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「いい? ユーグ、ここから奥はわたしたちの家なんだから、無断で入ってくるのは禁止ね」


 あとから付いて来たユーグにも、琴子はよく言い聞かせる。


「他の魔物とやらにもちゃんと言っておいてね」

「森のすべては、森に生きるすべての生き物のものである」

「今日からはここだけ、わたしとアイのもの!」

「ふむ。アイの所有物とあれば仕方ない。森の物にも伝えよう」


 どこかへと飛んでいくユーグを見送り、琴子は表札がよりはっきりと見えるよう周囲の蔦を退けた。

 そして、家の中へと戻ろうとしたのだが。


「どうしたの?」


 アイが、ぼんやりと石の表札を見つめていた。呼びかけると、こちらへ視線が向く。瞳の色が綺麗な黄色になっていた。この色は、嬉しいときの色だ。


「表札できたことがそんなに嬉しいの?」

「ううん、ちがう」

「じゃあ、この文字が珍しいのかな」

「ちがう」


 アイは小さな頭を横に振った。琴子が首を傾げると、アイはすっと右手を上げ、人差し指で洞窟の奥を示した。


「おうち」

「お家?」

「アイ、おうちできたの、うれしい」


 アイはまだ、あまり表情を作るのが得意ではない。

 それでも黄色い瞳で一生懸命に笑う様子を見て、琴子は思わず泣きそうになってしまった。

 この子は、家を持ったことがないのだろうか。家族がいたことはないのだろうか。

 琴子にとってのこの家は、雨風が凌げて平和に寝られて、変な生き物たちが寄ってこない場所であった。そんな場所を得られれば十分だと思っていた。

 しかし、アイにとっては、もっと重要な場所になるのかもしれない。

 アイにとってこの家は、ただの仮宿などではない。


(元の世界に戻れるときまで過ごせる場所があればそれでいい。わたしにとってはそれだけで十分だった)


 だが、アイはどうなのだろうと、琴子は初めて考えた。


(もし、わたしが帰ったらアイはどうなる? アイはこの場所で、ずっとひとりで生きていくの?)


 ただ生きていくだけならできるだろう。森の魔物たちはなぜかアイに好意的であるし、ここは食べ物も豊かだ。最低限の生活は続けることができる。

 だが、人として生きていくためには、いつまでも魔物しかいない森で暮らすわけにはいかない。

 ……人のいる場所へ、行かなければいけない。


(人に迫害されたアイを? そんな国に、アイを連れて行く?)


 そのほうがよっぽど無理だ。この子をひとり元いた環境へ戻すくらいなら、まだこの森で一生を過ごさせるほうがましだと思える。


「アイ……ごめん」


 泣くのを堪え、小さな体を抱き締めた。アイは、何のことを言っているのかわからない様子で、戸惑いながら琴子の服を握りしめている。


(わたしは、この子を守ろうと決めたくせに、本当はこの子のことを何ひとつ考えていない)


 結局のところ、最初から自分のことしか考えていなかったのだ。

 この世界でひとりきりでいるのは嫌だから、アイと一緒に過ごそうと決めた。自分が元の世界に帰れる日まで、この場所でしっかりと生き抜いていければそれでよかった。

 その先……琴子が元の場所へと帰ったあとで、アイがどう生きていくのか、そのことを考えていなかった。口先だけで無責任なことを言うばかりの、なんの決意も勇気もない、自分勝手な人間だった。


(どうしたら、アイはここで生きていけるんだろう)


 今さら考えてみようとしても何もわからない。

 わかるわけがなかった。琴子は、この世界のことを何も知らないのだ。

 アイがどんな理由で迫害を受けてきたのかも、誰に受けたのかも。どんな人が住んでいて、どこにどんな国があるのか。どのように人々が生きているのか。何も知らなかった。


「……」


 いや、知らないのなら……ここで生きていく方法がわからないのであれば。


(そうだ)


 ここではない場所で生きていけばいいだけだ。


(わたしが元の世界へ帰るとき、アイも一緒に連れて行こう)


 アイに家族はいない。そして帰る場所もない。

 だったら無理してこの世界で生きていかなくてもいい。アイが生きられる場所へ、連れて行けばいい。


「コトコ? 大丈夫?」

「ん、アイ、ごめんね。大丈夫だよ」


 琴子はアイから身を離し、心配そうな表情を浮かべる頬を撫で、笑みを向けた。

 一番無茶な案であるとは気づいている。だが、今の琴子には、これが最良の選択であると思えた。


(そうだよ、アイ。きみも)


 いつか一緒に、帰るべき場所へ。

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