第18話 同じ月
「ママ?」と私が言うと、ぼんやりしていたママは笑顔を作った。
パン屋さんで朝食セットを頼んで食べていた。オレンジジュースと、フランスパンにバターとジャムとカフェオレというのがこっちの朝食らしい。もう一品卵料理が欲しいところだ。でもバターが美味しくて、パンがパリパリなのは気に入った。それを噛みながら、ママに訊く。
「パパから連絡きた?」
「ううん」
パパが晴さんのところに泊まってくるって連絡があってから、翌日になっても音沙汰がなかった。ママは頻繁に携帯を確認していたけれど、その度に小さくため息をついた。
「じゃあ、せっかくだし、買い物行かない? 女同士で」と私はわざと明るく振る舞う。
ママもわざとその明るさにして、付き合ってくれる。
「行っちゃおうか」
二人で、デパートの下から上まで見て回る。化粧品、服、家庭用品、おもちゃ、本、デザート。デパートにいて、いろんなものを見ていると、少し気が紛れた。
「何か欲しいものないの?」と聞いてくるけど、私はママに何か買って欲しいと思った。
でもママは特に何も欲しくないみたいで、私の服ばかり見ている。私は一階で見た不思議なプリントの布鞄が可愛いなと思っていたけれど、特に必要なわけでもない。上から下まで見て、何も買わずに出てきた。
人通りが多いが、夕方はすぐにやってくる。私たちはフランス語も喋れないし、パリの地理感覚もできていないから、さっさと部屋に帰るしかない。でもママはぼんやりと借りているアパートの道に入る角のカフェを眺めている。
「ママ?」
「ここに入らない?」
珍しくママから何か提案をした。
「ここ? いいけど…。フランス語読めるの?」
「何となく分かったの」
「え? すごい」
「メニュの最初の方が前菜で、真ん中にメイン、後にデザートと分かれてるから、そこから適当に一品ずつ頼めばいいの」
なかなか画期的な方法を見出してくれた。そしてママは得意げに笑って、カフェに入った。自信満々だったママはメニューを見て、眉間に皺を寄せた。
「サラデ? サラダかな? タルタル? えっとうーんと。あ、エスカルゴはわかる」
しばらくメニューを見て、唸っているママが可愛くて、私は放っておいたけど、なかなか時間がかかりそうだったので、ママからメニューを受け取り、スマホで翻訳した画面を見せた。
「…あ」
「ママ…。画期的なアイデアは素晴らしいけど、今はもう携帯あればなんでもできるからね」
「灯花…。もっと早く教えてくれたらよかったのに」
「ごめんね」と謝りながら、格闘しているママが可愛くて、見ていたとは言えなかった。
なんならこっそり動画を撮ってしまった。
そして翻訳のおかげで、ママは食べてみたかったクスクスロワイヤルというものと、フライドポテトを注文した。私と二人で分けてちょうど良さそうだ。そして滅多に飲まないお酒まで頼んでいた。私はペリエにレモンシロップを入れた飲み物にした。
ママは白ワインのボトルを頼んでいたけど、一人で飲めるのだろうか、と不安になる。何かあったら、私がしっかりしなくてはと思ったけれど、ママは美味しそうにワインを飲んでいた。
「ママ…。寂しい?」
「灯花がいるから。全然寂しくないよ」
「私…なんか不思議な気分なんだ」
「え?」
「晴さんのこと好きで、パパのことも好きだし…。だから二人がいるのもいいと思うの。思うけど、ママをほったらかしにするのは嫌で」
「灯花…。今日はとっても楽しかった。二人で買い物できて。今もこうして二人でいられて。だから…ほったらかしにしてもらえて良かった」
「ママったら意地張りだなぁ」
「だって、灯花はいつも晴さんにくっついてるから。たまにはこういうのもいいなぁと思って」
「あ、そうなの? ママ、私がいないの寂しかった?」
