恢復

 カミサマの介入によって一週間が経過した。ワタルは異人について話したことを忘れて、これまた異人について話したことを忘れた治療師の回診を受けた。

 「すっかりよくなりましたね。あんまり多く毒を浴びたものですから、ちょっと痕が残ってますけど、塗り薬を出しますから、気になるところはそれを塗っていけば薄くなるでしょう」

 「ありがとうございます」

 治療師はサイドテーブルに処方書類を置くと「よく頑張りましたね、もう退所していいですよ」と仕事用の笑みを残して回診の続きに向かった。


 ポールがやってきたのは、ワタルが荷物をまとめて立ち上がった頃だった。

 「やあ」と愛想よく声をかけてきたポールは、「ワタルといったっけ」といった。

 「ああ、そうだよ」とワタル。「きみはポールだったね。おかげで助かったよ」

 「退所かい?」

 「うん、もういいだろうって」

 「そうか」ポールは明るくいってから憐れむような目をした。「痕が残ったね」

 ワタルはちょっと感覚のおかしい顔を撫でた。「塗り薬を出してくれるみたいだ。塗っていけば薄くなるだろうって」

 「そうか。薬の効果があるといい」

 「そうだね」

 「今日から現場に出るのかい?」

 「うん、そのつもり」ワタルは荷物を詰め込んだリュックサックを背負った。「でもまだちゃんと体が動くかわからないから、簡単な現場を選ぶよ」

 ——たしかにカミサマはワタルを殺すつもりらしい。

 「それがいい」とポール。今、彼に意識があったなら、自分にワタルを止めさせないカミサマをさぞ強く恨んだことだろう。

 ——と、あるいはポールには意識があるのかもしれない。カミサマは彼に「僕も一緒にいこう」と続けさせた。「フリーが病み上がりで現場に出るのは危ない」

 ワタルは「ありがとう」と明るく答えた。「きみにはいつも助けられる」

 ポールは「とんでもない」といって笑った。


 現場案内所。ヴィクトリアはワタルの顔を見て「まあ」と同情的な表情を見せた。「魔物の毒を浴びたんだって、ポールさんから聞きましたよ。もう大丈夫なんですか?」

 「うん、痕がちょっと残ったけど、痛みはすっかり引いたよ」

 「それはなによりです。でも、もう現場に出るんですか? もう少し休んだり、恢復かいふく訓練をしたりしてからの方がよくないですか?」

 「もちろん、そうしたい気持ちもあるけどね」とワタル。「でもそれだと一文無しだ」

 「ポールさんはワタルさんとおなじ現場にいかれるんですか?」

 ポールは頷いた、「そうだよ」

 「それなら安心……ですかね。でも簡単な現場がいいですよね」ヴィクトリアは書類を見比べて、なにやら一枚出してきた。「これはどうでしょう。『天使の噴水』を南の方へ超えていくと、子供の遊び場がありますよね、そこに小さな魔物が出たとの連絡があったんです。体は小さくて気性も荒くないようでしたが、子供が一人怪我をしたというのもあって、駆除の依頼が入りました」

 ワタルとポールは「いいね」と声を重ねた。「それにしよう」とワタル。

 「かしこまりました」ヴィクトリアは書類と地図に判を捺した。「ワタルさんは完全に恢復したわけではないでしょうから、くれぐれも気をつけてくださいね」

 ワタルは礼をいって地図を受け取った。


 『天使の噴水』などと大それた名前がついているが、それは天使が舞い降りるのでも天使が舞い降りたのでも、噴き出す水が神聖なものだとかいうのでもない、ただ天使らしい彫刻があるだけの普通な噴水である。水は神聖なものでない代わりに特別に汚れたものでもなく、気温の低くない季節には日々子供が遊んでいる。

 ワタルはそうした子供を見て思わず微笑んだ。「子供ってかわいいよなあ。子供こそ天使だ」

 「歳を重ねるにつれて悪魔になっていくんだね」

 ワタルは「嫌ないい方するね」と苦笑した。「大人にも天使みたいな人はいるじゃないか」

 「ヴィクトリアみたいに?」

 ワタルはポールのからかいに顔をちょっと赤くした。「なにいうんだよ」

 「いいじゃないか、たしかに彼女は天使のようだ」

 ワタルはなんとなく、ポールが嫌なやつに感じた。


 魔物出没現場となった遊び場はそれほど広いものではない。厚い革の両端に鎖を通したものを支柱に吊るした、革の座面に座って前に後ろにと揺れるものと、小さな階段の反対側に板を斜めにつけた、上方から滑り降りるものと、なにかロープを山型にした、登って遊ぶような遊具の三つがあるばかりである。


