-12-

 風呂と言ってもここは温泉ではない。泉の水は冷たく、そのため体が驚かないよう、足先からゆっくりと水へ浸かる。

 一瞬、刺すような冷たさに体が強張るが、止めていた息を吐くと、あとはじわりと気持ちのよさばかりが全身へと沁み渡る。これだけで体中の細胞が生き返るようだ。 

 琴子は泉の中心のほうへと進み、深い場所で頭まで潜った。

 深いと言っても琴子の身長であれば優に足が着くほどであり、太陽の光を受けた水底の石が白く綺麗に光っていた。


「っぷは!」


 顔を出すと、まだ服を脱いですらいなかったアイが、驚いた顔でこちらを見ていた。琴子は笑みを零しつつ、水際にいるアイに手招きをする。


「ほらアイ。気持ちいいよ、おいで」

「……コトコ」

「怖くないから大丈夫」


 泉の中央から、誘うように、アイに向かい手を伸ばす。

 アイは、そのうち意を決したのか、抱えていた服を置き、着ていたボロ布を脱ぎ始めた。

 纏うもののなくなったアイの体は、至るところに骨が浮き出ていた。目に見える大きな傷がないことだけが幸いだ。琴子は、思わず顔を歪めてしまいそうになったが、どうにか堪えた。ここで自分が辛い顔をしても、アイを悲しませるだけだろう。


 アイは、先ほど琴子がしたのと同じように、足先から水に体を浸けた。

 長い白い髪が水面に広がる。アイは冷たさに驚いたのかしばらく眉を寄せていたが、そのうち息を吐くのと一緒にゆっくりと力を抜いた。

 初めて触れるたくさんの水を確かめるように、両手で何度も掬っていた。


「アイ、こっちまでおいて」


 声を掛けると、アイは振り向き、さして深くはない水の中をよたよたと歩き出した。不安定な足取りで、しかし真っ直ぐに琴子のもとへ向かい、伸ばしていた琴子の手をぎゅっと掴んだ。


「よくできました」

「うん」

「水の中歩くの、難しかった?」

「ううん」


 頭を撫でてやると、アイはくすぐったげな顔をした。

 瞳の色はまだ橙色だ。楽しそうで何よりであると、琴子はやんわり微笑む。


「じゃあ、体の汚れを落とそうか。アイ、後ろを向いて。わたしが背中を洗うから、アイは自分でできるところをやるんだよ」

「うん」


 アイは素直に背を向ける。

 水面に放射状に広がる髪が琴子の肌に当たり、こそばゆく感じる。

 アイの髪は綺麗だ。一切の混じり気のない白い髪。真っ直ぐで癖のないそれは、一本一本がとても細く、まるで透明な糸にも見える。栄養のまるでないような体をしているが、髪はまったく傷みがなかった。強いストレスなどで色が抜けたようには思えない。睫毛も同じく綺麗な白をしているし、生まれつきこの色なのだろうか。


 すっかり見惚れてしまっていたが、ふと本来の仕事を思い出し、慌てて広がっている髪を搔き集めた。

 今は背中を洗ってあげなければ。すでにいそいそと腕を洗い始めているアイを見つつ、琴子は髪の束を掬い上げた。


「……」


 アイの背中を見て、息を呑んだ。

 肩甲骨のあたりにふたつ、縦に裂かれた大きな傷があったのだ。

 治りかけてはいるものの、恐らく付けられてそう時間が経っているものではない。


「コトコ?」


 何か気配を感じ取ったのだろうか、アイが不思議そうな様子で呼びかけた。

 だが琴子は返事ができず、気づけば、指先で傷に触れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る