第41話 一筆啓上、陽炎が見えた。

 背中から首にかけて肌を突き刺すような刺激を感じつつも、足元…、違う、下腹部から足元にかけて冷たい感触がやって来ては去る。

 何だ?

 冷たい何かが顔にまで押し寄せ、口の中に塩味の効いた何かが入ってくる。

 水…、海水だ。砂混じりで思わず吐き出す。

 俺はうつ伏せで横たわっていたようだ。閉じた瞼越しに光を感じ、ゆっくりと瞼を開けつつ、上体を起こすと辺りを見回す。


 ここは海だ。俺は波打ち際に横たわっていたのだ。

 あいつらはどこへいった?

 重い体を無理やり起こすようにして立ち上がる。

 膝に手をつき、よろめきつつも、辺りを見回すが誰の姿も見えない。西松、城本、榎本、堀込、パリス、高梨…

 俺は一旦、波打ち際を離れ反対側の陸地へ向かうこととした。しかし、俺の全身の関節や節々が痛み、意識が朦朧とする。


 重い身体を引き摺るようにして、やっとの思いでヤシの木の下へ移動した。

 ヤシの木?ヤシの木だと?さっきまでそんなものあったか?

 ここは何処だ?辺りを見回すと、ついさっきまでと違う風景であることに気づいた。

 待てよ。本当についさっきなのか?どのくらいの時間が経過したのか?

 ヤシの木の根元に腰掛けると全身から力が抜けて、まるで尻から根が生えたかのようだ。

 そんな中、視界の先、砂浜の彼方に揺らめく影を見た。

 陽炎ってやつか。

 その揺らめく陽炎は徐々に近づいてくる。

 その揺らめきは次第にはっきりとした輪郭を形成し、やがて女の姿へと変わっていた。

 浅黒い肌に長い黒髪、布を巻いただけのような服を着た若い女だ。

 女は俺の顔を覗き込み、その手を俺の頬に当てると、俺の意識は急激に遠ざかった。



 瞼を開けると葉を編んだようなものが見える。

 どうやらあれは屋根か天井のようだ。

 俺は仰向けで横たわっていた。

 ここはどこだ?

 上体を起こすと、ここが何なのかわかった。

 ここは屋外に建てられた小屋みたいなものだ。

 しかし、小屋というにはあまりにも粗末である。植物の葉で編んだ屋根があるだけで壁さえもない。

 この小屋の周りには木や植物が生い茂り、その木々の間から青い海が見える。

 ここまで来た記憶が無いということは、俺はあの海からここまで連れて来られたのか?

 不意に俺の死角から人の声が聞こえる。声の方へ振り返るとそこには女が立っていた。

 さっきの女だ。

 女は驚いたような表情を浮かべ立っている。


「おい、ここはどこだ?」


 と尋ねると、女は何か言っているのだが、何を言っているのかわからない。聞いたことのない言語で話しているようだ。

 女は小屋から飛び出していく。


 俺は粗末なベッドのような物から立ち上がり、ここから離れようとするものの、目眩がする上に酷い頭痛と倦怠感がある。俺は堪らず、再びベッドの上に腰掛けた。

 ここはどこだ…、皆どうしているのか、そんなことが脳裏を駆け巡るものの、考えはまとまらない。


 もしかして世界が変わったのか?