 「いたね」とポール。

 彼の視線を追ったワタル、椅子の振り子のような遊具のそばに三体、小さな魔物を認める。「あんな遊具を置いておくから魔物が寄ってくるんだろうな」

 ワタルの声にポールも頷く。「あの座面の革なんて、きっと魔物の皮だからね。同胞のにおいに反応して寄ってくるんだ」

 「群れもそうやってできるからな。おなじようなにおいに引き寄せられた個体が集まって」

 「魔物の皮は手を加えればものすごく丈夫になるけど、こういうところに使うと別の個体を呼ぶことになる」

 「ああいう小さいのが寄ってきてるってことは、あの遊具のもあれくらいの魔物だったのかもしれないけど……」

 「子供が集まる場所に使うべき素材じゃないね」

 ワタルはどこか愛嬌のある魔物に向かって剣を抜いた。揺れる座面に鼻を寄せてすんすんと音を立てていた魔物は近づく人の気配に気がついてはっとした。ぽかんと口を開けてワタルを見つめる。

 診療所での生活で魔物狩りとしての心の持ち方を忘れたか、ワタルは心苦しくなって「ごめん」と囁いた。「人間ひとは、勝手なんだ」

 ワタルの振った剣は、顔に驚きと悲しみとを滲ませた魔物の小さな体を裂いた。次の一体は初めの一体よりそうした表情が濃く、その次、最後の一体はいよいよ恐怖と悲しみとを感じさせる顔をして死んだ。

 ポールが寄ってきて、手早く皮を剥いで、皮とその残りをそれぞれ袋に収めていく。「子供がくるといけない。早いうちに清掃を頼もう」

 ワタルは頷いて、リュックに袋をしまった。

 「それから、この遊具の素材を変えてもらおう。魔物の革に比べて劣化はかなり速いけど、木にでもした方がずっと安全だ」

 ワタルがリュックを背負うと、ポールはいった、「僕が役場へいって遊具の素材について相談してくるから、きみにはここの清掃の依頼を頼めるかい」

 「わかった」


 ワタルは現場案内所へいくより先に、亡骸処理業者に毛皮を剥いだ残りの処理とその魔物の出没した現場の清掃を依頼した。

 現場案内所。ワタルはヴィクトリアに毛皮の換金を頼んだ。いつかのように子供に盗まれるようなことはなく、毛皮は無事に金に変わった。

 ——と、カミサマは筆が乗らないらしくをやめた。ワタルはふっと軽くなった体であたりを見回した。ヴィクトリアもカウンター越しに話していたのがワタルであるのにやっと気づいたようにしてほんのり頬を赤くした。

 「あ、あの、……もうずいぶん前のことですけど、ポールさんから、お金……渡りました?」

 「ああうん、全部持っていかれたときのやつだよね。ポールが持ってきてくれたよ、ありがとうね」

 「いえ……わたしが忘れてしまっていたことなので」

 「なんか、急に忘れっぽくなるようなことってあるよね。普段は絶対にしないようなことやっちゃったり」

 ヴィクトリアはワタルの言葉がただ慰めのために出てきているのだと思って、不器用に笑うよりほかにできなかった。

 「俺も、なんでさっき現場にいこうと思ったのかわからないよ。本当にちっちゃい魔物で大人しいやつらだったからよかったけど、変な気を起こして厄介な現場を引き受けてたらと思うと怖いよ」

 「それならわたしが止めます!」ヴィクトリアがあんまりに力強くいうものだから、ワタルも素直に「それもそうだね」と頷いて礼をいった。ヴィクトリアの優しさや無邪気さを愛らしく思って、ふと先ほどの現場へ向かうまでの間にしたポールとの会話を思い出した。ポールにヴィクトリアへの好意を指摘され、ポール自身もヴィクトリアを好いているような言葉を聞かされ、なんとも不愉快だったものだが、それらはすべてカミサマのが行なわれている間の出来事である。と、ここで疑問を持つワタル。


