第21話 邂逅の荒野に雪が降る

 雲一つ無く、鮮やか過ぎる濃紺の夜空には月と無数の星々が輝く。

 さらに昨晩、降り積もった季節外れの雪によって、その白と夜空の濃紺が見事なまでの対比を生み出していた。

 そんなある日の宵のうち、先ほどから細雪が風に舞い始め、澄んだ空気をより澄んだものへと変える。


 ここは市街地から若干離れた通り沿いにあるブーランジェリーだ。

 店内は白を基調とした内装と、木製のインテリアが上手く調和し、モダンでありながも温かみのある空間となっている。

 この店の若い男の店主は窓からの光景を見て、軽く溜息をつく。

 店主はこの寒さからして、もう客は来ないだろうと判断し、閉店時間には少々早いが店仕舞いの支度を始めることとした。


 しかし、そこへ古い年式の黒塗りの高級車が通りすがりに停車し、そのまま店の駐車場へ後ろ向きに駐車し始める。

 その赤いテールランプを見て、若い店主はレジカウンターの中へと戻った。


 停車した高級車の運転席から降りてきたのは、黒い毛皮のロングコートを身にまとった女だ。その服装、佇まいや仕草からして上流階級を思わせる。

 女は雪が降っていることからフードを被り、足早に店の入り口へと向かった。


 店の入り口、ドア上に取り付けられた鐘が鳴る。

 客の入店を知らせる鐘の音の一拍後、店主は言う。


「いらっしゃいませ」


 普段よりも若干高めの声は滑舌良く、爽やかな印象を与える。


 ゆっくりとドアの閉まる音の後、女の吐息とも声ともつかぬ声が聞こえた。

 店主は女がそのまま、入り口前に立ち尽くしいる様子を視界の端に見て、思わず女へ視線を送る。

 どこからか弦楽器の甘く流麗な調べが聞こえてきた。



「マルタン…」


 小鳥のさえずりのような声、歌っているかのような滑らかな響きだ。

 女はコートのフードを背に下ろし、店主へその顔を見せた。

 金髪碧眼の若い女だ。その上流階級の婦人然とした姿から、意外な程あどけなさが残った顔立ちをしている。可憐という言葉がよく似合う。

 流れる音楽は管楽器なども加わり展開部がやってくると、マルタンと呼ばれた店主も女の名を呼ぶ。


「コレット…」


 絡み合う視線は二人を追憶の中へ連れて行く。

 ここで音楽は一気に明るい雰囲気へと変わる。

 それは色鮮やかで輝かしい日々であった。ダンスパーティでの出会い、カーテンで隠された夜のバルコニーで初めて交わした接吻、照りつける太陽と白い壁の街並みを抜けた先に広がるビーチ、初めて結ばれた夏の思い出、将来を誓ったあの日…

 しかしその色鮮やかな日々は一枚の紙によって終わり告げる。

 ここでフルートが流麗かつ悲しげな調べを奏でた。

 机の上に置かれた一枚の紙、それはマルタンへの召集令状である。

 


