第2話 竜と魔女・一

——アドラ大陸北部、灰の砂漠。


 灰かぶりの竜と呼ばれる存在によって、あらゆるものが灰と化した場所。百余年ほど前は、小国アルテリスの第二の首都とも称される巨大な都市が広がっていたが、竜の出現によって一夜にして壊滅。一帯は、夜明けよりも早く、砂漠となった。


 現在は禁域として指定され、何人たりとも立ち入りを禁じられている。



『……今は……ああ……何年……』



 灰かぶりの竜は、ゆっくりと体を起こした。体を動かすたびに、辺りに積もった灰が宙を舞う。竜の体は、竜となってからずっと、灰にまみれたままだ。


 近頃は理性を保つことも難しくなってきた。一日のうち数時間ほどは、記憶のない時間が存在している。もうじき、知性のない獣のように、この意識も無くなってしまうのだろう。


 竜は不老不死の存在だ。魔女の呪いによる影響だと言われてはいるものの、その真偽は不明。確かなことは、竜は自害することもできなければ、人の手で殺されることもできないということ。


 ただ一つ例外があるとするなら——それは、魔女だ。不老不死の竜を殺すことのできる唯一の存在は、その竜を作り出した存在である魔女たち。魔女は自らに抗った愚か者を竜に変え、愚か者が永い時をかけて苦しみ続けるのを愉しんだのち、知性を失ってから暫くすると命を刈り取るのだという。


 それは、愚か者にかける最後の慈悲なのか。それとも、単に飽きてしまったからなのか。


『俺も……もう……すぐ……か……』


 灰かぶりの竜は、生気のない瞳で地平線を見る。どこまでも続く灰の砂漠。百余年、変わることがなかった景色。人として生きてきた歳月よりも長い時間、この灰の砂漠と共に生きてきた。


 この灰は、竜がまだ人であった時の故郷だ。友人だ。家族だ。恋人だ。大事にしてきたはずのもの全てを、自らの手で灰にしてしまった。


 『もうすぐだ』、『あと少しだ』。竜はそんなことを自分に言い聞かせていた。知性を失い獣となれば、やがて魔女が殺しにくる。そうなれば、ようやく、あの世にいる大事な人たちに懺悔することができる。


 早く死にたい。早く殺してくれ。竜となってからは、そんな思考ばかりが脳を埋め尽くしていた。



——誰かが言っていた。竜はこの世で最も醜い存在だと。



 その意味が、竜となった今はよく分かる。愛する人たちを手にかけ、そのことを後悔しながら、死にたい、死にたいと願いながらも生き続けるしかない・・・・・・・・・者たち。確かに、これ以上醜い存在が、他にあるだろうか。



『……?』



 ふと、何かの気配を感じ取る。揺らぎ揺らめく灰の砂漠には、何もいない。いるはずもない。ほんの少し近付けば、瞬く間に灰になってしまう。そんな場所に好んで来る者などいるはずもない。


 しかし。


『……この気配は……人……?』


 それは確かに、人の気配であった。竜は、人のそれよりも遥かに遠くまで見通すことのできる眼で、灰の砂漠の先を見た。


 そこには、間違いなく——人がいた。


『馬鹿な……何故ここに人が……』


 自殺志願者だろうか。ごく稀に、そういった人間もいる。竜となってからは、二人、存在した。


 だが、それにしてはあまりにも幼い。まだ一〇数歳の少女だろうか。少女はゆっくりと、灰の砂漠を進んでいるようだった。


 やがて、少女は竜の吐息がかかる距離までやってきた。感極まったように涙を流し、けれど、表情は露わにしないまま、大袈裟に、両手を広げた。


「やっと見つけた……私の、運命の人」


 沈黙が流れる。竜は冷静に、まじまじと少女を見つめた。


 腰まで伸びた銀色の髪に、同じく銀色の瞳。到底、人のものとは思えない、陶器のような肌。まるで作り物のような少女だ。真っ白なワンピースに身を包んだ少女は、この灰の砂漠の中で、一際輝いて見えた。


