第3話 竜と魔女・二
水浴びをしたのは、一体いつぶりだろうか。湖で灰を落としながら、竜はそんなことを考えていた。
『……便利なものだな』
竜は今、元の姿より一回りか二回りほど小さくなった姿でいた。魔女曰く、竜の身体が巨大化……いや、肥大化するのは、魔女から受けた呪いが強大すぎて制御できず、その影響が肉体にまで及ぶため。二つの呪いを用いて、互いを制御している現在の灰かぶりの竜は、無駄に巨大な肉体を形成せずとも活動が可能で、それ故に限界まで肉体を縮小させていた。
とは言っても、大型動物程度の大きさはある。人二人程度なら簡単に乗せて運べるほどの大きさだ。元の状態と比べれば、一回りか二回り小さい、というだけである。
——成り行きで番となった魔女を乗せ、彼女の案内通りに空を飛んだ灰かぶりの竜が行き着いたのは、アドラ大陸南部にあるネザン大森林。竜がまだ人であった頃は、『帰らずの森』と呼ばれていた地だった。
魔女の指定した場所には、小さな湖と、それから、森の中にあるにしては立派な造りの家。ほとんど大陸の端から端までを飛んで横断した竜を労うように、魔女は『まず水浴びをして灰を落としてくるといい』と提案した。
『本当に……灰にならないのか』
水浴びをしながら、竜は周囲の木々に視線を移した。灰の呪いが健在であれば、既に……竜がこの森に近づいた段階で、この森一帯は灰と化していただろう。第二の灰の砂漠が生まれることは間違いない。
だが、実際にはそうはならなかった。百余年ぶりに嗅ぐ木々の香りと、どこからか聞こえてくる鳥の囀り。この時期の湖の水は少しばかり冷たかったが、それさえも心地良く感じた。
何もかもが、元通りになったような——そんな気がした。
……不意に、音がした。がさがさと、草木を掻き分ける音が聞こえる。音からして人型の何か。恐らく、魔女がこの湖に向かっているのだろう。
やがて、タオルやら何やらを入れた籠を持った魔女が現れた。
「久しぶりの水浴びはどう?」
竜に血を飲ませた時は、どこか恍惚として、不気味な笑みを浮かべていた魔女。今は最初のように、感情を表に曝け出さない、無機質な表情をしていた。
『最高の気分だ。と、言いたいところだが……』
「?」
こてん、と、頭を倒す魔女。竜は前脚をなんとか後ろに回そうとして、断念する。
『……背中が洗えなくてな。動物のように転がって洗うのは、まだ少し、羞恥心でね……』
この湖はそう深くはない。湖というよりは池といった方が正しいくらいには。竜が背中を洗おうとすれば、その辺りにいる動物のように、転がって背中を擦り付けなくてはならない。
だが、呪いを受けて竜の姿になっているとはいえ、百余年ほど前までは彼もまた人間であった。動物のように振る舞うのは、なにかとんでもなく大切なものを失うことに繋がるような気がして、気が引けた。
そんなくだらない竜の言葉に、魔女はどこか、安堵したような様子を見せる。くだらなさ故に心の中で笑ってしまっただけなのか、それとも、『そんな軽口が叩けるほど余裕ができたのか』と安心しただけなのか。
「ここには私たちしか入ってこれないから、恥ずかしがらずに転がるといいわ」
『……やれやれ。そうしよう』
竜は思い切って、水に転がる。水中の岩に背中を擦り付けると、なんとも言えない心地よさを覚えた。
案外、悪いものでもない。そう告げようと、竜は魔女の方を見た。
——そこには、服の一切を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となった魔女がいた。食が細いのか、肋骨は浮き、手足には余分な脂肪がついていないように見える。陶器のような白いその身体は、まさしく陶器のように、触れれば砕けてしまいそうだった。
『ちょっ……待て待て。すぐに出るから、もう少し待ってくれ』
竜は視線を外し、水中を見つめた。小虫が泳いでいるのが見える。