「結婚してから、ここに来たのは初めてよ。

 実家に預けていた子供を迎えに行ったところなの」


 コレットの歌唱は物悲しく、切ない。その瞳はどこか潤んでいるようだ。

 マルタンは駐車場の車を見ると、後部座席で息を吹き掛け、曇らせた窓に絵を描く男の子の姿を見た。


「僕は戦地で知り合った人から、このお店を譲り受けたんだ」


 マルタンは叙情的な歌唱を聞かせると、コレットは哀しげな歌唱で応える。


「貴方に会えるなんて。

 こんな偶然があるなんて」


 コレットの息子は車内で鼻をほじり、その指を窓に擦り付ける。

 その光景を見たマルタンの表情をコレットは見逃さなかった。コレットは思わず振り返った後、


「嫌だ、あの子ったら」


 その一言さえも小鳥のさえずりのように聞こえる。

 コレットは一雫の涙を流しながら泣き笑い、その美しい造形の鼻の下からも輝く雫を覗かせた。

 コレットは刹那の夢から醒めたかのように、トングとバスケットを手に取り、パンを幾つかバスケットの中へ入れる。



 マルタンはバスケットの中の商品をトングで取りながら、爽やかな響きのテノールで品名を歌い上げ、一つ一つ丁寧に袋へ入れる。

 会計が終われば彼女は去ってしまう、その名残惜しさを感じつつ、マルタンは合計の値段を告げる。

 コレットはハンドバッグから財布を取り出し、紙幣を出したその時、二人の手と手が触れた。

 その刹那、二人の身体に電流が流れたかのような緊張が走る。

 一瞬ではあるものの、二人は懐かしいその感触に同じ夢を見た。


 しかし、そのことを互いに知る由もない。

 マルタンは寂しさを隠し、


「子供の名前は?」


 コレットは、


「ジャンよ。

 会ってみる?」


 マルタンは首を横に振りながらも、コレットのその歌唱で心の奥底に熱いものが込み上げてきたのである。

 二人はかつて自分たちの子供の名前を考えていた。コレットはその名前を忘れていなかったのだ。

 マルタンは熱い思いに耐えながら、ブーランジェリーの店主であろうとする。


「ありがとうございました」


 とマルタンは歌う。しかし、いつもならその後に付ける言葉を、今はどうしても言えなかったのであった。


 コレットが店の出入り口の前に立つと、音楽はクライマックスを迎える。


「マルタン、元気でね」


 出入り口に立つ、コレットは微笑む。悲喜交々であった。


「君も元気で」


 マルタンのその一言を聞き、コレットは振り返りもせず外へ出た。

 そしてそのまま、小走りで車へと乗り込む。

 車のドアが閉まり、車内で息子に話し掛けるコレットの横顔が見える。それはマルタンの知らぬ顔、母としての顔であった。

 マルタンはその光景に一つの終わりを思い知ったのである。


 マルタンはレジカウンターの中から、その車の赤いテールランプの光を釈然としない心持ちで見送った。



 コレットの車が走り去ったすぐ後、一台の古ぼけた白い軽自動車がブーランジェリーの駐車場へ入ってきた。


 マルタンは足早に店外へと出ると、その白の軽自動車から地味な身なりの女が運転席から降り、足早に助手席側へ回るとドアを開ける。

 助手席から女の子が降りてきた。コレットの息子と同じ年頃の女の子である。


「ジャンヌ、おかえり」


 マルタンが屈んで腕を広げると、ジャンヌと呼ばれた女の子はその胸の中に飛び込む。

 マルタンはジャンヌを抱き抱え立ち上がる。


「パパ、ただいま!」


 マルタンは娘の体温に先程までの自分を悔いた。


「ただいま」


 続いて地味な身なりの女が歌った。その名はセシル、マルタンの妻である。

 セシルは大きな紙袋を抱え、マルタンの元へ小走りで駆け寄る。紙袋からは野菜や果物が顔を覗かせていた。


「おかえり」


 マルタンはセシルを出迎えると、暖かな光溢れる店内へと向かう。

 親子三人で暖かな店内へ入ると、聞こえていた音楽は感動的な終わりを迎えた。



 あぁ、胸糞悪い。反吐が出る。

 何故に俺が奴らの歌と歌の間に、糞みたいな解説をしてやらなくてはならないのか。

 何故に俺が朗読みたいなことをさせられるのか。

 これは自意識過剰な局アナの朗読会みたいなものか?そんなものは糞くらえ。

 じゃなかったらミュージカルか?ミュージカルなぞ、尚更糞喰らえだ。

 そもそもここは何処だ?黒薔薇婦人は何処へ行った?皆は何処へ行ったのか…



 マルタンとかいう店主は妻と娘を連れ、店内に戻ってようやく俺の存在に気付いたようだ。


「申し訳ございません」


 マルタンは娘を降ろすと、足早にレジカウンター内へ戻った。

 俺は流し目加減の眼差しをマルタンへ送り、


「おい、いつまで客を放置するのか。

 それとだな、何でこのパン屋はフランスパンとクロワッサンみたいなのしか無いんだ?

 チョココロネは無いのか?

 クリームパンは無いのか?

 メロンパンは、カレーパンは、フランクドックは、シナモンロールは無いのか?

 せめてアンパンぐらいは用意しろ」


 俺はここでマルタンから視線を逸らし、一拍、間を置く。

 そして俺は完璧な間の後、流し目加減の眼差しを送り、


「話はそれからだ…」


 決め台詞を放つ。

 しかし、それを受けたマルタンの表情は予期せぬものであった。

 一瞬、驚きを見せたのだが一転し、柔和でどこか親しげな眼差し、俺の怒りの感情を鎮めるかのような、柔らかな光…、これは何だ。

 何なのか…

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