 否。そんなことよりも、おかしな点がある。



『何故……何故、呪いが効かない……?』

「?」



 灰の呪い。それが、魔女がかつて人であった竜に押し付けた力だった。


 呪いは竜の意思に関係なく発動し、触れたもの、近付いたもの、その全てを灰に帰す。例外はない。


 ただ一つ、可能性・・・があるとするなら。




「ああ……ふふっ。効くわけないわ。だって私——だもの」




『……やはり、か……』


 魔女。この世界の頂点に立つ存在。この世界で、最も尊いとされる存在。だが、少女は、彼を竜に変えた魔女とは、また別の魔女であった。


 竜は、心が安らいでいくのを感じた。魔女が竜のもとを訪れる理由など、一つしかない。それは、竜を処分する時だ。ようやく自分にもその番が来たのかと、竜は安堵にも似たため息をこぼした。


『そうか……よく分からないが……俺は、ようやく死ねるということか……』

「死ねる?」

『お前は……魔女だろう……? 俺を、殺しにきたんだろう……?』


 暫しの沈黙。のちに、魔女はとぼけるように首を傾げた。


「殺さないわ」

『……何?』


 今度は、竜が首を傾げた。彼女の透き通るような、けれどもどこか無機質な声からは、彼女の感情は窺い知れない。



『なら、何故……尊き魔女様が、このような灰まみれの場所に……?』

「ふふっ……尊き魔女様、なんて照れ臭いわ。私は、ただの恋する乙女だから」

『乙女……?』


 照れ臭い、と言いつつも、一切感情を露わにしない魔女は、ゆっくりと、竜の頬に手を添える。百余年もの歳月で、感覚さえ鈍くなってきていた竜は、それでも確かな感触を覚えた。まるで氷のように——冷たい手だった。




「私はね、灰かぶりの竜さん。あなたを迎えに来たの。婿として」




 魔女は言った。その言葉の真意が理解できず、竜は唸り声をあげる。


『……何を言っているか……分からない』

「私、占いが好きなの。それで、運命の人を占ったら……あなただった」

『占い……? 運命の人……?』


 愛しい我が子に触れるように、魔女は優しく竜の頬を撫でた。


「ここに来て分かったの。占いに間違いはなかった。私……あなたに一目惚れしているわ」


 魔女の表情に変化はない。しかし、嘘を吐いている様子もなかった。魔女の思考を読み取ることができず、竜は思わず苦笑する。


『……魔女の中にも、おかしな奴はいるんだな』


 竜を、このような醜い存在に変えてしまった魔女は、のような性格をしていた。もうはっきりと、顔を思い出すこともできない。だが、目の前にいる魔女は、そんな者たちとは根底からして違う何かなのだと、竜の本能が告げていた。


——もう少し早く出会っていれば、あるいは。


 まだ魂の大部分が人であった時に出会えていたなら、竜は、彼女になびいていたかもしれない。獣に堕ちる前であれば、あるいは。


『残念だが……それは叶わない願いだろう。もう、意識も混濁しているんだ。それほど……長くはない』


 今、こうして普通に話せていること自体が、一種の奇跡のようなものだ。もう少し出会うのが遅ければ、竜は、出会い頭に魔女を襲っていただろう。


 悲観する竜とは反対に、魔女は口角を吊り上げた。


 


 何となく、そう表現したくなるような、どこか不気味な笑顔だった。


「何を言っているの? 私は魔女よ。あなたを竜に変えた者と同じ存在」

『……この呪いを、解くことができるとでも?』


 魔女は首を、横に振った。


「……残念ながら、呪いを解いてあげることはできないわ。それは、あなたを竜に変えた魔女にしかできないこと」

『そうか……」


 落胆する竜に、魔女は続けて言葉を紡いだ。



「けれど、新しく力を分け与えることで、今ある呪いを抑えることはできる」



 竜ははっとなって、魔女の顔を見つめる。銀色に煌めく宝石のような瞳は、じっと、竜を見据えていた。


「私の運命の人。。この灰の砂漠から、逃げ出したいとは思わない?」


 それは、竜にとって、これ以上ないほどの望みであった。思わず魔女から視線を外し、地平線を眺める。どこまでも続く灰の砂漠。百余年、変わることのなかった景色。竜にとっての、終の棲家。


