第13話 待ち人
「別に灯花に話しても…仕方のない話だけど」
「仕方なくない。聞きたい」
どんなことだって、私は知りたかった。晴さんの孤独がどこから来て、そしてずっとあるのか、知りたかった。
そして晴さんから聞いた。
晴さんの家は旧家で大きかったが、祖父は既に亡くなっていて、事業は晴さんの叔父にあたる息子が継いでいた。晴さんのお母さんはその社長の妹だったが、家同士の結婚相手が決められていた。
その人をどうしても好きになれなかった晴さんのお母さんは家出をしてしまった。戻ってきた時は身重で、すでに処置できない期間に入っていた。もちろん、縁談は破断となった。
「晴のお父さん、優しくて、かっこよかったの」と晴さんは聞かされた。
「好きだった?」
「…。すぐに会えるわよ」
晴さんに微笑むと窓の外を眺めて、タバコの煙を吐く。
そう言われたものの、晴さんがお父さんに会うことはなかった。
外聞もあったのだろう。出産してからも、晴さんのお母さんは家から出ない生活をしていた。
優しい母と過ごしていた幼少期。家には使用人もいて、晴さんはきちんと畳まれた洗濯物、皺ひとつないシーツの貼られたベッド、そういうものに囲まれて暮らしていた。ほんの僅かに開けられた窓から外の空気が流れ込んでくる。
「一緒に遊びに行かない?」と晴さんが誘っても、母は首を横に振って動こうとしなかった。
叔父からもらう生活費で母は何もせずに晴さんと時間を過ごす。絵本を読んだり、絵を描いたり、積み木をしたり。何をしてもお母さんは晴さんを褒めてくれたらしい。そしていつもタバコを吸いながら、外を眺めている。
「晴…。晴が生まれた日はとっても晴れた日で、私はきっとこの子は幸せになるって思ったの。陣痛が辛かったけど、窓から本当に青い空が見えて…。生まれた時からずっと、晴は綺麗ね。」と母親が言う。
「綺麗?」
「そう。綺麗な顔してる」
母親に褒められて、嬉しくないわけがなかった。
幼稚園に行く年齢になっても通うことなく、ずっと家で母と暮らしていた。ご飯は食堂に行けば用意されて、それを二人で食べる。毎日、毎日、静かな二人だけの世界だった。
雨の日は
「晴、見て。雨。すごいわ。向こうが見えないくらい」と窓の外を一緒に見て過ごす。
「外にいる人は大変だね…」
「そうよ…。私たちみたいに雨を見る暇もないわ」と言う。
「お出かけしたいな」
「こんな雨の日に?」
そう聞くので、晴れの日に出かけないかと誘ってみた。
「今日はいいお天気よ。晴、見て、雲がひとつもない」
「本当? じゃあ、表に出よう」
ひどく悲しげな顔で「私は…ここにいなきゃいけないの」と晴さんの頰を撫でながら、結局、ずっと部屋にこもっている。
母は毎日、昼寝をする。
その時間になると、祖母が晴さんを外に連れ出してくれる。
「お母さんはね、病気なんだよ」と祖母が言うので、晴さんは死んでしまうのではないかと不安になった。
それでせっかく外に出てもすぐにお母さんのところに帰りたくなってしまう。
ある日、お母さんのために探していた四葉のクローバーを見つけるのに夢中で、少し帰るのが遅くなって、部屋に戻った時があった。
お母さんは半狂乱になって、晴さんを探していたらしい。タバコの吸い殻が詰まった灰皿は床に落ち、ベッドはシーツまでめくり上がり、開け放たれたクローゼットは空っぽで、服は全部床にぶちまけられていた。
「四葉の…」という言葉は、肩で息をしているお母さんには届きそうになかった。
僕が側にいないとだめなんだ、と子ども心に理解した。
流石に小学校に上がるというので、祖母がランドセルを買ってくれた。
「学校に行くんだよ」と祖母に言われた。
「学校…」
「そう。みんなと仲良くしたり、勉強したり…」と祖母が言った。
母はなぜか黙って、祖母を見ていた。
「外に出ていいの?」と晴さんが聞くと、母は何も言わずにタバコに火をつけ、窓の外を眺めた。
