暴走

 ハリー・ジェムは濃霧の奥を睨んだ。相手は三体、頭部ばかり大きな、両手と両足とを使って移行する毛のない魔物である。背後にフーッ、フーッと呼吸するような音を聞いて振り向いても背に攻撃を受けるような相手であった。相手が三体だからといってもハリー・ジェムのほかにジョン・ギブソンとジョシュア・エヴァンスがいて、宝飾の輪も三人体制である、振り向いた瞬間に背に攻撃を受けるのは気味が悪い。

 「ハリー」

 ジョシュアの声がして、負傷した背に優しく人の体温が触れた。ハリー・ジェムは背の痛みに剣の柄を一層強く握った。

 「ジョン」——ハリー・ジェムが呼びかけると「ジェム兄さん」と応じる声があり、やがてジョン・ギブソンの黒髪が濃霧に浮かび上がった。ジョン・ギブソンもまたハリー・ジェムの赤髪を見つけて彼に背をあてた。


 フーッ、フーッ、フーッ——……。


 濃霧がほかの音を吸収し沈黙する林道に、濃霧が震えるように敵の呼吸が響く。宝飾の輪は息を止めて沈黙を守った。


 フーッ、フーッ、フーッ……——。


 ハリー・ジェムは敵の立てる音を切るように短く息を吐いて、瞬間また止めた。それはほかの二人には十分な合図となった。三人同時に地面に足跡を刻み、飛び出す!

 が——濃霧が、切られた空気のように鳴いてきらりきらりと、極めて短く、幾度か白銀に輝いた。霧が薄れる中、どさりどさりと重く鈍い音が立つ。


 「いやあ素晴らしいよ、トム・レヴィン」

 声は宝飾の輪に、泥に濡れた指でねっとり首筋を撫ぜられるような不快感をもたらした。

 「光栄です、ウィル・ブロンドン団長!……」

 恍惚としたような声がハリー・ジェムの耳をねぶった。ハリー・ジェムは目を空に向けた。自身の背に密着し——美しい女が無意識に魅力を放つように——猛烈な殺気を放つ男のことはせめて視界から除外したかった。そんな男の存在を感じるのは、首に回された腕の感触と相手が呼吸する音を耳元で聞くことによるもので十分だった。

 「ああトム、俺はお前のような立派な団員を持って幸せだよ!……ああ、全員が全員お前のようだったらどんなに幸せだろう!」

 ハリー・ジェムはいよいよ吐き気がした。すっかり狂気的な喜びに浸っているかつての同僚の息づかいの気色悪いのなんの!

 「団長……この不届き者をどうしますか?……」


 「さあ、どうしようなあ?……」ウィル・ブロンドンはジョシュア・エヴァンスの首に剣をあてたまま応じた。それからありたけの愛憎を乗せて叫ぶ、「〝宝飾の輪〟のみな様! 差し出がましいようですが我々〝黄金の冠〟が加勢に参じました! お三方の息のぴったり合った戦闘は見事というよりほかにない、ぜひ我々とともに戦っていただきたい!」


 ドナルド・ハンターはジョン・ギブソンの背面から左の胸に銃口を突きつけながら、引き金を引くことで体中にくすぶる不快と不満とが少しでも安らぐことを期待していた。


 「ハリー・ジェム……」トム・レヴィンが囁いた。「どうして出ていった。お前は一等強い魔物狩りになりたがっていたのに。それが叶うのは〝黄金の冠〟の中でのことなのに」

 ハリー・ジェムは現状に対する不快感に任せて、握っていたナイフを後ろの男に叩きつけた。大腿を刺されてくずおれるトム・レヴィンの悲鳴は〝宝飾の輪〟に合図を送った。ジョシュア・エヴァンスはウィル・ブロンドンの驚いた一瞬で反対に自らがウィル・ブロンドンの首に剣をあて、ジョン・ギブソンはドナルド・ハンターの手を打って拳銃を奪い銃口を見せつけた。