 ふと服を見るとくたびれているが、黒のズボンと白のシャツを着用している。この前のままだ。

 幸いなことに体型は変わっていない。元の豚野郎に戻っていないし、鏡が無いのでわからないのだが、顔を触った感触的にはアラン・ドロンのままだと思われる。


 ものの数分も経たぬうちに、さっきの女が老人を連れてきた。白髪と白い髭が伸び放題の仙人風の爺さんだ。女と同様、浅黒い肌、布を巻いただけのような服を着ている。

 その仙人風は木のコップを俺に差し出す。

 木のコップには何やら茶色い液体が入っている。

 仙人風はそれを俺に飲むように身振り手振りをしてきた。


「これを俺に飲めと言っているのか?」


 やはりこの仙人風が何を言っているのかもわからないし、俺の言葉も通じていないようだ。

 木のコップの中から如何にも苦そうな臭いが漂う。

 飲みたくない。

 しかし仙人風はしきりに俺に飲めと促す。

 浜辺で倒れていた俺をここまで連れてきたのなら、こいつらは恐らく悪人ではないだろう。

 コップの中身は多分、薬か何かか。

 俺は仕方なく木のコップを受け取り、鼻へ近付けると、茶色い液体の苦そうでより強い臭気を感じた。

 こんなもの飲めたものかよ。とコップを横へ置こうとした瞬間、仙人風が俺の腕を押してきて、コップの中身が俺の喉奥へと流し込まれた。


「ぬなっ!苦いーーっ!」


 想像を絶する苦味が口の中に広がる。不味い、これは飲めたものじゃない…

 俺のその絶叫に女が声を出して笑う。



 地獄のような苦味を味わわされて暫く経つと、例の女が大きめの木の皿を持って小屋に戻ってきた。

 その皿の上には皮を剥いて種を取ったマンゴーとバナナがあった。

 女は皿の上のものを食べろ、とゼスチャーをする。

 美味そうだ。断る理由は無く、俺は遠慮なくマンゴーを手に取ると、それを口の中に頬張る。

 美味い…、滑らかで程よい食感は極上だ。

 女は俺に伺うような眼差しを送ってきた。


「美味い。こんなに美味いマンゴーは初めてだ」


 伝わるわけが無いのだが、そんな言葉が溢れ出ていた。

 言葉の意味は伝わらなくとも、俺の気持ちは女に伝わったようだ。女は喜んでいる。

 この時、俺は確信した。


 この女は俺に惚れている。

 ビーチで俺という、誰もが振り返る絶世の美青年を見つけ、心を奪われた彼女は、当然のごとく俺を助けたのだろう。

 ここが誰の世界か知らぬが、新しい世界で言葉通じぬ女と恋も悪くない…



 小鳥のさえずり、光…

 朦朧としていた意識が、急に焦点が合うかのようにはっきりしてくる。

 俺は眠っていたようだ。

 仙人風の老人に飲まされた茶色い液体が効いたのか、頭痛だの倦怠感がまるで嘘のように消えていた。


 起き上がって辺りを見回すが誰もいない。


「おい」


 と呼び掛けるも反応は無い。

 俺はベッドから起き上がり、小屋の外へ出てみることにした。


 似たような小屋が幾つかある。

 ここは集落のようなものか?

 俺は近くの小屋を覗いてみるのだが誰もいない。

 片っ端に周辺の小屋を覗いて回るのだが、やはり誰もいない。

 幾つか立ち並ぶ小屋の丁度、中心の辺りに焚き火をしたような跡があり、煙がくすぶっているということは、少し前まで人がいたことであろう。

 しかし誰もいないのはどういうことか…


 知ったことか。こんなことを俺が気にしたところでどうにもならない。

 ひとまず海の方へ行ってみるか…



 雲一つない青空に青い海、白い砂浜。ここまでは前と同じだ。しかしこの前までの海と決定的に違うのは湿度だ。ここは湿度が高く蒸し暑い。

 さらにヤシの木が生い茂り、如何にも南国といった雰囲気だ。

 ビーチには誰もいない。


 ここはどこなのか。

 奴らはどこへ行ったのか。

 この前のことを思い出そうとするのだが、“盆回り”が流れる中、西松は“この曲を止めてくれ”と言い、俺たちは遠浅の海の中、立ち尽くすしかなかった。

 ここまでの記憶しかない。


 もしかして、俺たちは知らぬ間にトゥーペイ公爵率いる軍に捕まり、無人島へ流刑にでもされたのか。

 だとしたら、あの女と仙人風は流刑民か。

 仮面舞踏会の時、警察に捕まったら流罪という話があったからな。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。

 じゃなかったら、ここはやはり違う世界か?西松の世界は終わったのか?

 西松は“あの不幸な出来事”によって自分の世界を終わらせたのか?



 途方に暮れた時、遠くから人の声が聞こえた。


「おーい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る