幸福な記憶

-1-

 それから、琴子とアイ、ふたりの生活が始まった。

 いつ、どうやって元の世界へ戻れるかはわからない。戻れる日まで生き抜くために、魔物の棲む森の中で日々を過ごした。


 まず琴子は、家の周囲を調べてみた。

 調べたところで大きな木々が延々と生えているばかりだが、その中でも実の成る木をいくつも見つけ、近くには小川があることも知った。透き通った川には魚も泳いでいる。ユーグの言っていたとおり、この森は琴子が思っていた以上に豊かな場所であるようだった。

 洞窟のある崖の上に登ってみたこともある。そこには木はなく、背の低い草花がびっしりと生えている台地だった。体感では直径一キロメートルほどだろうか。ちょうど周囲の木々のてっぺんと同じくらいの高さになることから、緑の海に浮かぶ島のようだと琴子は思った。


 台地の中央には、琴子たちの家へと続く大穴が空いている。

 だが、他には何もなく、周囲もただ深い森が続くばかりだった。どこまで続いているのかは、ユーグにも訊かなかった。あまりにも果てしなく、興味が湧くこともなかった。


 周囲をあらかた探索し終えたら、住居と決めた空間を整えることにした。贅沢はできないだろうが、住むからには少しでも快適な空間にしたい。

 琴子はアイと共に森に出かけ、小枝や細い蔓をたくさん集めた。その間にユーグに頼み、木材と麻の布もいくつか調達してもらった。

 布は当然のように人の家から盗んで来たものであり、木材は森の魔物が協力して切り出してくれたものだった。ユーグ以外の魔物たちも異形の姿をしており、はじめこそ死を覚悟するほどに怯えたが、皆が見かけによらず穏やかで優しい者たちであることを知り、琴子は腰が引けつつも逃げ出さずに済んだのだった。

 手に入れた材料で、簡易的な寝床と、その上に張った屋根を作った。これで雨が降っても凌げるだろう。酷い場合は洞窟内に逃げ込むのもありだ。

 まだ家と呼ぶには随分雑ではある。だが、これまでの暮らしのことを考えると、かなり文化的な生活ができるようになりそうだと、琴子は大満足した。


 寝床と屋根づくりは早朝から行っていたが、気づいた頃には太陽が空高くに昇っていた。

 森の中にいれば直射日光は避けられるが、家には太陽光が燦燦と注いでいる。真昼の熱と重労働は、それなりに体に堪えた。


「ああもう、暑いな」


 汗を掻いた首筋に髪がべたりと貼りついている。少し掻き上げると、風に肌が触れ心地よくなる。


「ユーグ」

「なんだコトコ」


 呼びかけると、どこからともなくふわりと緑が現れた。ユーグは伸ばした手にりんごを持って食べている。朝に琴子が取ってきたものだ。まだアイがあまりものを食べないから、余ったものをユーグにあげていた。


「何か紐みたいなのない? 髪を結びたいだけだから、なんでもいいんだけど」

「ふむ、なんでもよいか。ならばこれでどうだ?」

「ヒッ!」


 ユーグがぶちりと自分の毛をちぎり、琴子に渡した。植物のようにも思える太い緑色の毛だ。


「き、気持ち悪い! あの、なんでもいいって言ったけどさ……」

「魔物の体の一部は、人の間では魔除けの守りとしてもたれることもある」

「あ、そうなの?」

「迷信であり、意味はないが」

「じゃあやっぱり気持ち悪いだけじゃん……」


 ぞっとしたが、今は他にないので、仕方なくそれを使うことにした。

 欲しい物を言えば持ってきてくれるので少し贅沢になっていたようだが、ここは人の住む場所ではない、魔物の森であるのだ。

 なんでも用意されることが当たり前と思ってはいけない。

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