第36話 逆流する小宇宙

 見上げれば、どこまでも青い空が続く。

 そして視線を下げると幾つもの大小様々な島が見え、水面も青く透明度が高い。

 ここは海の上だ。俺たちは榎本の船、クルーザーに乗っている。



 昨日、西松のパン屋で皆が集まった時のこと、榎本が“私の船で海に出てみないか”と例の気取った声で提案してきたのだ。

 俺と二号、堀込、パリスは即決。高梨は大学の講義が外せないとの事で欠席、西松はパン屋の営業日なのだが、セシルが気を効かせて店は任せて、ということで、いつもメンバーでクルージングを楽しむこととなった。

 午前中に出航し、それぞれ思い思いに過ごした後、正午過ぎに船内で昼食となり、皆が食べ終わってくつろぎ始めた時の事だ。

 榎本は不意に神妙な面持ちをし、サングラス越しに眉間へ皺を寄せた。



「諸君、実は悪い知らせがある🎵」


 と榎本が歌った。

 船内の皆の視線が榎本へ集まる。


「榎本さん。何だよ、改まって🎵」


 堀込だ。

 広い船内に堀込の下手な歌唱が響く。音楽は軽快な雰囲気のジャズ調の音楽が流れていた。

 榎本は船室奥の茶色い革張りのソファーに腰掛けている。


「ここなら誰かにこの話を聞かれる心配がない🎵

 だから諸君をここに連れ出したのだよ🎵」


 榎本はここで西松の方へ向き直る。


「早速、本題に入ろう🎵

 西松、君はコレットの結婚相手が誰であるか知っていたか?🎵」


「コレットの結婚相手?知らないよ🎵」


 西松は榎本からの問い掛けに対し、何を唐突にとでも言いだけな表情を浮かべつつ、榎本から顔を背けた。


「知らなかったか🎵

 私もつい先日知ったのだが、彼女はあのトゥーペイ公爵の奥方だったのだよ🎵」


「……、トゥーペイって誰だっけ?🎵」


 西松はそう歌いながら、不機嫌そうな表情を浮かべていた。コレットのことなぞ、もう知らぬといった雰囲気だ。


「この前の仮面舞踏会の主催者だ🎵」


「あぁ、あの時の🎵

 そうだったんだ🎵

 でも、それの何が悪い知らせなの?あのキズナ ユキトみたいな奴と駆け落ちしたんだから、もう俺らとは関係無いよ♬」


「残念だが、そうとは言い切れないのだよ🎵」


 榎本のサングラスが船室の照明を反射し、一瞬だけ光った。


「何だよ?🎵」


「トゥーペイ公爵はこの件に関し凄くご立腹のようでな、間男をどんな手を使ってでも探し出すと息を巻いているらしい🎵」


 西松は榎本の歌唱に笑った。


「それこそキズナ ユキトにとって悪い知らせじゃないの?🎵」


「確かにそうではあるのだが、コレットがキズナ ユキトと駆け落ちしたことを知っているのは私たちぐらいだろう🎵」


 榎本は上着のポケットから四つ折りにされた紙を取り出し、それを広げテーブルの上に置く。

 その紙を見て、皆一様にして息を呑む。

 ここで音楽がバンドネオンと弦楽器、ピアノが絡み合い、緊張感溢れる演奏へと変わった。


「おい、この絵は」


 思わず声が漏れ出た。その紙には黒いアイマスクをした男の顔が描かれており、これは…


「西松…か?」


 この絵は仮面舞踏会に行った時の西松に似ている。


「恐らく🎵

 トゥーペイ公爵は仮面舞踏会で、コレットと踊っていたこの男を略奪者だ、と見なしている🎵

 この絵はトゥーペイ公爵がお抱えの画家に描かせたものだ🎵」


 俺の疑問に榎本は歌で返した。


「なんでだよ!なんで俺なの🎵」


 西松は顔を紅潮させ歌った。


「主催者として参加者の様子を見ていたのだろう🎵

 例え仮面舞踏会だとは言え、自分の妻が他の男と仲睦まじげに踊っていたら面白くないだろう🎵さらに駆け落ちだ🎵公爵が嫉妬に狂い、一緒に踊っていた男を疑いたくなる気持ちもわからないでもない🎵

