴だと思うから待ってて」と言って切り替える。

「鉄雄? 灯花いたから。やっぱりこっちに来ようとしてた」

「ありがとう。プチラパンに伝える…」

「ん?」

「ちょっと出ていいかな?」

「それは好きにどうぞ」

 鉄雄も素早く着替えて、コートを羽織って出た。アパートを出たところで、晴と灯花に会う。

「パパ…どうしてママを一人にするの?」と灯花に言われる。

「…」

「ママはずっとパパのこと好きなんだから。知ってるくせに」

「灯花」と晴が落ち着くように声をかける。

「パパが晴さんといてもママは何にも言わないのに…どうして?」

「灯花…心配かけてごめん」

「私じゃなくて、ママに謝って」

「ちょっと灯花預かるから」

「晴さんも、預かるって、私、子供じゃない」と泣き出した。

「ごめん」と言って、晴は灯花を抱き上げて、片手でアパートの入り口の暗証番号を押す。

 鍵が解除された電子音が鳴る。

 鉄雄は二人を見ながら、

(そういえば…いつか)

 最初のウエディングモデルをした時、芽依を抱き上げたことを思い出した。

「晴…灯花あげる」

「え?」と灯花を抱き上げたまま、振り返る。

「いいよ。その可愛い子は…晴のものだから」

「パパ」と灯花は涙を流しながら目を大きく開ける。

「鉄雄?」

「ちょっとラパンに謝ってくるから」と言って、そのまま走り出す。

 冬の夜は冷たい空気が充満している。少しくらい走っても寒さが紛れるだけだった。石畳の道は足音が響く。通りの向こうに白っぽいコートを着た芽依が歩いてくる。近づく程に芽依の顔が険しそうになっていることに気がついた。

「ラパン」

 その呼びかけに顔をあげる。

「鉄雄さん…」

 駆け寄って来るのを鉄雄は抱きしめた。

「灯花は?」

「晴と一緒だから」

「よかった…。私が」

「ラパンは悪くない。灯花に怒られたから」

 それでも芽依は繰り返し謝った。シャワーを浴びた後、慌てて髪も乾かさずに出てきたのだろう。冷たく冷えた髪を撫でると、部屋に戻ろうと鉄雄は言った。

「ドライヤーしなきゃね」

 何も言わずに芽依の冷たい手を自分のコートのポケットに入れる。小さな指がいつまで経っても冷たいままだ。部屋に戻ると、すぐに髪の毛をドライヤーで乾かす。最近はそんなこともしていなかったな、と鉄雄は思い返した。

 昔はこうして芽依の髪の毛を乾かしていたのに…と少し切なくなった。無言で髪を乾かしていく。

「寒くない?」と乾いた髪を撫でる。

「大丈夫です」

「ちょっと体冷えてるから温かいもの…飲んで」と言って、鉄雄はポットに水を入れてスイッチを入れる。

 その後をちょこちょことついて来る芽依がおかしくて、鉄雄は笑いそうになった。

「ちょっと座ってて」

「あ、はい」

 インスタントのスープを買っていたので、それをお湯に溶かして、芽依に渡した。

「ありがとうございます。…あの…晴さんは?」

「晴? あ、そうだ。晴に灯花あげるって言っちゃった」

「えー?」と思わず芽依は大きな声を上げた。

「ダメだった?」

「だめ…とか…じゃなくて…。え? でも灯花は…女だし…」

「聞いていい? プチラパンは私といて幸せだった?」

「はい。とっても。とっても幸せでした」

「今は違うの?」

「今は…。私、鉄雄さんの役に立ちたくて…。晴さんのこと大切にしてる鉄雄さんが…好きで。でも…離れるのはやっぱり悲しくて」と言いながらスープを飲もうと、カップを持ち上げた。

 持ち上がったカップは鉄雄に取られて、芽依は思わず顔をあげると、鉄雄に抱きしめられた。鉄雄の匂いと暖かさが懐かしく感じて、涙がこぼれた。

「ごめんね」

 冷えた体がゆっくりと暖かくなっていく。この優しい人がどうしたら幸せになれるのか…お互いに考えていた。

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