「……? 不思議なことを言うのね。湖はこんなにも広いのに」
『広さの問題じゃなくてな……』
魔女はそこでようやく、竜の言っていることを理解したのか、小さな笑い声をこぼした。
「……ああ、ふふっ……それこそ、何の問題もないわ。私たちはもう、夫婦なんですもの」
ぽちゃぽちゃと、湖に足を踏み入れる音が響いた。竜は魔女の裸体を見まいと目を逸らし続け、魔女はそんな竜に手が届く距離まで歩み寄る。
そして、前脚の付け根付近に手を触れ、鱗を撫でる。身体に纏わりついていた灰が無くなったことで敏感になったのか、竜はびくんとその巨体を震わせた。
「……元のあなたも素敵だけれど、これくらいの大きさだと、可愛さもあって少し違った魅力があるわ」
『か、可愛い、か……? 俺にはよく分からないが……』
水面を見れば、そこには竜自身の姿が映った。子供が見れば、まず泣き叫ぶ——大人であっても、人によっては泣き叫ぶほど、恐ろしい姿だ。可愛らしいなどと評価される要素は、これといって無い。
魔女はなおも、鱗を撫で続けた。手はやがて、前脚から首元へ。艶やかな指先は、竜を誘惑するかのように舞っていた。
「その様子だと、あなたは自分の姿を見たのも初めてなのね」
『あ、ああ……灰の砂漠には、自分の姿を映すものはなかったからな』
視界に映る範囲で、自分がどのような姿になっているかを確認したことはあっても、全体像を見たことはない。ましてや、顔面など以ての外。竜が自身の全体像を確認したのは、これが初めてのことであった。
「あなたは……呪いを受けた竜の中では、かなり整った見た目をしているわ。肉体の崩壊もない。とても美しいわ」
『俺は、人間時代にも他の竜には会ったことはないが……竜は、皆同じ姿をしているわけではないのか?』
「いいえ。中には本当に、醜い姿の竜もいる。灰かぶりの竜さん、幸運だったのね」
魔女にそう言われ、竜はふと、誰かから伝え聞いた話を思い出した。
——竜は、この世で最も醜い存在だ。魔女に抗い、呪いを受けた者たちであるから。
あるいは、それは本当に、見た目を揶揄する意味での『醜い』という表現だったのかもしれない。
『——複雑な心境だが、な……』
幸運だったのか、不運だったのか。真の幸運は、そもそも竜になどならないことだろう。竜となった上で、整った見た目に生まれ落ちたことが幸運だと言うのならば、それはあくまで、竜が正気を保つための自身への褒め言葉以外の何物でもないのではないのか。
そう考えれば、複雑な心境であった。竜となったこと自体が不運。しかし、整った見た目に生まれ落ちたことは幸運。喜んでいいのか、それとも、悲しめばいいのか、灰かぶりの竜にはそれが分からなかった。
不意に、竜を竜たらしめる存在に変えてしまう、魔女という存在が頭によぎった。強大な力を持ち、老いることも、死ぬこともない。この世界の絶対的な支配者。
——竜の目の前にいる白銀の髪の魔女は、そんな魔女たちを、同族を、殺そうと提案したのだ。
『……魔女。さっきの話だが——』
竜がそう口にすると同時に、魔女の手が離れる。
「この時期の水は冷たいから、浸かりすぎるとあなたでも風邪を引いてしまうわ。その続きは、ご飯を食べてからにしましょう?」
声色は変わらない。しかし、どことなく、冷酷さを感じさせる雰囲気を纏っていた。
そもそも、竜は風邪を引くのだろうか。今までに経験はない。竜はそんなことを思いながら、彼女の言葉に同意した。
『……そうだな。そうしよう』
今、その話題に触れるのは好ましくない。魔女の態度から、竜はそう判断した。
そうして、しばらくしてから魔女が湖から上がり、服を着終えた後で、竜も陸に上がった。その間、二人の間に会話はなかった。
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