 私だって安子がもし…」


 榎本は歌いかけたまま沈黙し、俯き加減となった。


 一筆啓上、俯き加減に哀しさを見た。


 そうだ。榎本の恋人なのか、嫁なのかよくわからないが、ペヤングこと青木安子は盛岡駅で現地の男と何処かへ消え去ったのであった。



「だけど榎本さん!🎵仮面舞踏会の中であったことは全て不問、無礼講みたいなことを言ってたじゃないかっ!🎵」


 西松はやり場の無い怒りからか、その拳をテーブルへ叩きつけた。

 一瞬、西松の顔が苦痛に歪んだことを俺は見逃さない。


「確かに君の言う通りだ🎵

 しかし、それで済まないのが人の性である🎵

 この件に関して、公爵の怒りは尋常ではないのだ🎵」


 榎本の歌唱の後、堀込は西松の似顔絵が描かれた紙を手に取る。


「だったら、公爵にこれは誤解だって言いに行くのはどうだ?🎵」


 と堀込は歌った。


「あの公爵は中々、苛烈な性格をしている方でな。それは結果として、事態を悪化させる導火線となるかも知れんよ🎵」


 なるほど、榎本が言うこともわかる。しかしだな、さっきから聞いていれば皆は焦り過ぎだ。


「お前らは何故にそこまで焦るのか。黙っていればわからないだろうよ。

 俺たちはこのアイマスクの下の顔を知っているが、他の奴らは知らないのだ。

 知らない奴らにしてみたら、このアイマスクの下の顔なぞ想像も付かないだろうよ」


「風間の言うことも一理ある🎵」


 榎本がしたり顔で歌った。


「知らぬ存ぜぬで堂々としていた方がいいんじゃないのか。

 下手なことをすれば墓穴を掘るだけだろうよ」


 俺はここで間を置き、口を開こうとしたその刹那、


「話は」


 電光石火の如く、俺の決め台詞を挟み込もうとした奴がいる。二号だ。


「話はそれだけか?」


 二号による、その早口加減の一言は俺の決め台詞ではなかった。

 二号は船室の奥、榎本近くに座っているのだが、急に立ち上がると船室出入り口に向かって疾走する。

 船室の扉が乱暴に閉められ、船内にその音が響いた。


「あいつ、どうしたんだ?」


「船酔いだよ🎵」


 俺の疑問に対し、パリスがいつもの薄笑いを浮かべて歌った。

 船酔いか…、言われてみたら今日の二号は静かだ。いつもの熱苦しい歌唱を聞かされていない。

 扉の閉まった船室内にまで、二号の嘔吐の声が聞こえてくる。



 船室内の扉を開けると、すぐそこは榎本のクルーザーの船尾部分だ。

 二号はそこから海に向かって嘔吐していた。

 その臭気が俺の鼻腔を刺激する。

 俺はズボンのポケットからハンカチを取り出し、鼻と口を塞ぎ、二号の風下にならぬように移動した。

 俺のひねくれた無頼の根性が、この臭気は危険だ、と告げているのだ。


「城本、大丈夫か?🎵」


 堀込は二号の背中をさすり、


「榎本さんっ!この船に酔い止め薬とかないの?🎵」


 西松は船室内の榎本に向かって聞く。


「そのような物は無い🎵酔い止めは酔う前に飲むものだ🎵」


 榎本はそう歌いながら船室から出て来た。

 

「おかしいっ!俺はかつて七つの海を支配した海賊、……ボエッッ、


 だっ、………ボゥエェェッ〜、


 たこともあるのにっ!」


 と言いながら、二号は海に向かって吐瀉物を撒き散らす。

 七つの海を支配した海賊?こいつは前の世界でそんなこともしていたのか…


「何故だっ!船酔いなんてしたこと無かったのに!」


 そんな中、榎本は何も言わず、西松と堀込へ下がるように身振り手振りした。

 その直後、二号が声にならぬ叫び声を上げた。


「冷たっ!何しやがるっ!」


 二号は振り返ると頭からずぶ濡れとなっていた。そのまま榎本へ掴み掛かからんとする勢いだ。


「城本、気分はどうだ?🎵」


 怒りを露わにする二号に対し、榎本は悠然とした態度で問い掛けた。


「え?」


 二号は呆気に取られた様な表情を浮かべた。


「酔いはどうだ?🎵」


 榎本は改めて二号へ問いかける。


「あれ?覚めている…」


 二号は不思議そうに両手や身体を見回した後、榎本へ視線を送る。


「昔、テレビ番組で船酔いには首を冷やすといい、という話があったのだが、嘘では無かったようだな🎵」


 榎本の手には水が入っていたと思われるバケツが握られていた。

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