一年後 宣戦布告

 名前を呼ばれて振り返ると、そこには皇女様が立っていました。白いブラウスに黒いひざ丈のプリーツスカート。先ほど面会した時と同じ服装をしています。


「こんなところで、どうしたの?」

「若干、迷子でした」

「そっか。そろそろご飯だって」


 言われてみれば、日は随分傾いています。いつもだったら家に帰りついているような時間で、ご飯ができているというのも自然な流れでした。


「皇女様」


 バルコニーから皇宮の室内のほうに身をひるがえして、皇女様と正対します。


 背中の半ばくらいまである黒い髪の毛はとかされただけなのでしょう、柔らかく流れ落ちています。顔の上半分を覆う、黒くて細い縁の眼鏡の奥の瞳は大きくて、首を傾げた彼女は不思議そうに私を見つめていました。


 私より十センチは小さい背丈。いつ見ても幼い言動。

 正直言って、私と皇女様を比べてどちらが奇麗か、と問われたのならば過半数の人々が私に手を挙げるでしょう。


 けれど、どちらが素敵な人か、と問われたのなら。


 私の負けは、確実です。


「お願いが一つ、あるんです」

「あたしにできることならば」

「夕食の後、この場所にユーリさんを呼んでいただきたいんです」

「声を掛けるくらいならいいよ」


 来るかどうかはわからない、と皇女様は首をかしげました。


「あいつは君のことが嫌いみたい」


 知っていますよ。


***


 夜の窓辺に一人でいると、サエが私に気づいてやってきました。何か聞きたげなので、こちらから言ってあげることにします。


「私、人を待っているの」

「……誰?」

「ユーリさん」

「あ、わたしさっき会ったよ」

「そっか」


 確か、サエはまだ見ていない中庭のほうに行くと言っていましたか。そんなところに、いらっしゃったんですね。


「私、あの人のこと好きだったんだ」


 くるり、と手に自分の髪を巻き付けます。そちら側に視線を落として、


「え」

「うん。一目惚れでさ。振られちゃったんだけどね。今日、会えたらけじめをつけようって。『よかったら来てください』って手紙を渡したの」


 本当は言伝だけれど、そう言ったほうがロマンチック。こういう見栄っ張りなところが去年のあれを引き起こしたに違いありません。


「来てくれるといいけどね。私、かなりひどいことしちゃったから、嫌われてるだろうな」


 恨まれているかもしれませんね。


「でもさ、いつまでも好きでいるわけにいかないよね」


 当然ですが、人はいつか前を向いて歩きださなければいけません。いつまでも停滞したままでは、人間でいられないのです。


「叶わない恋って素敵じゃない? 

「永遠に恋をしていられるのって素敵じゃない? 

「愛してもらえないけれど恋をしている私って素敵じゃない?」


 まるで悲劇のヒロインみたいで、素敵じゃない。


「でもさ、いつまでもそうはいられないじゃない。私は、前に進まなければいけないし、変わらなきゃいけないんだ」


 生きていかなきゃいけないんだ。


「だから、私は今日、前を向く。あの人が来ても来なくても、もう諦める。そう決めた」


 諦めることは、負けることとは違います。確かに私はもう省みない選択をしましたけれど、これはけじめをつけることです。今までの自分に別れを告げて、新しく背筋を伸ばすことにすぎません。


「偉いんだね。サヨは、きちんと未来を見てる。わたしなんかとは違うや」

「一年越しだよ。全然偉くなんかない」


 これっぽっちの善行で救われるような罪だったわけでもありません。


「じゃあね。わたしは行くね」


 サエは身をひるがえしました。軽く顎を引いて後姿を見た後、再びバルコニーの手すりのほうに身を向けました。


 彼は、中庭にいたと聞きました。


 ユーリさんが私を好ましく思っているわけはなく、したがって彼がこの場所に現れる確率はいたって低いものでしたが、私がそれっきりで諦められるわけがなく、私はいたって未練がましく彼を想っているのです。


 ……想っている、とは少し違うかもしれません。

 お門違いな誤解でもって呪っている、くらいが丁度いいでしょう。


 さっきまでの明るさをすっかり忘れてしまったように、ことりと暗くなった空をバルコニーの手すりから身を乗り出して見上げます。月は見えませんでしたが、月の光は見えました。


「……落ちるぞ」


 躊躇うような息遣いが数秒聞こえて、後ろからそんな声が聞こえました。


 以前のように胸が高鳴ることもなく、いたって平然と、私は振り向きます。


「お久しぶりですね、ユーリさん」


 何の用だ、とでも言いたげにユーリさんの目線がこちらを見据えます。怖い顔をしないでくださいな。


「まさか、来てくださると思っていませんでした」

「人の頼みはきちんと聞く性分だ」


 優しいですね、恋に落ちてしまいそうです――同じ轍は踏みませんとも。


「一体何故、俺を呼び出した」


 何故でしょう。本当にわかっていらっしゃらないのですか?


「ユーリさん。好きです」

「そうか」

「あなたがどう応えるのかも、わかっています」


 放っておいたら、私はいつまでもあなたを想っているでしょう。


「きっと私、心が何かわかっていないんですよ。感情が何かも、曖昧なんです。迸るように熱い激情を、本当の意味で抱いたことが一度だってないから、こうやってごまかしているんだと思います。恋が何か、知らないんです」


 何か感情を抱いたとして、言葉にならない出来立てほやほやのそれを抱きしめるより前に、言葉という型に当てはめて無理やり飲み込んでしまうから、私は本当の気持ちがどんなものだか、わかっていないのです。


「だから私、もっと愚かしく生きていくことにしたんです」


 賢いふりをして、何でもかんでも言葉にできるふりをして生きていくことを、やめました。


 こんな風に私が言葉を尽くすのも、今日が最後でしょう。


「言葉を尽くすことでしか得られないものもきっとあります。けれど、それと同じくらい、言葉を尽くさないことでしか得られないものがあるんです。私は、それを見てみたいのです」


 なんて、こんな思いを言葉にして伝えようというのも間違っているのでしょうか?