『……叶うなら……こんな場所から、すぐにでも離れたいと……そう思っている』

「ふふっ……最愛の人の願いは、叶えてあげたいものね」


 魔女はまたもや不気味な笑みを浮かべると、どこからともなく、柄から刃まで、全てが黒一色の短剣を取り出した。鍔には血のように鮮やかな赤い宝石が埋め込まれている。


「あなたに力を与える。この力を使えば、あなたの『灰の呪い』を制御することもできる。けれど、その代償として——私の、お婿さんになってもらうわ」


 信用できるか、否か。竜に切先を向けたまま、魔女は、竜に判断を委ねた。


 しばしの逡巡ののち、竜は、大きな口を開き、唸る。


『……構わない。放っておけば、近く朽ちゆく魂だ。人の心を持ったまま生きられるというのなら——この世界が終わるまで、君を愛すると誓おう』

「その言葉を待っていたわ」


 魔女は微笑むと、短剣を自らの左の手首に押し当て、引く。鮮血が噴き出し、魔女は初めて……今まで見せたことのない、恍惚とした表情を浮かべた。


 何をするかは、本能的に悟っていた。頭を垂れ、大きく口を開き、を迎え入れる。魔女の手首から滴る血を、酒でも仰ぐかのように、腹の中へと収める。



——直後、全身を鋭い痛みが駆け巡る。どこかで味わったことのあるような痛み。丁度、竜が竜となった時、魔女から呪いを押し付けられた時のような痛みだった。


 思わず、絶叫する。遮るもののない灰の砂漠に、空気を震わせるほどの轟音が鳴り響いた。




——しばらくして、痛みは落ち着いた。不思議と、感覚が冴え渡り、思考までもが透き通っているかのように思えた。


「生まれ変わった気分はどう? 灰かぶりの竜さん」

『……随分と、晴れやかな気分だ。ずっと感じていた、終わりがすぐ目の前にあるような感覚……それが、嘘のように消えた』


 生まれたての赤子のように、思考に一切のノイズが無い状態。鈍っていた感覚は冴え渡り、鱗を撫でる風の感触さえ、鮮明に感じ取ることができる。


「それは、私が与えた力が、灰の呪いを抑え込んでいるから。あなたの中で、二つの呪いが上手く調和されているから。そうしている間は、あなたが人でなくなることはないわ」

『そうか……思いの外……』


 呆気がない。そう思った。百余年にも及ぶ不幸な運命が、たったの数十分程度で解消されたことに、どこか、非現実感を覚えていた。


 既に、短剣で斬りつけたはずの魔女の左手首からは傷が消えていた。魔女は竜と同じく、不老不死の存在。改めて、それを実感する。


 直後、魔女が歪んだ笑みを浮かべた。自らの両頬に手を添え、陶器のような白い頬は、やや赤らめていた。


「ふふっ……これで、私とあなたはつがいになった。これほど幸せな気持ちになったのは、初めてだわ」

『番、か……』


 魔女は自らのことを、『ただの恋する乙女』だと称していた。占いが好きで、ここへ来て竜に一目惚れしたと。


 しかし……ただの恋煩いにしては、竜に対する感情が大きすぎるように思えた。どちらかと言うと、恋煩いというよりも……何か裏があって、目的があって近づいていると。そちらの方が、しっくりとくる振る舞い方だ。


「……ねえ、灰かぶりの竜さん。私の運命の人。私と一緒に——」


 魔女はゆっくりと言葉を紡ぐ。竜は少し身構え、魔女の言葉を待った。







 


「——魔女を、殺しましょう?」



 風が吹き、灰が舞い踊る。呪いを受け、灰にまみれ、自らの悲痛な終幕を嘆いていた竜は、この日、魔女と一つの契約を交わした。

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