「うん。少し。パパがいないのも、灯花がいないのも寂しい。でも…いつかは灯花も一緒にいられないから…。私も寂しい、寂しいって言ってる場合じゃないなぁって。ちょっと思った。パパも…少しかわいそうだし」
「パパが? 神立鉄雄だよ? 全然可哀想じゃないと思う」
「そうなのかなぁ…」
「だって、普通に考えてみて? 浮気相手のところに自由に行ける夫なんていないよ?」
「浮気じゃなくて…本気で好きだから。むしろ私の方が…なんで一緒にいてくれるのかなって」
「…ママ」
運ばれてきたクスクスロワイヤルに二人で驚いた。クスクスという小さな粒々に野菜の煮たスープがかけられていて、カレーのような見た目なのだが、その上に鳥のもも肉骨つき、大きなウィンナー、シシカバブ二本乗っている。上のロワイヤル部分がものすごく大きくて、食べ切れるのか不安になった。
「なんか頑張って完食したくなってきた」とママが元気になってくれたので、私も思わず「よし」と声をだした。
どのお肉も美味しかったし、クスクスもハリッサという辛味のある薬味をつけて食べるとものすごく美味しかった。が、にわかフードファイターではこの量に勝てなかった。
「美味しいけど、もうお腹いっぱい」
「ママ、トイレ行ってくる」と私はカフェの奥のトイレに行った。
せっかく奥のトイレまで行ったのに、扉を開けるのに暗証番号が必要だったから、私は店の人に「トイレ」と必死で訴えるものの、言われたフランス語の数字がわからず、でもメモに書いてもらったりして、時間がかかった。席に戻ると、一人で座っていたママにまたフランス人が声をかけている。
「ママ」と慌てて席に戻ったが、今度のフランス人は私がいても引かなかった。
ママはワインで酔っているのか、ぼーっと相手の顔を見ているが、向こうが勘違いしそうだ。私は慌ててパパに電話した。
「助けて、パパ。なんかママが絡まれてるの」
「灯花? どこ? すぐ行くから」
そう言われて、私はなんだかすごく腹が立った。大体、パパが私たちを放置しているから、こんなことになるんだ、と。
「来なくても大丈夫。絡まれてる人と話してくれたらいいから」
「灯花?」
「だって…間に合わないでしょ?」と言って、私はスピーカーにしてパパにママに何の用があるのか、フランス語で聞いて欲しいと行った。
「Allo?」とパパがフランス語を話し始めた。
相手と少し会話をして、相手はため息をついて、ママにメモを渡して、去っていった。メモには数字が並んでいて、携帯番号のようだった。
「芽依? 大丈夫?」とパパが声をかけてきたけれど、私が「ありがとう。もう行ったから大丈夫」と言ってから切った。
「ママ…」
ママの目から涙がこぼれた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「いきなり手を握られてキスされた」
「え?」
「手にだけど…」
「そ…か」と私は慰めることも忘れて、ハンカチを渡した。
それで涙を拭くと、お会計をして、部屋に戻ることにした。もうママは外を出歩くのを嫌がるだろうか。借りているアパートメントはすぐそこで、ママの横画を眺めて
「ママ…明日は部屋でゆっくりする?」と聞く。
「え? どうして? 違うところ見に行かない?」
「ママ、怖い思いしたんでしょ? 泣いてたし」
「あ、泣いたのは…パパの声聞いたから。なんかすごく久しぶりな気がして。そんなことないのに。それにすぐ行くって言ってくれて嬉しくて」
そしたら私はパパを拒否して悪いことをしたということになる。
「距離が…何だかすごく遠くにいるような…。灯花の言うように間に合わない…ね」
そう言って、空を見るママの横顔は綺麗で寂しそうだった。
「月だけが日本と同じで不思議な気持ちになる」
こんなに違う街並みに日本と同じ月が空には浮かんでいた。
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