第14話 新しいシャツ

 いくら私が好きだと言っても、埒があかなさそうなので、私は黙って、朝食を口に入れる。なるべく早く食べようとすると、それも晴さんに止められた。

「灯花、いくらなんでも、口に入れすぎ」

 私は何か言いたかったが、確かに口にいっぱいで何も言えない。パンが喉に詰まりそうになって、涙目になった。

「灯花…」

 優しく呼びかけられて、私の涙目は決壊し、溢れ出した。慌てた晴さんがすぐに私の席に来て、背中をさすってくれる。こんなに優しい人なのに、どうして…と私は言葉も喉も詰まって、涙しか出なかった。

「灯花、吐き出していいから」と皿を目の前に出してくれる。

 流石にそれはできない。なんとか格闘して、私は喉の奥へと追いやった。そして振り返って晴さんの手をとって、泣いた。

「辛かった?」と晴さんが聞いてくる。

「違う。晴さんが…辛くて…辛かった」

「別に、大丈夫だから」

「大丈夫じゃない」と私が首を横に振ると、突然、晴さんが息を軽く吐くようにして、笑った。

「…灯花が小さい頃、抱っこしてたら、よくミルクを吐かれたのを思い出した」

「え?」

 晴さんの高級服に私が吐いた? と思うと、思わず顔が青くなる。

「じゃあ…晴さん、その時、シャワー浴びれなかったら…死んじゃう」

「死んでないから」

「…確かに。じゃあ…お風呂入れたの」

「不思議だけど…、まぁ…確かに汚いとは思ったけど、そこまでじゃなかった。もちろん着替えたけど」

「ごめんなさい」

「だって吐いた本人がびっくりした顔して、その後、ケロッとした顔で笑ってて、その笑顔が本当に可愛かったから」

 本当によく抱っこしてもらえたことを覚えている。いつも私は晴さんにくっついていた。

「だから…灯花には感謝してる」

「感謝? ゲロ吐いたのに?」

「灯花は人を暖かくしてくれる才能があるから」

「才能?」

 それは才能ではなく、ただ赤ちゃんの持っている可愛さな気がしたけど、せっかく褒めてくれたので、そう思うことにして、にっこり笑った。

「今日は、どこへ行きますか? お嬢様」と晴さんが言ってくれる。

「一日いいの?」

「いいよ。どうせ…仕事ないし」

「じゃあ、船に乗りたい。セーヌ川の。それで船の中でご飯食べるのしたい」

「お望みのままに」

 そんな風に晴さんが冗談で言うと、パパから電話が来た。

「灯花? 電話、替ろうか?」と言って、スピーカーに変えてくれる。

「パパ? ママは大丈夫? お別れするの?」と私は聞きたかったことを次々質問する。

「お別れ…したい? べべはパパとお別れしたいと思う?」

「んー。お別れ…したとしても、パパはパパだし、大好きなままで、また会えるでしょ?」と私が言うと、大きなため息が聞こえた。

「クールすぎるわ。べべはパパがいなくても平気?」

「平気なわけないけど…。パパのためを思うママの気持ちを尊重する。でも…私…晴さんとも一緒に住みたい」

「待って。晴は誰とも住めないから」

「そんなことないもん。私となら、きっと住めるから」

「ちょっと」とパパが言った時、晴さんが電話を切った。

 結局、ママとお別れするのだろうか、さっぱり分からない。

「灯花、流石に一緒に住む話はないから」

 私は思いっきり頬を膨らませて、むくれた顔を作った。晴さんが私と住んでくれないのは理解しているけれど。

 すぐに電話がまたかかってくる。

「べべ、ラパンが心配してるけど。今日はどうするの?」

「まだ解決してなかったら、二人で話して。私は観光船に晴さんと乗るから」と電話に向かって言う。

(あれ? これってパパにマウント取ってることになるかな?)と思わず首を傾ける。

「パパ…ごめんね」と私が謝ると、電話越しにパパが笑う。

「じゃあ、ラパンとエッフェル塔でランチしてくるから」とパパが言い返してくる。

「え? ママとランチするの?」

「べべがいない寂しさを二人で癒してくるから」

 変な気もするけど、パパとママは仲が良い。

「ゆっくり話し合って。それでできれば、まだお別れしないで欲しい。でもどっちでもいいから」と最後付け加えた。

 私がどうすることもできないことだから。

「晴さんはパパが別れてくれたらいいと思ってる?」

「どうして?」