 俺がヴィクトリアを好きだとして、それは俺自身の感情なのか?——カミサマが俺につけたではないだろうか?——


 困った。これは実に面倒な話である。カミサマのが終わってからもヴィクトリアへの好意があるのであればそれはワタル自身の自然に湧いた感情なのではないかと思うが、ここで鬱陶しいのがカミサマの設計図である。あれに、ポールは美しい青年であると書いてある。そのために、こうして記録しているこちらもまたあの青年の美しさを否定することができない。もっといえば、カミサマのがない今、ワタルに訊けばこれはきっとポールの容姿の美しさを認める。要はカミサマの望むワタルらと実際のワタルらとの間には多少の相違があるが、実際のワタルらもまたカミサマの設計図に記された内容を前提として存在しているのである。ポールの容姿はカミサマのが終わった瞬間に醜くなるようなことはないし、たとえばワタル——に限ったことではないが——の髪色が、カミサマのが終わった瞬間に変わるようなこともないのである。彼らはあくまでカミサマの作ったによって存在し、そのという器に本人の意識が入っているような状態なのである。それだから、ワタルがヴィクトリアに好意があるとして、それがによるものなのか、そこに新たに入ったによるものなのか、判別するのは非常に難しいのである。先ほどカミサマがワタルとポールにあんな会話をさせていなければ、ヴィクトリアへの好意はワタル自身の純粋な感情であると信じるのに難しいことはなかったのだが、実際はこれである。


