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そんな日々の中、琴子はアイの前で、たった一度だけ大きな声をあげて泣いたことがある。ユーグから、もう元の世界には帰れないと聞いたときだった。
琴子はずっと、アイと一緒に元いた世界へ帰ることをたったひとつの希望としてこの世界で生きてきた。いつか必ず帰ることができると信じていたからこそ、琴子はこの数ヶ月、気丈に生きてこられたのだ。
二度と元の世界……元の暮らしには戻れないと知って、心を支えていた柱がぽきりと折れてしまった。
自分で思っていたよりも、ずっと心はぎりぎりだったのだ。アイやユーグ、それから必ず帰るという強い思いで、細い不安定な支柱だけを頼りにどうにか立っていた、脆く危ういものだった。
「森の精霊が言うには、この場で発動した“大いなる魔力”が、時空を超え他の世界にまで影響を及ぼしてしまったようだ。それが偶然にもコトコ、ぬしと波長が合い、世界の狭間を飛んでこの世界へやって来た。時空の扉を開けるには、“あれ”と同じかさらに強大な魔法を発動させる必要がある。それ自体はぬしの魔力を使えば不可能ではないだろう。だが、この世に平行に存在する世界は星の数よりさらに多くあるという。どこへ繋がるかはわからない。
つまりコトコ、ぬしが生きていた世界へ戻る確率は、あの夜空に輝く星々から、たったひとつを見つけ出す可能性よりも低いのだ。ぬしは、元の世界へ戻ることはできぬ」
元の世界、元の生活が好きだったわけではない。日々の暮らしに疲れすべてを投げ出したいと思うことも何度かあった。
しかし、思うだけだ。本当に投げ出すつもりなどなかったし、大切な家族や友人だって確かにいたのだ。
他の生き方なんて考えもしなかった。ましてやそれをすべて失う日が来るだなんて……日々を、家族を、二度取り戻せなくなるなんて、思ったことなど一度もなかった。
琴子はひとりで家を出て、森の中を走り回った。
来たのだから、帰れないはずがない。必ずどこかに出口があるはずだ。そこに辿り着ければ、ここに来たときのように、気づけば元の世界へ戻っているに違いない。
無理だとわかっていた。出口なんてない、いつの間にか戻っているなんてこともない。
頭ではわかっていても、心が拒絶した。ユーグの言ったことを信じることができず、足に擦り傷がいくつもできても走り続けた。
どこまで行っても、見慣れた森の景色ばかりが映った。
数ヶ月間を過ごした異世界の森。生まれ育った場所とはまるで違う。アスファルトの舗装も、信号も車も、ビルも、飛行機も、人もいない、広大な森。
木の根に躓いて派手に転んだ。腹ばいに倒れてからは、立ち上がることができなかった。
湿った土を握りしめ、琴子は涙を流して大声で泣いた。
森中に響いただろう。大人になると声を出して泣くことなど滅多にないから、加減がよくわからなかった。
声が嗄れても構わない。嗄れてしまえと思った。涙も尽きろ。体の中のものをすべて出し切って、そのまま消えてしまえばいい。
帰れないなら。本当にすべて失うのなら……生きていたって、なんの意味もないのだから。
「コトコ」
呼ぶ声が聞こえ、琴子は膝を突いたまま体を起こした。顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたが、拭う元気もなかった。
歪む視界に見えているのが、誰なのかはわかっている。
また少しだけ伸びた白髪と、ふたつの青い瞳が見えている。
「コトコ」
アイはもう一度琴子の名前を呟き、華奢な腕で、琴子を抱きしめた。
子どものわりに体温の低い子だが、琴子には、日差しよりもあたたかく思えた。
「コトコ、泣いていいよ」
耳元でアイが言う。かすかに震えた声だ。
アイも泣いているのだろう。大声で泣きたいのを、堪えているのだろう。
「泣いていいよ。アイが、ぎゅってしててあげる」
いつか琴子がアイに言った言葉だった。
自分も悲しみに暮れ、不安に怯えながらも、必死になって琴子へ伝えようとしている。
「アイがいるよ、コトコ。大丈夫だよ。アイが、ずっと一緒にいるからね」
「……」
――ああ、と思った。
どうして忘れてしまっていたのだろう。
もう、何もないと思っていた。自分の中に当たり前にあったはずのものをすべて失ってしまったと思っていた。けれど、ひとりぼっちの迷子のそばに、ひとりぼっちの名無しがいた。出会って手を取り合って、この森を居場所として暮らした。
もう、ひとりではなかったのだ。
からっぽの手のひらの中に、たったひとつだけ残ったものが、あった。
「ずっと、コトコのそばに」
土にまみれた手で、琴子は小さな体を抱きしめ返す。
まだ溢れる涙を瞬きで落とし、琴子は、覚悟を決めることにした。今度こそ、未来を決める、本当の覚悟だ。
「アイ、ありがとう。もう大丈夫」
十分泣いた。だからこれから先はもう泣かない。
たとえ何があっても、前を向いて生きていく。
ふたり一緒に。この世界で、生きていく。
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