「うーん。パパを独占できるから」

「特にしたくないから。鉄雄とは時々会うから続いてる。いつも一緒だと…鉄雄が大変だし。俺も一人がいい」

「ふーん。冷めた関係だなぁ」

「毎日一緒だと飽きるから」

「じゃあ、ママじゃなくて、他のイケメンとパパがいたら?」

「それは浮気だから」

 そこら辺がよく分からない。ママだといいんだ。まぁ、ママは女だからいいのかな? と首を捻る。

「私はずっと、大好きな人とずーっと一緒にいたいけど」と言うと、晴さんが笑った。

「灯花はきっと大好きな人と一緒にずっといれるよ」

 その笑顔を見ていたら、胸が小さく縮こまるような気がした。

「…もう一回、パパに電話して。それから晴さん、観覧船は私とママに譲って。だからパパと…エッフェル塔のレストラン行って」

「どうして?」

 そう聞かれて、「ママに会いたくなっちゃった」と舌をぺろっと出した。


 船に乗るとワクワクする。お互い向かい合う席に座る。ママは綺麗にスカーフを首に巻いていた。きっと不器用なママでは難しいから、パパが巻いてくれたんだろう。本当に仲が良くて、不思議な気持ちになる。

「ママ…ごめんね。パパとせっかくのランチだったのに」

「いいの。灯花とゆっくりできるのも嬉しいから」

 川からの風が心地いい。

「ママ、パパとお別れするつもりなの? 本気?」

「灯花…。心配させてごめんね」

「…私はママがしたいようにしたらいいから。離れたってパパと会えるし」

「うん。パパと離れたいわけじゃないの。でも…ずっと一緒って言うのも辛いかな…って思ったの」

「パパが辛いの?」

「パパに我慢させてるのが…辛くて」

「え? パパ、何も我慢してないと思うよ。晴さんのところ行ってるし」

「そう…だけど」

「それが辛いんだったら、お別れもいいけど」

「それは…」

「私はママと二人でも平気。他の人はいつでも会えるし。もちろん、別れないのは嬉しいことだけど」

「…ありがとう」

「ママ…。私、晴さんの服にミルク吐いたことあった?」

「ミルク…あったわよ」と言うと、ママは思い出したのか、おかしそうに笑った。

 晴さんはなぜか私をよく抱っこしてくれたのだけど、ミルクもあげたりしてゲップまでさせてくれていた。ずっと抱っこしてくれてんだけど、やっぱりミルクを戻してしまうことがあって、晴さんはびっくりして固まっていたらしいんだけど、私も目を丸くして、吐いたことで楽になったのか笑ったらしい。

「慌てて、灯花を引き取ろうとしたら、晴さんに『シャツ買ってくるから』って言われて…。待ってたら同じシャツを五枚買ってきたの。それで車の中で着替えて、また灯花を抱っこするって言って…」

「ママ…大変だったね」

「そうよ。灯花がまた戻さないかヒヤヒヤしたんだから」

「でも二回目は肩にタオル地のハンカチ乗せて抱っこしてたわ。私より母力ははりょく高くて…。でも鞄に新しいシャツをいつも入れてたの。それぐらい、灯花が可愛かったみたい」

「赤ちゃんは誰でも可愛いでしょ?」

「まぁ、そうね。でも晴さんは『どこの赤ちゃんより、灯花が可愛い』って恥ずかしくなるくらい言ってた。…三人とも子育てが初めてのことだったから、右往左往したけど、あの二人のおかげで、とっても楽しかったの」

「ママ…。やっぱりパパは好きなことしてるし、ママがパパを好きな間は一緒でいいと思うよ」

 ママはじっと私を見た。ウェイターがドリンクを聞いてきたが、フランス語が分からないなりになんとか注文をする。メインもデザートも選べてとても楽しみだ。

「晴さん…パパのこと好きだけど。私も晴さんを元気にしてあげたいって思うの。だから、一緒にいれたらいいなって思ってる」

「灯花…晴さんのこと、好きなの?」

「好きだよ。だって…あんなに優しくて、かっこいい人なのに…ずっと一緒にいたら好きになるでしょ? だから…。ママはもしかして、それがあるからパパと…晴さんとも離れようとしてるの?」

 ママはきっと本当のことは言わないんだろうな、と私は思った。親子でおんなじような恋愛して…。

 心地いいスピードで進む船に乗って、私とママはランチをスタートさせた。

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