 ポールが戻ってきた。ヴィクトリア、「やあ、ヴィッキー」と声をかけられて露骨に嫌な顔をする。

 「ああ、そうだ」とワタル。「役場はなんて?」

 「そんな話、カミサマに身を委ねてれば始まるだろ」

 「急に一週間も時間が進むんだぞ、わからないだろ」

 「それもそうか」と頷くポール。「検討するってさ」

 「はあ? あのまま放っておいて無駄な仕事増やすなよ」

 「それはあっちもいいたいんだろ、せっかく耐久性に優れた遊具の設置が済んだのに作り直せだなんてふざけんなってさ」

 「そういったの?」

 「話聞いてたか?」

 ポールはヴィクトリアに向き直った。「ヴィッキー、あの素晴らしきはどこにいる?」

 「そんな人たち、いました? 個人で活動されてる方でしょう?」

 「意地が悪いのはきみも俺に負けてない」

 よし正しい言葉を使おう、といったポールに、ワタルは最初から使えよと口を挟んだ。

 「三大集団だ。〝黄金の冠〟〝宝飾の輪〟〝光輝〟」ポールは一本ずつ指を立てながらいった。「——彼らはどこにいる?」

 「彼らはポールさんの助けなんて求めてないと思いますけど」

 ポールは手を楽にした。「俺が彼らの手を借りたいんだ」

 「それで彼らのいる現場にいくんですか、足手纏いですよ」

 「そんなことはない、俺はアレクセイ・トップ団長に強さを保証されてる」

 「励ましてくれるような人の優しさに触れてこなかったんですか」

 「よし、」ワタルはとうとう耐えられずに口を挟んだ。「ヴィクトリア、そこまでだ。ポールがかわいそうだ」

 ヴィクトリアはぷんすかしてワタルを見た。「かわいそうなものですか。この意地悪に他人ひとの言葉に傷つく繊細さはないと思いますけど」

 「ポール、お前……ヴィクトリアになにしたんだよ?」

 ポールはへらりと笑う。「なに、ちょっとからかっただけだ」

 「なにを」

 「それをいわせるのは俺にもう一遍ヴィクトリアをからかわせることになるけどいいのか?」

 ワタル、はたと気がつくと「たしかにお前は意地悪だ」といって逃げた。

 ポールは大層愉快そうににやにや笑った。

 「さてヴィッキー、彼らはどこにいる?」

 ヴィクトリアは手早く書類を出してきた。ポールを追い払うためである。

 「〝黄金の冠〟はこちらに、〝光輝〟はこちらに。〝宝飾の輪〟には、今日はまだ紹介してません」

 ポールは出された書類を見て顎に手をあてた。「ふうん。〝宝飾の輪〟から負傷者が出たとかいう話は聞いた?」

 「いいえ」

 「うん、それはなにより」ポールは「それじゃあ、」と〝光輝〟が向かった現場の書類を指した。「俺もここにいくよ」

 「くれぐれも彼らの足を引っ張らないよう、お気をつけて」

 ヴィクトリアは乱暴な手つきで書類と地図とに判を捺して、ほとんど叩きつけるようにポールに地図を渡した。

 ポールは大人しく受け取って、大人しいとはいい難い、挑発的ともいえよう笑みを浮かべる。「俺をなんだと思ってる? カミサマに愛された特別な男だよ」

 ヴィクトリアは気がおかしくなりそうになった。「ああ嫌だ、気持ち悪い! もうさっさといってください!」

 ヴィクトリアのような女の罵言はポールを一切傷つけない。それはむしろこの男を愉快にさせるばかりで、ポールはそれを見せつけるのにへらへら笑って見せた。

 ワタルはポールが出かけていくのをぽかんとして見送って、ヴィクトリアに向き直った。「ポールのことが嫌いなの?」

 「嫌いです、あんな意地悪な人!」

 「うん、女の人に意地悪するのはよくないな」

 「あんな人、女の人にきゃーきゃーいわれてますけど、間違いないんですから、絶対にあの見た目のために騒がれてるんです。見た目に癒されるだけなら、性格なんて関係ありませんから! どんな意地悪でもくそったれでも、見てるだけなら影響ありませんから!」

 ワタルはヴィクトリアの怒りようがかわいらしく思えて笑った。

 「なんでああいう人ばっかり恵まれてるんでしょう、恵まれてるからああなっちゃうんでしょうかね? 誰がいい出したのか知りませんけど、あの人が異人、異人っていじめられてればよかったのに! ワタルさんがなにをしたっていうんです? ああまったく、いらいらします!」

 ——と、わざとらしい咳払いが聞こえた。それをやった本人は「こちらでご案内いたします」と声を張った。彼女はからかうような目でヴィクトリアを見た。美しくは見えるが化粧の濃い女だった。

 ヴィクトリアは相手の派手な化粧の中の目がいいたいことを正確に読み取って、顔を真っ赤にして俯いた。相手は、あなたは本当にワタルその人が好きなのね、といいたいのである。



 現場は山の中、木の伐採に入った者が魔物と遭遇、おっかないので駆除してくれとのことだった。その魔物というのは、手足のない、巨大な体をうねらせて動く赤黒い皮のものだった。腕を上げて手首を曲げたような体勢を取るそれは、曲げた手首の先にあたる部分に顔をつけている。その小さな目は見ようによっては愛嬌があるが、気性が荒いものでせっかくの魅力も台無しである。

 震えながら飛び出す先の裂けた舌での攻撃に剣を振りながら、アレクセイ・トップはやけに体が軽いのを感じていた。不定期に訪れる不快感、それから解放されると、今のように妙に動ける。

 と、魔物がでかい口を開け、巨大な鋭い牙から黒っぽい液をしたたらせながら、おびただしい数の、小さな——といってもここに集まった青年の男らの体に易々巻きつけるほどの体長である——個体を吐き出した。瞬間、「アレクセイ!」と叫ぶベンヤミン・キューブ。アレクセイ・トップは別な攻撃に警戒したが、叫び声は「あのがきた!」と続けた。

 誰だ、と尋ねるのに息を吸った瞬間、平たい舌が飛び出してきた。かろうじて剣を振ったが、絨毯のような大きな舌は修復しながらそのでかい口に戻っていった。その間にも、大きな口から吐き出された小さな個体がうねうねと動き回り、絶えず噛みつこうと口を開けて襲ってくる。こやつらは大きな個体の牙を伝った毒液を浴びて出てきたものだから、体に巻きつかれるだけで肌が変質する。

 アレクセイ・トップは剣を振り回しながら叫んだ、「誰だ、それ?」

 「ほら、この間のフリー!」ベンヤミン・キューブは口を開けて飛びかかってくる小さいのを斬った。「ポールなんちゃらって、すごい名前のやつ!」

 アレクセイ・トップが思い出したとき、比較的魔物の数の少ないところで、ティム・ファインが「あんた、こんなところにきたのか」とポールに声をかけた。茶色の口髭が前回の初会時よりちょっと整っている。

 「馬鹿野郎!」とベンヤミン・キューブ。「敵の数の少ない現場にしろっていっただろうが! フリーの素人がなんだって俺らが引き受けるような現場に出てきてんだよ!」

 「案内所でなにを聞いてきた?」とティム・ファイン。「なにも考えないのは勝手だが、わざわざ危険な場所にくる必要はないだろ」

 ポールがなにか馬鹿なことをいいそうになったときである。アレクセイ・トップが「そんなことはない」と、口から生まれた魔物に剣を振りながらいった。「これだけの数がいるんだ、彼は十分、俺たちの助けになる」

 こういうとき、途端に「アレクセイがいいならいいけど……」と大人しくなるのがベンヤミン・キューブである。これとアレクセイ・トップとは幼馴染であるが、これはその幼馴染の機嫌を損ねるのを極端に恐れている。アレクセイ・トップを敵に回したくないのである。それじゃあアレクセイ・トップというのはどんなに恐ろしい男だろうと思う者もあろうが、こちらが思うに、別になんてことのない男である。以前ポールがワタルに話していたが、野心を持ちつつ人に対する態度は穏やかな男である。

