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「わたしは琴子」


 子どもの顔に掛かる白い髪を除け、はっきり見えた幼い顔にそう言った。


「きみは?」


 問いかけると、子どもはこてんと首を傾げた。恐ろしく愛らしい仕草だった。よくよく見ると、本当に綺麗な顔をしている。


「名前だよ、名前。わたしの名前は、琴子」

「コト、コ」

「そう。きみの名前は?」


 しかしどれだけ問うても、子どもは愛くるしく首を傾げるばかりだ。言葉を上手く話せないのだろうか、それとも。


「名前、教えてくれないの? できれば知りたいんだけど」

「……ない」

「ナイ? ナイちゃんっていうの?」

「ない。なまえ、もってない」


 思わず、え、と訊き返してしまった。言葉に詰まった。


(……名前がない?)


 おかしな魔物にだって名前があるくらいなのだから、この世界にも名前という文化があるのは間違いない。


「……きみは」


 一体、これまでどんな仕打ちを受けてきたのだろうか。この歳まで人らしい生き方をしてこられなかったのだろうか。

 名前さえ貰えずに。この世界の人間たちは、この子どもに、一体どんな酷いことをしてきたのだろう。


 ぎゅっと唇を噛んで、一度目を瞑った。

 溢れそうになる様々な思いを引っ込める。どんな問いかけも、この子どもにする意味がないことくらいわかっていた。

 何を言ったところで、傷つけ悲しませてしまうだけだろう。この子どもの過去も、そしてこの世界のことも何も知らないのだ。


(だったら、わたしにできることは)


 偶然であろうとも、たったひとりきり放り出されたこの世界で出会った、この子に、これまで与えられなかったであろう日々を。


「じゃあ、わたしが付けてあげる。きみの名前」


 そう言うと、子どもは瞬きをして首を傾げた。


「コトコ、が」

「そうだよ、名前がないと何かと不便だからね。うーん、どんなのがいいかな」


 琴子は顔を斜め上に向けた。

 この子に合った綺麗な名前がいいが、あまり呼びにくいのもよくないだろう。

 そう言えば、ユーグが<蒼穹の君>と呼んでいたはずだ。


「蒼穹……蒼。アオか……うーん、アオねえ。悪くないけど」


 琴子は視線を子どもへと戻す。そのとき、ふいに陽の光が緑の瞳に反射した。

 まるで磨かれた宝石のように輝く瞳が、琴子を見つめている。様々な色を見せる、とても奇怪な、けれど心惹かれる美しい瞳。

 ――そうだ。


「アイ」


 琴子が呟いたその名を、真似るように柔い声が繰り返す。


「……アイ」

「そうだよ。今から、きみの名前はアイ」


 これから先、持ち続けるだろう名だ。

 何も持たない琴子が、今唯一、この子どもへあげられるものでもあった。

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