 ドナルド・ハンターは相手に拳銃を扱えるはずがないと高を括り薄ら笑いを浮かべているが、ウィル・ブロンドンはまぶたの中で溢れんばかりの怒りを揺らした。「くそがきッ、くそがき、くそがき! 戻れといってるんだ、あるべき姿に戻れと! 手前らは全員、〝黄金の冠〟にいるべきなんだよ!」ウィル・ブロンドンは首にあてられた剣を払って自身の剣を突き出した。「ジョシュア・エヴァンス!……呼べ、俺を〝団長リーダー〟と呼べ!」

 ジョシュア・エヴァンスはゆっくりと首を横に振った。「俺の〝リーダー〟ウィル・ブロンドンは、剣術に優れています。首に剣をあてたなら、決して獲物に逃げられることなどなかったでしょう、一瞬たりとも」

 「呼ぶんだ、俺を、〝団長リーダー〟と!……」

 「俺の〝リーダー〟は、ハリー・ジェムです——あの暮れ方から」

 「殺す! 手前ら全員、魔物狩りなんぞできなくさせてやる!」叫んだのはトム・レヴィンだった。特製のをハリー・ジェムに叩きつけるように振り回す。団長だのリーダーだのと呼ばれて持ち上げられるのがウィル・ブロンドンでなければ気が済まないものと見える。

 ハリー・ジェムはかろうじて逃げて、トム・レヴィンが次に振り回すまでに叫んだ、「落ち着けよ、トムの武器は危なくていけない」

 「安全なものを武器とは呼ばない」

 「そりゃごもっとも」ハリー・ジェムは殺意を原動力とする危険なから精一杯逃げる。凶悪なが体から数ミリずれたところに休みなく叩きつけられるせいで、ベルトから愛用のナイフを取るのも叶わない。かつての仲間に迷いなく投げる自信はないが、どこか戦意を削ぐだけの痛みを与えられるような箇所に投げたいと考える。


 ドナルド・ハンターはジョン・ギブソンが銃口を向けたまま動かないせいで薄ら笑いを浮かべたままであった。

 「なにをしてる、それはただ相手に突き出して遊ぶじゃない」ドナルド・ハンターは手を差し伸べた。「正しい使い方を教えてやろうか」

 ジョン・ギブソンが問う、「なんのためにここにきた?」

 「さあ。ウィル・ブロンドン団長がお望み遊ばしたために同行したとしか。俺にはこんなところにくる理由はなかった、お前らに会いたいとも、お前らがあんな程度の魔物に苦戦するような子供みたいな戦闘能力を持ってるとも思わなかったから」

 「あんた、いつからかすんごい嫌なやつになったよな」

 ドナルド・ハンターは両腕を広げて高らかに語る、「俺は目覚めただけだよ。自分が弱いなんて、必要とされてないなんて、そんな馬鹿げた妄想から現実に戻ってきたんだ、それだけなんだよ。くだらない悪夢の中は苦しかった。今は思う存分に呼吸ができる! 苦しい夢の中から幸せな現実に目覚めたんだから、こんなに気分がいいことはないよ」

 「そういうふうに変わっちまったっていってんだよ。俺はお前のことは嫌いじゃなかった、大人しいっていうより落ち着いた感じがあって、頼れる仲間だと思ってた」

 瞬間、ドナルド・ハンターの目がキッと吊り上がった。ジョン・ギブソンはびくりとして銃を突き出した腕をちょっと震わせた。

 ドナルド・ハンターは「俺はお前のことが嫌いだった!」と叫ぶ。「嫌いだった、大嫌いだった! お前は俺を孤独にした! 俺を劣った者のように思わせた、お前は、お前は俺に悪夢を見せた!」

 「ええ、なんだよ、俺がなにをしたって?」

 「お前を見るたび、俺は孤独になった!」——ドナルド・ハンターは訴えるが、そんなことはジョン・ギブソンの知ったことではない。だいたい、普通の団員として普通に生活していたら、普通の団員だと思っていた普通に見える男が知らないところで孤独を感じていたという話なのだから、ジョン・ギブソンがその男にしてやれることはなかったのである。