 と、ここに黒髪の男、レオナルド・チェイス。口から生まれた小さいのを片手で斬りながらもう片手に通話機を持った。発信から少しして女の声が応じた。

 「光輝レオナルド・チェイス、応援を頼む」



 現場案内所に赤髪の男と黒髪の男と灰色の髪を低いところで丸くまとめた男がやってきた。宝飾の輪である。カミサマの介入が始まる前に黄金の冠とやり合っており、赤髪のハリー・ジェムは後頭に傷を負ったが、それもカミサマの介入によってなかったものになった。おかげでこやつは無傷である。残ったのは黄金の冠とやり合った事実とそのとき負った傷が消えたことへの疑問である。

 「おはようございます」とかわいらしくいうヴィクトリアにハリー・ジェムもにこやかに応じる。

 「なにか厄介な現場はあるか?」

 「厄介な現場……〝黄金の冠〟のみなさんが向かわれた現場は——」

 「ああ……そこ以外でなにかあると嬉しい」

 「あ……そうですか」ヴィクトリアは隣の化粧の濃い女の電話が鳴ったのを聞いて、片耳に受信機をあてた。案内所スタッフとその相手の声を聞くもので、それから声を返すことはできない。ヴィクトリアは宝飾の輪への案内を続ける。「それだと……」

 と、隣の女が「了解」といって電話を切った。ヴィクトリアも受信機を置いた。

 「光輝から応援要請が入りました」

 その名前にハリー・ジェムが反応した。ウィル・ブロンドンらがまたと襲ってこないとは思えない。そういうときにあの〝光輝〟と仲よくしておけば、掩護を受けられるかもしれない。

 「〝光輝〟はどこにいるんだ?」

 ヴィクトリアは一つ頷くと地図を出してきた。「こちらです」

 「現場の様子は?」

 「毒を持った巨大な魔物が、次々に小さい魔物を出してくるんだそうです。その出す数がものすごいので、とにかく人数ひとかずが欲しいとのことでした」

 「へえ、それは大変そうだ」とハリー・ジェム、ジョシュア・エヴァンスが「いきましょう」と声をかけた。

 ヴィクトリアは三人の顔を見た。「よろしいですか?」

 三人とも頷いたので、ヴィクトリアは判を捺した地図を渡した。「お気をつけて」


 「〝光輝〟ってどんな人たちなんでしょう?」走りながらジョシュア・エヴァンスがいった。

 「アレクセイ・トップはいい人って評判だけど……」

 「それ以外に知ってることがないんですよね」

 「でもこっちには、トム・レヴィンとドナルド・ハンターを引き連れたウィル・ブロンドンって敵がいる。あいつらに抵抗するには、誰でもいいから味方が欲しい。それこそ人数が必要だ」

 「絶対そのために要請に応えたんだと思った」とジョン・ギブソンが笑う。「ろくでなしの集まりだったらどうするんだ?」

 「あんまりひどければ、もう関わらないようにしよう。でも今の俺たちが関わりたくないと思うような人がいるか?」

 「どうだろう、ウィル・ブロンドンみたいなのは嫌だ」

 ハリー・ジェムはジョン・ギブソンの冗談とも本気ともつかない声に笑った。

 と、そこに「お急ぎのようですな」と声をかけてくる者があった。青い帽子をかぶった送迎馬車の馭者ぎょしゃである。馬車は止まってハリー・ジェムらの返答を待った。

 「頼む」ハリー・ジェムはほとんど迷わなかった。馭者に地図を渡すとからのキャビンに乗り込んだ。

 馭者は彼らが急いでいる理由と武器を持っている理由についてもっと深く考えるべきだったと後悔して空を仰いだ。「この判、私も知ってますよ。魔物狩りのマークですよね」

 「急いでるんだ、安全なところで合図を出すから、連れていってくれ。金は出す」

 馭者はため息をついて、帽子の色を変えた。そのうちに、金への愛から危険な目に遭う予感がした。「私ももうちょっと無欲にならなけりゃいけませんな」

 呟いた馭者はキャビンの天井を叩く音を聞いて、またため息をついて馬に指令を出した。

 「安全なところってどこだ?」車輪ががらがらいう音がよく響くキャビンの中、ジョン・ギブソンがいった。「そりゃあ、魔物がまだいないところだよ」とハリー・ジェム。そうはいったが、「目に見えなくたって近くにいるかもしれないじゃないか」と返ってきたから、ハリー・ジェムには返す言葉がなくなった。