小学校になるというので、晴さんに小さな部屋が与えられた。もう母親と寝るのはやめなさいと祖母に言われる。
「お母さん…と一緒はだめ?」
「だめじゃないけどね。晴が小学生になるから、少しずつ大人になるからね」
「大人に?」
「そう。少しずつ一人で何でもできるようにならないとね」
祖母に言われると、それはそうか、とも思った。その日以来、母の部屋は鍵がかけられ、晴さんが入ることができなくなった。外から扉をどんどん叩いても、返事もしてくれない。祖母に言うと、慌てて、祖母も見に来てくれたが、ドアは開かなかった。
晴さんが学校に行ってる間にご飯を食べてはいるようだったが、晴さんが帰ってくると部屋には鍵がかけられ扉は開かなかった。
ただ学校に行く時、帰ってくる時、窓に母の姿を見る。手を大きく振っても、振り返してくれない。ただの人形のようだ。母親にどれだけ手を振っただろう。いつか返してくれるかもしれないと思って、毎日、毎日降り続けたが、返ってくることはなかった。
そのうち、ちらりと見るだけになる。
窓に映るただの人影。いつしかそれは駅に貼られたポスターのように気に留まらない存在になった。
窓の母は少しも年を取らないように見える。でも晴さんは成長目覚ましく、青年になる。
整った容姿で女子から好意を持たれることが多かったが、全く興味が持てなかった。
ある日、学校から帰ってくると、玄関に母親が立っていた。驚いて、晴さんは息を呑む。
「お帰りなさい」と言われて、何も言えなかった。
「ずっと待ってたのよ。きっと来てくれるって。いつかきっと来てくれるって。遅かったけど…でもやっぱり来てくれた」
晴さんのお母さんは譫言のように呟いて、晴さんに近寄った。思わず後退りした時、母の顔が無表情になる。
「行かないで…。私を置いて…」
「置いて…」
母親がうずくまり突然、泣き始めた。あまりのことに晴さんは愕然とした。
「みんな、消えてしまう。私から。晴…晴も…。みんないなくなる…。晴に会いたい。晴はどこ? 私の赤ちゃん…」
一瞬、あの優しかった母のことを思い出す。一緒に過ごした時間。二人だけの世界。でもその時の晴さんはそれがいかに歪だったか分かった。
「お母さん…」
「お母さん? あなたは誰? 晴、晴を知らない? 学校に行くって行って…そのまま帰って来ない」
「晴だよ。僕が…」
「晴? 同じ名前なのね。あなたも素敵な名前をもらったのね。私の子も同じなの。幸せになれる名前…」
狂っていると思いながらも、母のことが悲しい存在だとしても、晴さんは手を差し出した。その手を取ることはなかったが、晴さんの顔を見上げて「綺麗な顔」と言った。
「それから…ずっと入院している。親に決められた結婚が嫌で飛び出したけど…結局、母は世間知らずのお嬢様で、相手を信じて…おかしくなった。…でもそんなことも…もう何も覚えていないらしくて…お見舞いに行っても、怖がって…。だから行かなくなった」と遠くを見る晴さんに私は勝手に晴さんのお母さんを思い浮かべた。
晴さんのお母さんはどんな思いで外を眺めていたのだろう。誰かを、誰かが来てくれるのをずっと待っていたのかもしれない。晴さんと二人で。その人が来る日を…。
「晴さんの名前…素敵ですね」
そんなことしか言えない私に、晴さんは
「ありがとう」と言ってくれた。
晴さんの名前の通り、もっと幸せになっていいはずだ。そう私が言えたらどんなにいいだろう。私は自分が幼く過ぎるし、取るに足らない存在に思える。
「晴さん…大好き」
晴さんが私を見て、息を吐く。
「大好き」
何度ため息を吐かれても
「大好き」
伝えたかった。
冷めた紅茶と朝食が置かれたテーブルは届かない距離を感じさせる。
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