第22話 鮮やかな青と丸い痰
「風間…」
マルタンと呼ばれる男は俺の名を呼んだ。
しかし俺には外国人の知り合いなぞいない。
マルタンは俺の顔を覗き込むような視線を送ってきた。その人相はダークブラウンの髪と端正な顔立ち、どことなく人の良さそうな眼差しが印象的な二枚目だ。
二枚目……、
二枚目?二枚目!
そうだ、今の俺はどうなのか。
ふと店内の窓を見ると、反射している俺の姿はアラン・ドロンに酷似していた。
ふと自分の手を見る。クリームパン系の手ではなく、指は長くしなやかでありながらも、無駄な肉のない手だ。
さらに体型もこの顔に相応しいものへと戻っていた…
やった!
やったぞ!俺はついに理想の自分を取り戻した!
こんなに嬉しいことはない、ってやつだ。
それよりもだ、白いシャツの胸元から胸毛を覗かせているような奴、シャワーの水を完璧に弾くようなクドい容姿の奴を俺は知らぬ。
「風間」
マルタンは再び俺を呼ぶ。
「お前は何者だ。何故俺の名を知っているのか。
俺はお前のことなど知らぬ」
「俺だよ。西野松彦だよ。通称西松だよ」
これがマルタンとかいうフランス人と化した西松との再会であった。
俺はこのクロワッサンってやつが嫌いだ。
外側の薄く固い食感と、中は多層なものの、何も入っていないくせに食えば食うほどカスが散らかる。
しかし、俺は昨晩から何も食べておらず空腹なのだ。だから仕方なく食べている。
ここはマルタンの…、西松のブーランジェリー、じゃなくてパン屋だ。
昨晩は西松のパン屋で何も買わなかったのだが、今日は俺の為にパンを焼くから、と言うので店に来たのであった。
ここにはカフェが併設されており、俺は柄にもなくテラス席なぞに座っている。
昨晩は季節外れの雪が風に舞う天気だったのが一転、今日は日差しが心地良い春日和って雰囲気だ。
こんな日はテラス席もありなのかもしれない。
洒落たテラス席でクロワッサンを食べ、カフェオレを啜る。
超の付く肥満体だった頃の俺からしたら考えられないことだ。
しかし、今の俺は違う。
アラン・ドロンに酷似した絶世の美青年であり、白いジャケットを自然と着こなす二枚目なのだ。
そんな俺がテラス席でクロワッサンとカフェオレ、さぞ絵になっている事であろう。
と言っても、少しばかり居心地が良くない。こんな環境に慣れていないのだ。
そんなことに気を取られていたら、クロワッサンのカスが俺のカフェオレの中に入っていた。
「火の回りが半端じゃなかったんだって!階段駆け降りてる途中で炎に包まれて、もうどうにもならねぇ、今度は焼かれるのかと思って、気が付いたらこれだ」
俺の向かいに座る男が興奮した様子で喋った後、自分の顔を指差す。
こいつもまたクドい人相をしている。マルタンこと西松がシャワーを弾くクドさなら、こいつは温かいオリーブオイルのシャワーを浴びてきたかのような雰囲気だ。
こいつは堀込だ。堀込も容姿が変わっていた。坊主頭は変わらず、褐色の肌と暑苦しくクドい顔立ち、野生味溢れる雰囲気となっている。
どこからか軽快な雰囲気のジャズが聞こえてくると、堀込はお手上げとでも言いたげなジェスチャーをした。
「気が付いたら音楽聞こえてきて、何故か誰か歌い始めるし、今度は何なんだよ?ミュージカルか?🎵」
堀込は驚いたような表情を浮べならがも、その喋りはメロディとなっていた。
「堀込、お前も満更ではないようだな。歌っているぞ」
「そんなことないって!🎵」
堀込のそれよりも、俺のパンの方が重要だ。
「おい、西松。俺のはまだか?」
俺はテラスから店内へと続く出入り口の方へ向かって声を掛ける。
しかし、西松からの返事は無い。
「おい、マルタン。俺のパンはまだか?」
「ちょっと待って♬」
西松のその一言も歌となっていた。
マルタン呼ばわりしたら返事があったということは、どうしてもマルタン呼ばわりしてほしい、といったところか。
あぁ、忌々しい。思わず舌打ちをする。
「何がマルタンだよ、糞が」
俺のその一言に堀込は笑う。
「そういえば堀込、お前の名前も変わったのか?」
「俺?俺は堀込信二。変わっていない♬」
「そうか。今のところ、西松だけなのか」
西松はマルタン・ド・ソワソンと名乗っていた。見た目に合わせて名前も変えたようだ。
気が付けば世界は一変していた。
今度は街並みからして経験したことの無いものへと変化していたのだ。なんとなくだが、映画か何かで見た南欧風に似ている。
空は鮮やかなスカイブルー、道路は石畳、建物は石造りか何かでカラフル、高くても三階建て、古い建物を補修しながら使っている感がある。
空の色から建築物、街路樹の緑やその下に咲いた花、この世界の全てが色鮮やかだ。
色鮮やかと言えば聞こえは良いが、鮮やか過ぎる感がある。まるで家電量販店の馬鹿デカいテレビのデモ映像のような世界だ。
「お待たせ♫」
軽快かつ明るいメロディに乗せて、西松がテラス席へとやってきた。
その手にはパンの入ったバスケットがある。しかし、その中身を見た刹那、
「おい、西松。またクロワッサンかよ?」
「ただのクロワッサンじゃないよ。
チョコレートが入っているよ♫」
西松のその歌唱からチョコレートと聞き、心が少しばかり踊るのだが、違うのだ。そうじゃないのだ。
「パンと言えばアンパンだろうよ。そしてアンパンと言えば生クリーム入りのやつだ。
クリームアンパンだ。それを出せ。
話はそれからだ…」
と俺は流し目加減の眼差しを西松へ送ると、音楽がそれまでの軽快なジャズ調から一転し、管楽器が甘くも悲しげな調べを奏で始めた。
「アンコが無いんだよ♫
小豆が手に入らない♫」
「寝言は寝てからにしてくれ。
小豆ぐらい手に入るだろうよ」
「それがどこにも無い♬
手配したけど船便で一ヶ月以上掛かるって♬」
「船便?なんだよ、それ。
ここは日本じゃないのかよ」
と言ったものの、確かにこの風景、世界観は日本では無いのが確実であろう…
俺は思わず、ポケットの中を探る。
無い…、そうだった。
昨晩、ホテルへ戻った時に気付いたのだが、今回の世界はスマホどころか携帯電話さえ無い。
さらに街中を走る車が古いのである。昔の映画でしか見た事のないような車が、真新しい状態で走っていた。
今度は時間軸っていうのか、時代設定が変わって、さらに国まで変わってしまったようなのだ。
この状況に思わず深い溜息が漏れそうになるのだが、ここがどこなのかなど、もうどうでもよくなってきた。
「そもそも、お前の名前のマルタンって何だよ?
俺のシロタンを意識してるのか?
お前も密かに“タン”呼ばわりされたい願望でもあったのか?
だとしたら松タンでいいだろうよ」
「違う、違う🎵
そうじゃない♬」
「わかった。どうしてもマルタンだと言うならば、吐き出した痰が丸かった、だから漢字の丸に吐き出す痰で丸痰。
これで決まりの、
話はそれからだ…」
ここで急に音楽が変わった。
歪みきって音程感の無いエレキギターが不穏な旋律を奏で始め、その緊張感が高まったところで、獣の咆哮のような女のスキャットが聞こえてきた。
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