 よく揺れるキャビンにしばらく乗っていると、馬が急に止まった。

 ハリー・ジェムは身を乗り出して様子を窺った。「どうした?」

 「馬が進まないんです」と馭者。「全然いうことを聞かなくて……」

 ジョン・ギブソンが腰を上げて「いいよ」と声をかけた。「無理に進めることはない」

 キャビンを降りていくジョン・ギブソンにハリー・ジェム、ジョシュア・エヴァンスも続く。

 馭者は降りてきた客にぺこぺこ頭を下げた。「いやあ、申し訳ないです、本当に」

 「なにか感じて怯えてるんだろう」ハリー・ジェムは金袋をそのまま馭者に渡した。「無理に進めるのは馬の体によくない」

 「あっ、えっと、お代はこんなには!……」

 「いいよ、危ないところに連れてきちまった詫びだ。それに、客が現場に向かう魔物狩りだってわかっても大人しく仕事するなんて、よっぽど真面目か金が好きかのどっちかなんだろ?」

 馭者は苦笑するしかなかった。「ああ、ではせめて、ここで待っております」

 「いいよ、いつ終わるかもわからないし」とハリー・ジェム、「俺たちも金のために動いてくるから、あんたも金にために馬を動かしてよ」とジョン・ギブソンが続いた。

 馭者に礼をいったジョシュア・エヴァンスがハリー・ジェムに駆け寄る。「金袋、よかったんですか。初めて現場をこなして買ったものじゃないですか」

 「いや、惜しいよ」ハリー・ジェムは迷わず答えた。ジョン・ギブソンが噴き出す。「中身だけ渡せばよかったと思ってる」

 ジョシュア・エヴァンスはなにもいってやれなかった。


 現場は大いに盛り上がっていた。でかいのは次々に小さいのを吐き出すし、魔物狩りはその小さいのにすら苦戦している。

 「ティム、ポール! そいつら、絶対この山から出すんじゃねえぞ!」ベンヤミン・キューブが小さいのに向けて剣を振り回しながら叫ぶ。

 ハリー・ジェムは声を張った、「俺たち、どうしましょう?」

 「誰だ、お前ら?」とベンヤミン・キューブ。

 「なにいってんの、ベン」吐き出される小さいのの直撃から逃れながら剣を振り回しつつ、アレクセイ・トップがすっかり呆れたようにいう。「一般人が入るわけないでしょう」

 「違うよ、魔物狩りの誰だよって」

 レオナルド・チェイスが口を開いた、「それ大事じゃないでしょ」

 「いや、素人がきてもだめでしょうが」

 「素人が応援要請に応じるもんか」

 ティム・ファインは後方の男らを見た。「なんでもいいから手伝って、あのでかいのをどうにかしないと終わらない」

 ハリー・ジェムは大事な一本を握った。「急所は?」

 「わからない。二足歩行なら胸、四足なら腹の率が高いけど、これはなんになるのか」

 口髭を生やした茶髪の言葉が、ハリー・ジェムには神のお告げかなにかに思われた。「え、そういうのあるんですか!」

 「俺の体感ね、保証はしないよ」

 「いや、ありがたいですよ。毎回、勘で相手してましたから」

 ティム・ファインは赤髪の男に飛びかかる個体を切った。「とりあえず武器持てよ」

 ハリー・ジェムは周りでジョン・ギブソンとジョシュア・エヴァンスとが小さい個体に剣を振り回すのを見ながら、トム・レヴィンの武器がこういう場面で活躍するのを想像した。