 「お前を見るたび、お前らを見るたび、俺は自分の居場所を見失い、自分が劣っているように感じた! お前らの存在は呪いだ!」

 「わかった、落ち着け。お前もついさっきいってただろ、そんなのは馬鹿げた妄想だって。実際には違うし、お前もそれに気づいた、目が覚めたんだろ? それでいいじゃないか。俺は拳銃これをお前に返す、お前はそれを受け取って、〝黄金の冠〟の立派な一員として次の現場を探し、向かう。それでいいじゃないか」

 ジョン・ギブソンは穏やかな口調を心がけて話したが、相手が間髪を容れず「よくない!」と絶叫したものだから、もうどうしたものかわからなくなった。

 と、ドナルド・ハンターの目に今までのとは違う力が入って、ジョン・ギブソンは数瞬のうちに警戒した。相手の脚に力が込められたのを感じると、反射が働いて飛び退った。

 右手に触れるものがあったのを感じる間もなく、ジョン・ギブソンは剣を抜いて身を低くした。それよりほんの僅かに遅れて、ジョン・ギブソンの胸のあったところを銃弾が走った。

 「お前、人間かよ⁉︎ 俺の反射がちょっとでも鈍かったら——」ちょっとでも鈍かったらジョン・ギブソン本人が死んでいた反射が働いたおかげで、二発目の銃弾から逃げた。相手の殺気を感じ取る力は魔物狩りの職に就いて身についたが、魔物狩りの職に就かなければそんな力が必要になることもなかった。

 「落ち着けってば! 俺がその銃で死んだのが知れたらどうするんだよ、それこそお前の居場所がなくなるぞ!」

 ドナルド・ハンターは黙って弾を飛ばす。ジョン・ギブソンは確実に削れていくすべての力で相手との距離を取り、少しでも生存の可能性を上げた。それから、ドナルド・ハンターの希望を潰す、確実で最も少ない可能性に賭けた。相手は人間で、しかもかつておなじ集団に所属していた者である、ジョン・ギブソンにそれを殺すほどの勇気も邪心もなかった。

 ジョン・ギブソンは相手が次の弾を飛ばさないことを祈り、またほんの少しでも遠くへと祈りながらドナルド・ハンターから離れた。

 これだけあればあるいは——と、ごく短い間、ジョン・ギブソンの心に湧いたごく僅かな期待を、ドナルド・ハンターは見逃さなかった。その瞬間に弾を飛ばした。

 まるで剣に魂が宿ったかのようであった。柄を握る両手に凄まじい衝撃を感じて、ジョン・ギブソンは死に支配された頭蓋の中が晴れていくのを感じた。かつてないほど強く意識した死は、まさに反射によって退けられた。もっとも、自身が地に膝をついているのに気がついて、死に対する意識は改めて湧いた。慌てて立ち上がり、ぼんやりとした頭でドナルド・ハンターを探したが、正面に見つけた彼は茫然と立ち尽くしていた。


 突然聞こえた銃声に気を削がれたのがいけなかった。「ジョン!」と叫んだハリー・ジェムの後頭の毛が舞い、血が飛んだ。凶悪なは何度でも飛んでくる。ハリー・ジェムはとうとうその一端についた革を掴もうとしたが、手を伸ばした瞬間、が変な動きをして革が遠のき、ハリー・ジェムの手のひらを切った。

 「触るな」トム・レヴィンは冷め切った声でいった。「お前には大好きなナイフが一本あるだろ」

 ハリー・ジェムは深く切れた手のひらをぐっと握った。「魔物の駆除のための一本がな。俺は魔物狩りで殺し屋じゃない。ましてや相手の人間が仲間なら、もっと使えない」

「仲間? 俺はそうは思ってない。お前は団長を裏切った。……それでもまだ、仲間なんていうなら、戻るんだ。お前たちが戻ることを、団長も望んでる」

 「その団長は、場数を踏むこと意外に、もっと大事なことを考えられるようになったのか?」

 これをウィル・ブロンドンへの罵言と受け取ったトム・レヴィン、目尻を吊り上げてを振り回す。

 殺気を一層強めたがハリー・ジェム目掛けて飛んでくる。——と、ここでハリー・ジェムの体が重くなる。カミサマの降臨のために、ハリー・ジェムはその顔にを喰らった。

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