五日目 後半
振り向けば、あの憎たらしい皇女様がにこっと笑って首を傾げていました。
「こうじょさまッ」
私のわずかな動揺なんてお見通しだ、とでも言うように後ろから手が伸びてきて、猫でもつまむように襟元をつまみ上げられました。胸元に下げていた小瓶をひったくった彼女は、栓を抜き——飲み干しました。そして、瓶を投げ捨てました。
からり、と音を立ててガラス瓶が転がります。皇女様はそれをちらりと見て、すぐに視線を戻しました。
「貴様が皇女か」
彼女が問いかけます。
皇女様は答えずに、ただ前に足を踏み出しました。
「サヨちゃん。大丈夫?」
答えられない私に手を差し伸べます。
「どうしたの?」
まるで、後ろの彼女が見えていないように。ただ、私に向かって——
「皇女様、逃げて下さい」
彼女はもしかしたら、さっきの会話を聞いていたかもしれませんでした。私がどうしようもなくあり得ないほどに最低な人間だと解っていたかもしれませんでした。
でも、私は彼女の案内係でした。
言われたことしかできない
「私はもういいんです」
化け物の甘い誘いに乗りました。
それがどれだけ馬鹿げたことか、解っていました。
それでもやったのです。
もしも私が断れていたのなら、こうはなっていなかったのかもしれませんでした。
だから、それもこれも、全部全部私の責任なんです。
責任は、私が背負います。
「あたしは、今来たばかりだ。だから、サヨちゃんが一体あれとどんな話をしたのかは知らない。全く、知らない」
わざわざそこを強調して、主張してから、彼女は真っ直ぐに、私を見つめました。
「でもね。国民を見捨てるような人間にだけは——皇女には、成りたくない。君があたしを皇女と呼ぶ限り、あたしは君を見捨てない」
あたしは君と戦うよ、と皇女様は私の後ろを指さしました。
「——かか」
馬鹿げた騎士道精神で自己犠牲精神で博愛精神だ、と呟いてから彼女は私を地面に放り出しました。
「サヨちゃん。逃げて」
さっきと立場が反対でした。確かに決意をしたはずなのに、私は自分の決意に従うことだってできていませんでした。
足の下には冷たくて硬い、石畳。もう後ろの彼女は私を見てさえもいません。私が彼女にとって意味のない人間になったのは喜ばしいことでした。
眼鏡の奥、黒い瞳。皇女様と一瞬だけ、目が合いました。
「……ごめんなさい」
皇女様は私の所為で死ぬかもしれない。
「行って」
冷えた頭でよく見れば、皇女様はあちこち泥だらけで服はところどころ破れていました。きっとここまで来るのにいろいろあったんだろうな、ってそう想像することは容易でした。
本当に皇女様が私と彼女の話を聞いていなかったのかはわかりません。
けれど皇女様は私の命を救おうとしました。
早く行け、と急かすようにこちらを見る視線と目が合わないように気を付けながら、ふらつく足で立ち上がりました。
彼女が聞いていない、と言う以上、私が謝ることすらも許してもらえないのでしょうか。それとも、謝ること自体自己満足だ、と片付けられてしまうのでしょうか。
どちらにせよ私のしたことは罪深く取り返しがつきません。
後ろを二度と見なくて済むように、走ります。
どこからどう来たのかもわかりませんが、走ります。
***
けしてアウトドア派とは言えない私にランニングは向いていないようで、不便すぎるほどに曲がりくねった通路を数回折れ曲がる頃にはすっかり足が使い物にならなくなっていました。
「……サヨ?」
聞き慣れた声が聞こえてほっとしたのも束の間、視界には今最も見たくなかった人が映りました。
「どこにいたの⁉」
叱責するように私を心配する言葉をかけるミナに答えることもできずに、私は彼を——ユーリさんを見つめました。
「リサは?」
それが皇女様を意味する名前だと気づくのに、数秒だけかかりました。
「……ごめんなさい」
何て答えて良いのかわからずにそれだけ言って、彼の顔を直視することすらできずに目を伏せて、自分がしでかしたすべてを最初から思い返すことしかできません。
「サヨ、こっち」
何も知らないミナが私の手を引きました。その軽い調子が、たまらなく私を安堵させたのです。
***
さっきの広場らしきところに、先ほど一緒に居た二人が集まっていました。
「……あなたが帰ってきて、あの娘は戻らず、ですか」
ため息とともに首を傾げて見せたのはリオンさん。どうやらリサさんと一緒に戻ってこなかったことを責められているようで、私は俯くことしかできません。
「別動隊が任務完了したって。帰ろう」
やや冷淡すぎるほどにタクトさんがそう言いました。
電卓みたいな例の機器を手に持ったまま、絶対零度の視線をこちらに向けます。
「……リサが」
唇を噛んでそう言ったユーリさんにもタクトさんは冷たい目で、
「行くよ」
と言いました。
「あの娘が行くって言ったならそれでいい。僕らがどうにかしようとしてもどうしようもないことだよ」
さっさと私たちに背を向けて、
「死にたくないなら付いてきて」
とだけ言いました。
「サヨ。行こ」
いつものように私の手を引くミナの笑顔が少しだけ目に沁みて、涙がにじむのを隠して頷きました。なぜこんなに泣きたい気持ちなのかもわかりませんでした。
***
入ってきたところの、マンホールみたいな扉をリオンさんが閉めました。ふっと息をついて、目線を上に向けてぐるりとして、――
「え? ユーリさんは」
私が思っていたのと同じことをミナが呟きました。
「戻ると言っていました」
リオンさんが言いました。
すっかり暗くなってしまった辺りを見回すと、不気味と言って良いほどに誰も居ませんでした。昼間同じようにここにいたときは、学校帰りの子供たちがたくさんいたというのに、です。
「お二人は帰って下さい」
拒絶するように、突き放すようにそう言われて、何も言い返すことができませんでした。
「あなたの所為で、とは言いませんけれど。リサが居なくなった理由にはあなたたちが幾らか含まれています。……あの娘が無事に帰って来ることでも、祈っていなさい」
下手に首を突っ込んだことを、怒られていました。リオンさんが私たちを快く思っていないのは当たり前のことでした。
「……はい」
ごめんなさい。
***
「あーあ、やっちゃった」
帰り道、あえて大したことないように言って見せたミナでした。いつもだったらそれに乗って気分を軽くするところでしたがそうは行かず、口を噤んで俯きます。
「……大丈夫だよ。きっと帰って来るって。——あ」
ミナが声を上げて見上げた先を、どんより沈んだ気持ちで私も見上げます。
視線の先には、色とりどりの提灯が並んでいました。屋台もずらりと並んでいて、これであとはたくさんの人さえいれば完璧、と言った具合です。
「そっか、皇女様たちが来るから日にちをずらす、って」
明日は、毎年恒例の夏祭りが開催されるのでした。いつもは一週間ほど後ですが、今年は皇女様たちがこの村を訪れるので、日にちをずらしたそうです。
「明日、さ。皇女様たち誘おっか」
『明日』。私の所為で彼女に訪れないかもしれない時間の話を、ミナが懸命に続けます。
「きっと皇女様、夏祭りとか見たことないよ。ハコイリムスメだもん、きっと」
「そうだね。一緒に行けるといいね」
設営をしている近所のおじさんに挨拶をして、会場を通り過ぎました。
「行けるよ!」
根拠のないミナの言葉がいつもは癇に障って少しばかり苛立つのですが。
今日ばかりは、縋ってみたいと思いました。
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