 と、ハリー・ジェム、気がついた。「あれ、この小さいのの急所はどっちなんです? でかいのもおなじでしょ」

 「こいつらはとりあえず切れば消える」

 「ええ、なんです、それ」

 ティム・ファインは突っかかってくる小さいのを切って肩をすくめた。「悪いけど、相手は魔物だ、なんでもありだよ」

 「ええ、なんか嫌だ」

 「いいから自分の周りのくらい切れよ」

 「まあ、魔物だっていってるんだから、いくらなんでも胸か腹の二択でしょ?」

 「だからその腰に差したナイフを取れよ。悪いけど俺、あんた守りきれないよ」

 ハリー・ジェムは仲間を見た。「お前ら、ちょっとついてきて」

 ジョン・ギブソンが「咬まれたらごめんね」なんて嫌なことをいった。

 「大丈夫、自分の近くのだけ切ってくれ」

 ジョシュア・エヴァンスは知らない同業者の中で剣を振るのに不便を感じていた。周りの動きがわからないから、自分の適当な動き方がわからない。「なにをするつもりです?」

 「とりあえず、胸に投げる。そのためにちょっと近づきたい」

 ジョン・ギブソンとジョシュア・エヴァンスは「了解」と声を重ねた。

 「それじゃあ、髭のおじさん、こいつらが取り残したの任せていいですか」

 「ああ、……うん」頷いてから、嬉しくなって自分の口髭を撫でた。童顔を気にしていたティム・ファインである。

 ハリー・ジェムが駆け出すと、ジョン・ギブソンとジョシュア・エヴァンスは剣を振りながらそれに合わせて並走した。

 ハリー・ジェムも適当な一本を引き抜いて正面を邪魔するものを切った。

 近づく巨大な。震える絨毯が飛び出してきたのを、アレクセイ・トップが切った。その体勢がちょうど低くなったものだから、ハリー・ジェムはこれを好機と、かわいい一本を投げた。小さなナイフはの胸に突き刺さったが、相手はそばを虫が飛んでいるくらいの様子を見せるばかりで死にやしない。

 「あ、やべ」

 「いや、助かったよ」いったのはアレクセイ・トップ、の後ろに回り込むと「離れて!」と叫んで腹を斬った。

 二つに分かれたは頭をつけた方を落として、地を大きく揺らした。一面を覆うようにいた無数の小さな個体は、ここに集まった者だけが見た幻ででもあったように、跡形もなく消えた。

 ポールは剣に残った、小さな個体がたしかに存在した証を振り払って鞘に戻し、後からきた赤髪の男を見た。こういう容姿だと記録された名前を覚えている。ハリー・ジェム——その名前は敬いの念を呼んだ。噂ではウィル・ブロンドンに並ぶ荒い性格の持ち主であるという話だったが、実際にはまったくそんなことはないように見える。

 「よく、……飛び込みましたね」

 対するハリー・ジェムは愛用のナイフを探すのに必死で知らない男の声なんぞ耳に入らない。「ああもう、折れたりしてない? 金袋も馭者にやっちまったし、ナイフまでなくすのは嫌なんだけど……」

 アレクセイ・トップは巨大な魔物の皮を剥ぐ重労働をちまちま進めつつ、なにか柄のようなものが魔物の体にくっついているのを見つけて引き抜いた。「これかい?」と赤髪の男に差し出すと、そやつは大層喜んだ。

 ポールはアレクセイ・トップの活躍を目の前で見て、自信をなくしそうになった。が、ワタルの顔を思い出してみればちょっと気が楽になった。あいつに今体験したことをたっぷり聞かせてやろうと決める。



 光輝、宝飾の輪、フリーのポール——八人で現場案内所に入った。

 ヴィクトリアは大量の皮に大層驚いた。「なんですか、これ!」

 「でーっかいのがいたんだよ」とベンヤミン・キューブ。「ものすんごいでかいのが。そいつ一匹分の皮だよ」

 「よく今日のうちに剥ぎましたね」

 「そりゃあ、あとに回して悪い人たちに盗まれたら大変だからね。八人集まってよかったよ」

 ヴィクトリアは薄いグローブをはめると、ルーペを片手に皮の分類とその結果に基づく査定を始めた。が——見た目と硬さの変化が最も少ない形で防腐加工を施したサンプルの毛皮を、百種ずつ紐に通してまとめたものがあるのだが、そのサンプルとの照合がうまくいかない。「ちょっ……と、」彼女は「少々お待ちくださいね」といって裏に引っ込んだ。

 少しして、なにやら大人しそうな女が出てきた。明るい茶髪をまっすぐ伸ばした、化粧っ気のない目の大きな女であった。

 「これ?」静かな声がヴィクトリアに訊いた。

 「そう、なんの皮かわからなくて……。百五十番なんかが近いかなとも思うんだけど、二百二十番なんかも似てる気がして……」

 大人しそうな女はすでにグローブをはめていた手で、ヴィクトリアの使っていたルーペを持って皮の分類を始めた。

 ポールは隣にいたアレクセイ・トップにもうちょっと近づいた。「あれ、何物なんですかね?……」

 アレクセイ・トップが応じるより先に、ポールの声を聞きつけたベンヤミン・キューブがちょっと得意げに「未知の魔物だったりして」と囁いて笑った。「それなら、うまくすれば億万長者だぜ」

 大人しそうな女ははっとしたように、小さな声で数を数えながらカウンターの中で手元のものをめくり始めた。「五百番、これね!……」

 ベンヤミン・キューブはわかりやすく落胆した。すでにこの案内所に入ってきた皮なのである。

 「五百番?」驚いたのはヴィクトリアである。サンプルは買い取り頻度の高いものから順に紐に通されており、後ろにいけばいくほど数が大きくなり、そうであるほど稀少なものであることになる。そうしたサンプルの中には絶滅が疑われるようなものの毛皮もある。「すごい。そんなの、まだいるのね……」

 大人しそうな女は静かに頷いた。「所長はたまに処分したがるけど、三百番以降のサンプルも絶対に手放しちゃだめ。こういうことがあるから」

 「わたしも、三百番以降なんて調べてみようともしなかった……」

 大人しそうな女は書類にペンを走らせると、立ち上がってまた奥に戻っていった。

 ヴィクトリアはその背に礼をいって八人の男に向き直ると、下を向いてしばらく作業して、カウンターに大金を上げた。「お待たせいたしました、こちらが皮のお値段です」

 ポールは積み上げられた金にたまげた。外出の往復に送迎馬車を使えるどころか、一生遊んで暮らせるようにすら思った。

 「いやあ……」大金を目に落胆を吹き飛ばしたベンヤミン・キューブ、しみじみと声を上げた。「お前ら、いい現場の応援にきたな。四割を半分にしてもすごい額だ。特にお前、すごい名前の。お前は二割を独り占めだぞ!」

 ポールはベンヤミン・キューブをちょっと苦手に感じながら、「ほれ」と手渡された厚い札束を受け取った。

 ベンヤミン・キューブは赤髪に応援の報酬を渡した。「お前、名前は?」

 「ハリー・ジェムです。宝飾の輪、団長です」

 「宝飾の輪ね。ちらっと聞いたことがあるぞ、黄金の冠の偽物だろ」

 「いいえ、黄金の冠を抜けた三人で組んだんです」

 「それで名前が宝飾の輪だって?」ベンヤミン・キューブは笑った。「まあ団長のからきてるんだろうけど、黄金の冠へのあてつけだろ」

 ハリー・ジェムは小さく笑って「ええ、正直」と認めた。「俺たちは金の冠を宝石で飾るほどの団になります」

 「あは、すーごい自信! いいね、それくらいがいいよ。お前ら、実際ちょっとすごそうだし。黒いのとグレーのは、名前?」

 「ジョン・ギブソンです」

 「ジョシュア・エヴァンスと申します」

 ベンヤミン・キューブは「似たくさい名前で困るな」と眉を寄せた。「黒いのがジョンで、グレーのがジョシュアね」

 はそれぞれ頷いた。


 と、「ポール」と声をかける者。アレクセイ・トップである。「また会えて嬉しいよ」

 ポールは黙って会釈した。

 「よくあんな現場にきたね」

 「この間、助けていただいたので、もし役に立てたらと思ったんです」

 ポールの声を聞いたヴィクトリアは口を挟んでポールを困らせてやりたくなったが、黙っておいた。レオナルド・チェイスが事を進めてくれたから、彼に依頼代を渡した。

 「きみがきてくれて助かったよ、本当に」

 「光栄です」

 「きみには、やはり光輝うちにくる気は起きないかな?」

 ポールはアレクセイ・トップから受ける過大な評価に甘えたくなった。が、それができるほど自惚れてもいない。ポールは静かにかぶりを振った。「足を引っ張るわけにいきませんから」

 「それは言葉のとおり受け取っていいのかな? それなら、謙遜することはないと返そう。気が変わったらぜひ声をかけてくれ」

 どうせ〝光輝〟との接触を企んでいるのだから、大人しく自惚れてアレクセイ・トップの過大評価に甘えてしまえばいいのに、ポールは「ありがとうございます」などといって恭しく頭を下げた。


 ヴィクトリアは、昼のうちに中年の男がやってきたのを思い出した。「ハリーさん、ハリーさん!」

 呼ばれたハリー・ジェムが応えると、ヴィクトリアは「これ、ハリーさんのものですか?」と袋を掲げた。ハリー・ジェムには思い入れのある、見慣れた金袋であった。ヴィクトリアはいった、「送迎馬車の馭者だという男性が、赤い髪の青年に渡してくれといって持ってきたんです」

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