「……そうか」


 ユーリさんは、一つ頷いたきりでした。反応が意外に薄いのでどうしたか、と思っていますと、


「あー……実はだな、それを俺に伝えて何の意味があるのか、と思っているんだが」


 本当、正直な人ですね。そんなところ、好きでしたよ?


「今まで私が抱いてきた思いが、本当に私の抱いてきた想いかわかりませんから――まやかしかもしれませんから。今まで何も思ってこなかったことにして、やり直してみようと思うんです」


 私がどう変わるのか。もっと素直に生きてみたら、何か変わるのか。

 変わらなかったらそれはそれでいいでしょう。


「いつかまたお会いしたら、後悔させて差し上げます。『あの時振らなければ』って。その宣戦布告だけ、しに来たんです」


 いつかは分かりません。

 十年後かもしれませんし、明後日かもしれませんし、天国での再会かもしれません。


 口角を上げて唇を引き結んで、顎を引いて見せました。私の覚悟と決意は揺らぎません。


「了解した。後悔してやるよ。楽しみにしてる」


 私の顔を見つめて、ユーリさんは、人差し指を唇に当てて微笑みました。

 私がずっと見たかった表情でした。肺が凍るほどに奇麗な微笑でしたが、なぜだか求めていたものとは違いました。去年の時点で手に入れることができなかったのも当たり前でした。

 私には、不相応すぎます。


「ユーリさんは、もっと笑ったほうがいいですよ」


 そのほうが素敵です。


 昨年までの私が絶対に利かない口を利きます。


「よく、言われる」


 まるで十年来の友達であるかのように。

 二人並んで、沈黙が気にならない時間が過ぎました。夏の夜らしく、生ぬるさの中に尖った涼しさを含んだ風が体を撫でて、わずかに汗ばんだ皮膚を冷やしていきました。


 ――ヴヴヴヴ


 ふと、傍らから振動が聞こえて目をやると、ユーリさんがポケットから携帯端末を取り出すところでした。

 画面を確認する素振りをして、眉を少しだけ寄せて、私に謝るような手の動きをして、応答します。


「――もしもし」


 私と話していた時とは、明らかに声のトーンが違っていました。柔らかくて優しい声。電話の相手を心から気遣うような、甘い声。電話先の彼女は全く知らないのだろうな、と思います。

 いかに彼が彼女を特別扱いしているのか。どれだけ大切にしているのか。まったくわかっていないが故の、あの態度なのでしょう。

 うらやましい、とは言いません。近くで彼の豹変ぶりを知るのも、なかなか楽しいですから。


 行儀が悪いと知りつつ、少しだけ聞こえてくる声に耳を集中させました。


「どうしたんだ?」

 ――ううん。何してるかな、って。

「何もしてない」

 ――嘘。サヨちゃんと会えた?

「会えた」

 ――良かった。……もしかして、お話し中だった?

「いや、そういうわけじゃない」

 ――そう? あのさ。

「?」

 ――好きにしていいんだからね。君がサヨちゃんを取っても、あたしは構わない。


 皇女様は、私に聞こえるようにしているのかもしれません。自分もユーリさんも、お互いから離れられないとわかっていて、ユーリさんを試して、私に見せつけているのかもしれません。なんて、被害妄想なのでしょうか。


「何でそんなことを言うんだよ」

 ――さあ?

「嫌だからな。お前が嫌だと言ってもくっついていくから」

 ――嫌だなんて言ってないよ。……じゃあ、そばにいてくれるんだ?

「可能な限り、な」

 ――ずっといてくれても、いいんだよ。

「もしできたなら、と言ってるだろ」

 ――できる限りは、いてくれるんだ。

「もとより居場所なんてほかにない」

 ――嬉しい。

「お前の隣が、一番居心地がいいんだ」

 ――黙っていなくならないでね。

「言った後だったら、いいのか?」

 ――……いじわる。

「冗談だよ。どこにも行かない」

 ――ありがと。……切るね。

「ああ」


 電話を切ったユーリさんがこちらに振り向きました。


「随分仲良しなご様子で」


 首を傾げて茶化してあげると、ユーリさんは肩をすくめました。


「それじゃ、私は貸していただいた部屋に戻りますね。ミナもそろそろテレビを見飽きたころでしょう」


 いくら村よりもチャンネルが多いからと言って、やっている内容が変わるわけじゃありません。


「……わかった。またな」


 またな、というのはまた明日、という意味でしょうか。それとも、私の宣戦布告に対するお返事でしょうか。どちらにせよ、先ほどの被害妄想は間違っていなかったようでしたね。


 頑張って道を覚えました、皇宮のどこも同じような廊下を歩いて部屋に戻ります。


「ミナ? 起きてる?」


 部屋の奥に声を掛けると、もぞもぞとする気配がして、ドアから見えるところに手が伸びてきました。


「あい……おかえりぃ」


 半分寝てるじゃありませんか。

 いつもだったらこのまま布団に押し込むところですが、今日は話したいことがたくさんあるので無理やり起こします。


 満を持して、少し寝た分逆に目が冴えてきたらしいミナの隣に座って、


「ね、ミナ、聞いて聞いて」


 お泊りの夜の話はコイバナに限りますよね?


 というわけで、宣戦布告の日の夜は、二人で楽しく皇女様とユーリさんの関係について話して更けたのです。


 皇女様に嫉妬しなかったのかって? 殺したいですよ?


 でもそういうの、しばらくお預けにしてみようと思いまして。

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