-3-
「いい? ユーグ、ここから奥はわたしたちの家なんだから、無断で入ってくるのは禁止ね」
あとから付いて来たユーグにも、琴子はよく言い聞かせる。
「他の魔物とやらにもちゃんと言っておいてね」
「森のすべては、森に生きるすべての生き物のものである」
「今日からはここだけ、わたしとアイのもの!」
「ふむ。アイの所有物とあれば仕方ない。森の物にも伝えよう」
どこかへと飛んでいくユーグを見送り、琴子は表札がよりはっきりと見えるよう周囲の蔦を退けた。
そして、家の中へと戻ろうとしたのだが。
「どうしたの?」
アイが、ぼんやりと石の表札を見つめていた。呼びかけると、こちらへ視線が向く。瞳の色が綺麗な黄色になっていた。この色は、嬉しいときの色だ。
「表札できたことがそんなに嬉しいの?」
「ううん、ちがう」
「じゃあ、この文字が珍しいのかな」
「ちがう」
アイは小さな頭を横に振った。琴子が首を傾げると、アイはすっと右手を上げ、人差し指で洞窟の奥を示した。
「おうち」
「お家?」
「アイ、おうちできたの、うれしい」
アイはまだ、あまり表情を作るのが得意ではない。
それでも黄色い瞳で一生懸命に笑う様子を見て、琴子は思わず泣きそうになってしまった。
この子は、家を持ったことがないのだろうか。家族がいたことはないのだろうか。
琴子にとってのこの家は、雨風が凌げて平和に寝られて、変な生き物たちが寄ってこない場所であった。そんな場所を得られれば十分だと思っていた。
しかし、アイにとっては、もっと重要な場所になるのかもしれない。
アイにとってこの家は、ただの仮宿などではない。
(元の世界に戻れるときまで過ごせる場所があればそれでいい。わたしにとってはそれだけで十分だった)
だが、アイはどうなのだろうと、琴子は初めて考えた。
(もし、わたしが帰ったらアイはどうなる? アイはこの場所で、ずっとひとりで生きていくの?)
ただ生きていくだけならできるだろう。森の魔物たちはなぜかアイに好意的であるし、ここは食べ物も豊かだ。最低限の生活は続けることができる。
だが、人として生きていくためには、いつまでも魔物しかいない森で暮らすわけにはいかない。
……人のいる場所へ、行かなければいけない。
(人に迫害されたアイを? そんな国に、アイを連れて行く?)
そのほうがよっぽど無理だ。この子をひとり元いた環境へ戻すくらいなら、まだこの森で一生を過ごさせるほうがましだと思える。
「アイ……ごめん」
泣くのを堪え、小さな体を抱き締めた。アイは、何のことを言っているのかわからない様子で、戸惑いながら琴子の服を握りしめている。
(わたしは、この子を守ろうと決めたくせに、本当はこの子のことを何ひとつ考えていない)
結局のところ、最初から自分のことしか考えていなかったのだ。
この世界でひとりきりでいるのは嫌だから、アイと一緒に過ごそうと決めた。自分が元の世界に帰れる日まで、この場所でしっかりと生き抜いていければそれでよかった。
その先……琴子が元の場所へと帰ったあとで、アイがどう生きていくのか、そのことを考えていなかった。口先だけで無責任なことを言うばかりの、なんの決意も勇気もない、自分勝手な人間だった。
(どうしたら、アイはここで生きていけるんだろう)
今さら考えてみようとしても何もわからない。
わかるわけがなかった。琴子は、この世界のことを何も知らないのだ。
アイがどんな理由で迫害を受けてきたのかも、誰に受けたのかも。どんな人が住んでいて、どこにどんな国があるのか。どのように人々が生きているのか。何も知らなかった。
「……」
いや、知らないのなら……ここで生きていく方法がわからないのであれば。
(そうだ)
ここではない場所で生きていけばいいだけだ。
(わたしが元の世界へ帰るとき、アイも一緒に連れて行こう)
アイに家族はいない。そして帰る場所もない。
だったら無理してこの世界で生きていかなくてもいい。アイが生きられる場所へ、連れて行けばいい。
「コトコ? 大丈夫?」
「ん、アイ、ごめんね。大丈夫だよ」
琴子はアイから身を離し、心配そうな表情を浮かべる頬を撫で、笑みを向けた。
一番無茶な案であるとは気づいている。だが、今の琴子には、これが最良の選択であると思えた。
(そうだよ、アイ。きみも)
いつか一緒に、帰るべき場所へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます