スられて一文無し

 ワタルは持ち前の前向きさのいくつかを取り上げられて、掏摸すりに遭った現場に戻された。ポールに会った記憶はまるでなくなっている。今はちょうど、軽いリュックの中を覗き込んでいるところである。がらんとしたリュックの中に茫然とし、掏摸に遭ったことを嘆いたところである。


 さてこれからどうしたものか。——いよいよ我々の知らない物語が始まるわけである。


 「ああ……まずはなにか食べたい……」ここにため息を一つ。「しょうがない、簡単な現場を紹介してもらおう」

 ワタルはニッと笑顔を作った。「掏摸に遭ったのがなんだっていう! なにか一件現場を引き受けて換金すれば、朝食くらい食べられる!」

 ワタルは、かわいそうなことに今しがたポール=カルダー・エッカートと食事した事実をすっかり消されているのである。あの料理も、その材料も存在しなかったことになっている。今しがたポールと食事した事実が消えてなくなり、掏摸に遭った直後に時間が戻ったような具合である。


 魔物狩りの仕事案内所は、入り組んだ路地の奥にある。外壁から突き出した鉄の腕に『現場案内所』と味のある字で記された看板が細い鎖でぶら下がっている。建物の方はこのあたりによくある石造りのもので特段変わったところはないが、不思議と瀟灑しょうしゃな喫茶店とか雑貨屋とかいうには物々しい雰囲気がある。そんなふうに無邪気な幼子や流行りの形に髪を結い上げた乙女や上質なドレスを着た淑女がいるようには思えないのは、実際にここに集まる者の気質によるのかもしれない。恐怖に対する鈍感さ、あるいは荒い気性、またあるいはとびきりの前向きさばかりを持った男どもである。彼らはまず優れた知性も品性も持ち合わせていない。


 ワタルは木製のドアを開けて中に入った。たいした広さのない建物内、正面のカウンターでは一組の集団が紹介を受けていた。プラチナブロンドの髪を長く伸ばした長身の男がおり、その周りに幼女のような後頭の者、横を向いた顔の口元に髭を生やした茶髪の者、前を向いていて顔の見えない黒髪の者がいる。プラチナブロンドの男はさぞ整った顔立ちをしていることだろうが、ワタルに彼らと接触を試みようという気は起きない。あの集団が〝光輝〟であると気がついたところで、今のワタルは幸運だといって喜びを得られないばかりか、こちらへ向かうときの意気はどこへやら、彼らの立派な服装やらなんやらを見て自らを劣った者と感じたりする。


 アレクセイ・トップはたしかに長身な男であった。見た目に関してはまったくあの記録のとおりである。幼女みたいな髪型のベンヤミン・キューブもなかなかの長身で、彼もまた記録のとおり、青い目をしたおとなしげな青年であった。


 「あ、ワタルさん!」

 なにもかもられた己の現状にため息をついて〝光輝〟を見送ったワタルに、カウンターのあちら側から声がかかった。色の淡い花弁のような髪色の若い女が、顔の左右で髪の束を揺らして微笑みかけている。この娘、見かけはおっとりした乙女だが銃の腕がかなりのものである。時折、気に入った仕事が見つからない魔物狩りが荒っぽいことをするためだが、ただ男に仕事を紹介するだけで銃の腕も磨かねばならない女は不憫である。機織りとか針子だの、代筆屋——これに関しては近頃需要が減ってきているが——だの家政婦だの女に向く平和な職はほかにいくらでもあるが、こうしたところで働く女たちにもなにかしらの事情があるのかもしれない。

 「やあ、ヴィクトリア」

 ワタルは恐々カウンターへ向かった。

 ヴィクトリアの「換金ですか?」との声に胃が痛くなる。

 「ああ、その……毛皮は、ちょっと……」

 「うん?」

 「さっき、掏摸に遭ってさ。毛皮も一緒に持っていかれちゃったんだ」

 「ええ!」ヴィクトリアはただでさえ大きな目を一層大きく見開いた。「ちょっとちょっと、なにしてるんですかあ。お間抜けさんですねえ。え、じゃあ毛皮はまったくないってことですか?」

 「申し訳ない。ほんと、申し訳ない……」

 「もったいないですねえ、昨日の現場には大物がいたことでしょうに。ええと、それじゃあ今日の現場を紹介しましょうか」

 「お願いします」

 「今度はられたりしないでくださいね。ワタルさんが昨日狩った分は今頃、気持ち悪いほどの安値で売られていることでしょう。魔物狩りから盗んで破格の安値で売り飛ばす——そんなのが横行したら、まともな業者がやっていけませんからね」——こちらとしては、カミサマがそういった悪事を取り締まる組織を創造していることを切に願う——。ヴィクトリアはカウンターの下から多量の書類を出してきた。「盗まれてばっかりじゃ、魔物狩りだってがなければ仕事を辞めちゃいます。そうしたら私たちだって仕事がなくなっちゃう。魔物は狩られることなく土地を荒らして回り、……」ヴィクトリアは考えたくないというように目を閉じて首を振った。「世界の終わりですよ、まったく。なので悪党は許さないでくださいね、絶対に」

 「……ぐう」

 「ぐうの音も出さないでください。異人のワタルさんにはまったく他人事じゃないんですからね。偉大なる人じゃなくて異なる人ですからね、魔物狩りくらいしか就ける職もないでしょう」

 「ええ、仰るとおりです、ええ、ええ……」

 こういう事情はカミサマの干渉に関係なくつきまとう。先ほどポールにこうした事情を話さなかったのは、であることにずいぶん劣等感を抱いているからである。

 「それで、どんなところがいいんです?」

 「あまり遠くないところで、小さめの魔物の話って聞いてますか?」

 「そりゃあ、魔物なんてあちこちに湧いて出ますからねえ」


 書類を一枚一枚確認するヴィクトリアが、現場はこのあたりがいいんですよねと確認してきたので、ワタルは頷いた。


 「それじゃあ、これなんてどうですか。あいにく——というのも変ですが、今は区内からの小さい魔物の駆除依頼がなく、すぐ近くというわけにはいきませんが、隣町の農場で、」——一つの地域が管轄するのはその地域と隣接するすべての地域であるが、原則その地域が優先される——「つい先ほど入った依頼です。そこで飼育されている牛が、三頭死んだそうです。健康状態に異常はなく、飼い主は疑問に思っていましたが——」

 「魔物の仕業だったと。オーケイ、すぐに向かおう」

 「待って」ヴィクトリアは短く引き止めた。「どんな魔物かっていう情報がないんです、依頼主が混乱していて、一番重要な魔物に関する情報がほとんど得られなかったんだそうです、大きいものかもしれません」

 「いいよ、それにする。区内のはどれも間違いなく大きいんでしょう?」

 「ええ」

 「じゃあ、それにするよ」

 「お気をつけて」ヴィクトリアは書類と地図に判をした。「くれぐれも毛皮を盗ませるような間抜けな真似はしないでくださいね」

 「うん」

 ワタルはヴィクトリアから裏面に判を捺された地図を受け取ると、盗まれることのないようにと釘を刺す彼女に苦く笑って手を振った。異人との認識を持ちながらも優しく接してくれる案内所スタッフは愛らしく笑って手を振り返してきた。


 ワタルは案内所を出ると地図を見ながら走った。すでに三頭が犠牲になっている。これ以上の犠牲を出すのは避けたい。


 目的地まではずいぶんかかった。他所よその現場へ向かうのは初めてだった。すでに別の魔物狩りが着いているかもしれないと思い、あるいは期待しながら、農場主の自宅の新聞受けに地図を入れた。魔物出没現場がその土地を所有する者の住まいからほど近い場所である場合の、土地の所有者に対する魔物狩り到着の合図である。


 別の魔物狩りが着いているかもしれないとの期待は裏切られた。農場に人影はなく、腕と脚とを使って移行する、毛のない表皮がぬらぬらと光る魔物がいた。魔物の来襲を生き延びた牛はすでに牛舎に入っているらしく、牧場には、死んだ牛が三頭、苦しげな顔で転がっている以外には、その魔物が一体いるばかりだった。


 ワタルは息を殺して神に祈った。

 此度こたびの仕事も無事に済ませられるようお守りください——……。


 そっと剣を抜くと、魔物はその刀身が反射した光に目ざとく反応した。糸引く体液を口から垂れ流してワタルの方へ突進する。


 ワタルはかろうじて飛び上がって避けた。魔物が二足歩行する個体でないこと、動きが素早い個体であることが重なって起きた偶然であった。


 ではそれらの要因はワタルに幸運をもたらすかとなればそうではない。すばしっこい魔物ならのろのろと動く魔物がいいし、四足歩行する魔物では胸部または腹部にある急所を突きにくい。ただでさえ急所が胸と腹のどちらなのかは個体によって異なるのだから、魔物狩りとしては相手に仁王立ちでもしていてほしいものである。そうはいっても、魔物だって人に狩られるためだけの存在でもない。人の暮らす地域を荒らすから人が殺すのであって、あちらもただの生き物である、殺されやすい体勢で殺されるのを待っている理由なんぞありはしない。人里にやってくるのも食うものに寝る場所、棲むところを探してのことであるわけだから、武器と殺意を向けられれば恐ろしくなって逃げたり攻撃したりするわけである。


 表皮をぬらぬら光らせた魔物は、人の震えた声に似た声でえた。口からだらだら垂れる粘液がさらに増える。


 ワタル、相手の異質な姿に怯えて呟く。「あのよだれみたいなの……と肌をてからせてるの、毒とかないよな?……」


 魔物の動きはワタルの声に応じるようなものだった。肌にまとった粘液を彼めがけて振り飛ばしたのである。顔を庇うつもりでかざして粘液の一部を受けた手の甲は、燃えるような熱さを訴えながら変色していく。


 「うわった!……もう、最悪!……」


 魔物はまた咆えて突進してくる。ワタルは繰り返し神に訴えた。どうかお守りください、どうかお守りください、どうかどうかどうか、お守りくださいお守りください……——。


 少しおとなしくしてくれと願いながら剣を振った。刀身は魔物の腕の一方を切り飛ばした。

 死ぬつもりのない魔物がそれでおとなしくするはずはなく、腕のあったところからどろどろと赤黒い体液を滴らせて反撃に出る。口を四方に裂くようにして大きく開け、奥から大量の粘液を吐いた。


 これにはワタルも手を翳すような真似はせず、剣を隠し頭を低くして走った。今は問題ないようだが、あの粘液には剣も脆くなってしまうかもしれなかった。あの体液に剣が使い物にならなくなるのは、あの体に突き刺したあとであってほしい。


 ワタルの一歩、あるいは半歩後ろに粘液が飛ぶ。土に残ったワタルの足跡が次々汚される。


 ワタルは空腹と現場ここまで走ったのとで重たくなった体で駆け回りながら、少しずつその円を小さくした。

 体の下に入り込めなくても、背面から剣を突き刺して胸から腹までを切り裂ければ!……


 魔物はワタルを見失ったようだった。ワタルはこれを好機とばかりに背後で飛び上がり、剣を振りかざした。首の後ろ、少し横にずれたところに刀身を突き刺し、背中に飛び下りると靴が粘液に滑るより先に勢いよく剣を引き下ろした。これで胸も腹も切れたはずだ。——が、魔物の体は切り裂かれたことで、中に溜め込んでいた体液を噴き出した。ワタルはその繁吹しぶきをまともに食らった。


 ——と、ここで体が軽くなる。が、なにも救われない。

 ワタルはベッドから転げ落ちたのとは比にならない悲鳴を上げてのたうち回る。全身が焼け爛れるような激痛に包まれる。全身の皮膚が、痛みそれ自体に豹変したかのようである。体中の毛穴からどろついた灼熱の液が噴き出して、爛れた皮膚をさらに溶かしていくかに感ぜられた。沈黙する魔物の亡骸の横、ワタルは苦痛に悶え、喉が裂けるような悲鳴を上げる。


 牧場主は平穏な家内で魔物狩りの悲痛な声を聞いた。中年の男はそれが魔物に体を噛み千切られていることによる声だと思い、目をつぶり、震える両手で耳を塞いだ。



 その瞬間、ポールもまた我に帰ったような解放感を得た。彼は女の黄色い声は聞こえても、魔物の咆哮とも魔物狩りの悲痛な叫びとも無縁な穏やかな飲食店の中にいた。しかしカミサマの干渉から解放された今、ワタルという青年との記憶が蘇る。

 「あの、魔物狩りのポールさんですよね、サインとかもらえますか?」

 女の興奮した声に、ポールは「ちょっと待って」と返した——恐ろしいことに、ただの魔物狩りである彼はファンとでも呼べよう女に向けた名前の書き方を覚えているのである——。

 ポールはある日枕元に出現した摩訶不思議な本を開いた。と、改めてワタルの項目が目に入る。今一度読んでみると、彼に関する記録の最後に彼の死が明記されていた。


 ——……。


 ページの気に入らないところを破り取っても、新しいページにおなじ内容が記されることは、馬鹿げた長ったらしい名前で思い知っている。ぞわりと寒気がして席を立つ。

 「あの、サイン、サインを!……」

 「またどこかで」

 ポールに愛想を振りまいたつもりはないが、後方で何人かの女の楽しそうな声が上がった。

 ポールは会計カウンターに、注文したものに対して余裕のある金を置いた。「釣り銭はいらない」


 店を出ると彼は現場案内所を目指して走った。よりにもよって目的地まで遠い。


 ようやく案内所に着くと乱暴にドアを開けた。「ヴィクトリア! ヴィクトリア!」

 「少々お待ちを!」カウンターの向こうから声が飛んでくる。

 「ワタルはここにきたか、誰か知ってるやつはいないか! ワタルがここにきたか知ってるやつは!」ワタルはカミサマの干渉中、掏摸に遭っているのだ、十中八九、先ほどまでの干渉で仕事を引き受けている。カミサマはワタルを殺すと決めている。今回の現場で殺す可能性も大いにある。


 ようやくヴィクトリアが電話を終えた。「お待たせしました、ポールさん」

 「ヴィクトリア。ワタルはここにきたか!」

 「ええ、きましたよ。お金も、昨日狩った分の——」

 「どこにいった! どこを紹介した!」

 「区内に適当な依頼がなかったので、隣町の農場を。地図を用意しますね」

 「急げ、早くしてくれ」

 ヴィクトリアはなにやらごそごそとやって「これです」とカウンターに出した。ポールは大股で進んでそれを引っ掴むと、案内所を飛び出した。地図の示す場所を目指して走りながら、この世界に悪態をついた。

 くそったれ、くそったれ、この世界にはまったく腹が立つ! 創造神なんて糞食らえ!……


 辿り着いた目的地はしんとしていた。

 ワタルは無事に仕事を終えたのか?……

 果たしてポールの期待は早々に打ち砕かれた。牧場には牛三頭のほかに二つ、沈黙する塊が見えた。

 「ワタル!」

 柵を飛び越えて駆け寄った。片腕を失い体を切り裂かれた魔物の亡骸のすぐそば、沈黙して横向きに倒れたワタルが生きているのかどうかは、よくわからない。

 「ワタル、ワタル!」変色した顔を引っ叩いて叫ぶ。「起きろ! 起きろ、ワタル!」

 ポールは腰のポーチから解毒剤を取り出そうとしたが、瞬間、意識が遠のいた。感覚の薄れていく手でポーチを開ける。

 させるか、させるか! くそったれ創造神め、手前の好きにさせてなるものか!

 掴め、掴めと己の指先にどれほど命令しても、ポールの手は解毒剤を取り出せない。

 ポールはとうとう消えていく意識の中から叫んだ。

 死ぬな!——



 「きみ、きみ!……起きて! 大丈夫かい?」

 ワタルは薄く開いた目で顔立ちの整った男を見た。相手は自分を見下ろしている。

 「ああ、目が覚めたかい? よかった。苦しいだろうけど、指を動かせるかい? 僕の手を握ってくれるかい?」

 ワタルはいやに響いて——あるいはこもっているのかもしれない——聞こえる声に従って、手に触れているものを握った。

 「ああ、よかった!……もう少し落ち着いたら、治療師に診てもらおう」

 「きみは、誰?……」

 「僕かい、僕はポールだ。ポール=ロナルド・イアン・ネイサン=カルダー・エッカート」——これがカミサマの望むポールの姿である。

 「ポール……ロナルド……」

 「ポールでいいよ。ちょっと長いからね」

 名前のちょっと長い青年はワタルの額に手をあてた。「さすがに熱いね。ちょっと心配だ、すぐに治療師に診てもらった方がいい。ちょっと待っていて」


 記録開始以降初めて現れたポールは走り出す。牧場主の自宅のドアを叩いた。


 「魔物狩りのポール=カルダー・エッカートと申します、魔物駆除完了も一名重傷につき、診療所への連絡を願います!」

 ポールが今一度ドアを叩くと、「今かけてるところだ」と声が返ってきた。

 やがてドアが開くと、家主は「治療師たちが着くまで、使えるものがあれば使ってくれ」と木箱を差し出した。ポールは礼をいって、相手の手の中で震える木箱を受け取った。ポールの手に渡ると、木箱はすっかり震えなくなった。

 ポール、ワタルの元へ駆け戻り、木箱を漁る。解毒剤を染み込ませたガーゼを、傷の特にひどいところを優先して繃帯ほうたいで固定していった。


 四頭立ての馬車が到着した。中から四人の男が出てくる。

 「西部診療所です」

 ポールは一礼して、ワタルの方を振り向いた。「彼です」

 診療所のスタッフは一つ頷いてワタルの元へ駆け寄り、彼を馬車へ運んでいく。

 「あなたは患者のご友人ですか?」

 「いえ、彼が倒れているのを見つけただけです」

 「付き添いますか」

 「いえ、あれを片付けます」ポールは魔物の亡骸を振り向いていった。

 スタッフは一つ頷いて、患者を乗せた馬車に乗り込んだ。四頭の馬は命令を受けて駆け出した。


 ポールは魔物の表皮を覆う粘液を洗い流してから皮を剥いだ。骨と内臓の類は特殊な加工によって暗い紫色をした袋に入れ、魔物の亡骸の処理を担う業者に引き渡す。巷では、そうした魔物の亡骸は最終的に農作物の肥料になるとか家畜の飼料になるとか、飲食店でもあんまりに安い肉は魔物の肉なのだとかいろいろ——ときにまことしやかに——囁かれているが、その実際のところというのは魔物狩りをやっているポールも知らない。家畜が食っているだの人が食っているだのというが、急所が——胸の個体もあるが——腹なんていう摩訶不思議な生体の肉を普通な哺乳類が栄養にできるのか疑問である。といっても、特に人は鶏も魚も食える体なわけだから、魔物も食えるものなのだろうか。なんにせよ食ってみたいものではない。


 ポールは最後に牧場主に挨拶し、このあと牧場の清掃が行なわれることを伝えた。


 ポールは先に現場案内所へ向かった。

 換金を頼みたいというとヴィクトリアは不思議そうな顔をした。「ポールさん、現場にいかれていたのですか?」

 「ちょっと通りかかったんだ。そうしたら、重傷を負った人がいてね。これは彼が狩った魔物の皮だ」

 ポールが差し出したのを、ヴィクトリアは受け取った。「現場はどちらでした?」

 「隣町の農場だよ。彼は魔物の毒を浴びて診療所に運ばれたから、報酬を持って見舞いにいくよ」

 ヴィクトリアはちょっと心配そうに「まあ」と声を上げた。「ワタルさんね」

 「ワタル?」

 「重傷を負った魔物狩りです、ワタルさんというんです」

 「ワタルか。ファミリーネームはなんていうんだい?」

 ヴィクトリアは少し考えるようにして、「さあ」と首を振った。「ワタルさんなんです、彼は。異人なのでそういったところもちょっと変わってるのかもしれませんね」

 ヴィクトリアはワタルの報酬をカウンターに出した。

 「異人か……。聞いたことがあるよ、ときどき、別の世界からやってくる人がいるって。彼がそうだっていうのかい?」

 「ええ、みんなワタルさんを異人と呼ぶんです。正直、わたしにはよくわからないんですけどね、どこにでもいる青年って感じですし」ヴィクトリアはふと頬を染めた。「ワタルさんなら、ポールさんの方がずっと特別な感じがします。だってあまりに美しいから」

 は「小恥ずかしい」といいながら、まんざら嫌ではなさそうに笑った。それからワタルの報酬をしまった。

 「ああ、ところで、彼が向かった現場の住所はわかるかい」

 「ええ、わかりますよ」

 「現場の清掃を頼みにいくんだ、なにかあの場所がわかるものをくれるかい」

 「ええ、ちょっとお待ちくださいね」

 ヴィクトリアはカウンターの下から一枚の紙を引っ張り出してくると、それにペンを走らせた。

 ポールはヴィクトリアの字で現場の住所が記されたメモを、礼をいって受け取った。

 「お気をつけて」といって見送るヴィクトリアに「ありがとう」と手を振る。


 亡骸処理業者の男はポールから袋を受け取ると、「どちらから?」と尋ねた。

 ポールは「こちらから」と応じてヴィクトリアにもらったメモを差し出した。

 男はメモを受け取って見ると複雑な顔色で頷いた。「いやあ、こんな近くが魔物出没の現場になるとはねえ。このあたりはかなり平和なんだけど」

 「毒を持つ個体でしたので、気をつけてください」

 「この辺もとうとう、そんな危なっかしいのが出る場所になっちまったか」男は嫌だねえと苦々しく笑うと、「ご苦労さま」とポールを短く労って仕事に戻った。このあとすぐにここから清掃員が派遣される。


 ポールは診療所に向かいながら、ふと馬車の音に振り返った。送迎馬車だった。馭者ぎょしゃのかぶっている帽子が青だったので、ポールは足を止めて手を挙げた。青い帽子が空車の合図なのである。

 馬車はそっと速度を落としてポールの前に止まった。中年の馭者が「どうぞ」と声をかける。ポールは「西部診療所まで」と頼んでキャビンに乗り込んだ。剣の柄で天井を叩くと馬が走り出す。


 診療所前に着くと、馭者はキャビンを降りたポールに「帰りはどうします?」と訊いた。

 ポールは先に聞いた分の金を出しながら答える。「ううん、いいよ」魔物狩りのほとんどが送迎馬車を頻繁に使えるほど裕福じゃない。「助かった、ありがとう」

 馭者は「また見かけたら捕まえてくださいね」と明るくいうと、頭にかぶるのを赤い帽子から青い帽子に変えて馬を走らせた。


 看護師の案内でワタルの休んでいる部屋に着いた。六台あるベッドのうち、四台分のカーテンが閉まっていた。ワタルは窓際の向かって左のベッドにいるとのことだった。

 ポールはカーテンの外から「ワタル」と声をかけてみた。少しして「ポール」との返事があった。

 カーテンの中、ワタルは繃帯ほうたいで全身をぐるぐる巻きにされてベッドに転がっていた。

 「ああ、えっと……たしか、ポール、ロナルド……」

 ポールは小さく笑った。「イアン・ネイサン=カルダー・エッカートだ」

 「ああ……そんな感じだったかな?……」ワタルは掠れた声でごく小さく笑った。「どうして、こんなところに?……」

 「きみの狩った魔物の皮を換金してきたんだよ」ポールはベッド脇の小さなテーブルにワタルの報酬を置いた。

 「それで、治療師はなんと?」

 「ああ……皮膚が受けたダメージが、大きいから……痕がちょっと、残るかもしれないけど、……体は大丈夫だろうって」

 「そうか」

 「俺は幸運に恵まれてるんだ。こういう大事なときは、いつも」

 「そうか。そんなにいいことはない。痕が残らないといいね」

 ワタルは繃帯の中で口の端を上げた。「残ったら残ったで、勲章になるよ。幸運が、死の淵から引っ張り出してくれたんだっていうね」

 ポールは口角を上げて頷いた。「ゆっくり治すのがいい。きみが無事でよかった」

 「きみのおかげだ。きみに会えたのは、この上ない幸運だよ」


 ——と、ワタルとポール、同時にはっと我に帰ったような解放感を得た。

 数瞬ぼんやりとして、いよいよ意識がはっきりすると、二人は顔を合わせて笑った。

 「俺に会えたのがこの上ない幸運だ? よくいう、どんな悪運より悪運だっていってたろ」

 「うるさい。ああいうときは、意識はあってないようなものなんだ! どれもこれも、いおうとしていってるんじゃないし、やろうとしてやってるんじゃない」

 ポールは「ははっ」と笑った。「まあ落ち着けよ、そんなのは俺が一番わかってる。干渉を受けてる間の自分には反吐が出る。女に騒がれてデレデレにやにやしてるんだぞ」

 「うーっわ、腹立つ。その言葉がどれだけの男の恨みを買うか知っておけ」

 「ははん、繃帯ぐるぐる巻きでよく喋るやつだ」

 「時間が経つほど楽になってるんだ、浴びた直後は絶対に死ぬと思ったけど」


 ポールはすっとまじめな顔をした。


 「ワタル、まじめな話だ」

 「なんだよ、カミサマの干渉とやらがない間に、〝黄金の冠〟と〝宝飾の輪〟の喧嘩を止めればいいんだろ?」

 「この世界について、はっきりわかったことがある」

 「なんだよ、死にかけたやつを相手にまた難しい話か? あとにしてくれると嬉しいんだけど」

 「俺だっていつまでも小難しい話なんてしたくない。でもそういうわけにもいかないんだ。お前の生き死にに関わることなんだよ」

 「なんだよ、幸運が死の淵から引っ張り出してくれるようなこの俺だぞ?」

 「改めて設計図にあるお前の項目を読んだんだが、——ああ、お前、フィクションは知ってるか?」

 「フィクション? ああ……劇とか、あとなんだ、あの、……まあ、読み物なんかもそうだよな」

 「な」

 「ああ、それだ」ワタルはポールにいわれたのを真似するように「賢いな」と続けた。

 「で、この世界はそのフィクションの世界らしい」

 「え、なんて?」

 「この世界は、半分は存在しないんだよ」

 ワタルは目元に手をあてたが、繃帯の下が痛んですぐに手をどかした。「ああもう、このあと寝たらすげえ嫌な夢見そう……」

 「なんならこの現実が悪夢だよな」

 「ああ嫌だ、頭がおかしくなる。なに、俺らは今ここにいるだろ?」

 「ああ、いる。どんなに意地悪なことをいっても、俺らが今ここにいるって信じてるのはお前だけじゃない。お前の目の前で、俺もまったくおなじように信じてる。そればっかりはどうにも変えられない」

 「それなのに存在しないって?」

 「俺たちが感じてる、操られてるような感覚と、ふと感じる解放感が勘違いじゃなければな」

 「じゃあ勘違いでいいよ、もう。俺もお前も、変な気分になるときがあるってだけだ。なんかぼけっとする時間がある、それだけ」

 「でも残念なことにカミサマの設計図がある」ポールは摩訶不思議な本を取り出して、仰ぐように揺らした。「これもまた事実だ」

 「お前が作ったんだよ、小じゃれたノートにお前が記録をつけたんだ」

 「じゃあなんで俺が会ったこともないお前を知ってた?」

 「偶然だ偶然、そうに違いない」

 「その方がよっぽど気持ち悪い」

 「冷静だなあ、王子様は」

 「やめろ」

 「ついさっきまでは気に入ってるみたいだったじゃないか。ポール=ロナルド・イアン・ネイサン=カルダー・エッカート……どう、正解?」

 ポールは不愉快そうに鼻を鳴らした。ワタルは「俺もいい加減覚えてきたな」と軽く笑った。

 「とにかく、俺たちは半分存在しない」

 「そうですか、そうですか。じゃあここはどこだよ?」

 「あえていうなら、カミサマの頭ん中だろうな」

 「ずいぶん居心地がいいことで」

 ポールはワタルの口調から真意を測れなかったが、記録しているこちらもおなじである。


 「大事な話をするぞ」


 ワタルはすべて投げ出したくなった。「ああ。どうぞ」

 「お前は、死ぬ」

 体の芯から、衝撃が全身に広がっていくようだった。「は?」

 「そう書いてあったんだ、設計図に」

 「本当に、本当にこの世界がフィクション作り話だっていうのか?」

 「創造神からしてみれば、一つの世界の誕生から壊滅までも一つの物語に過ぎないかもしれないが、そんな創造神の設計図がこんなに薄い本のはずがない」ポールは改めて本を揺らした。「だったらまだ、ここがカミサマの頭の中だっていう方が納得できるだろ」

 「納得はできないけど」

 「じゃあこの設計図に注目してみろよ」

 ワタルはポールが持つ本を見つめたが、「別に見なくていい」と声が返ってきた。

 「これが実際に創造神の設計図だとしたら、ここにあるのはおかしくないか? なんだって俺の枕元に現れた?」

 「枕元に置いてあったのか、それ」

 「いってなかったっけ」というポール、ワタルは「うん」とだけ返した。

 「でもそれも、ここがの頭ん中だっていうなら、あり得ない話じゃない」

 「なんで?」

 「本物の創造神が俺の枕元に設計図を置く可能性は、どんなにまじめに考えてまったくのゼロではないっていったって、結局はゼロみたいなものだ。でもカミサマの頭の中に、俺とお前と、俺らに関係する人しかいないとすれば、ものすごい数の人がいる中でたった一人っていうよりも確率は高くなる。だって何人かのうち一人なんだから」

 「でもなんでカミサマはこの世界に設計図を放り込んだんだ?」

 「別に放り込んだってわけでもないんだろう。俺たちとこの設計図の距離があまりに近いんだよ、結局はカミサマの頭の中っていうおなじ空間に存在してるわけだから。それでたまたま俺が見つけちまったってわけだ」

 「枕元にあるのをな?」

 「まあたしかに、なんか気持ち悪いけどな」ポールは苦笑して本の表と裏とを見た。「まだ道端に落ちてたとかいう方がいい」


 ワタルは伸びをしようとして、繃帯の中で全身の皮膚が突っ張る感じがして諦めた。


 「で、じゃあ結局、俺は死ぬわけ?」

 「カミサマはそうするつもりらしい」

 「なんでこんなに嫌われてるわけ?」

 「真実は神のみぞ知るとかってやつ」

 ポールはワタルの報酬のそばに本を置いた。

 「そうだ、ワタルお前、異人って呼ばれてるんだって?」

 「え? ああ、うん。どこで聞いたの」

 「もうちょっと興味持てよ、お前自身のことだろうに」

 「どうせで死ぬらしいし」

 「こういうときこそ、悪運凶運どんとこいっていっとけよ」

 ワタルは苦笑した。「お前、それずいぶんいじるな」

 「いじってない」対してポールは大まじめである。「正直にいい言葉だと思ってるんだよ」

 「そんじゃくれてやるよ、使えそうなときに使え」

 「で、お前が異人って呼ばれてる理由だけど、お前、別の世界からきたんだって?」

 「なんだよそれ、ここで生まれ育ったんだけど」

 「とにかく、みんなそう思ってるんだってよ」

 「ていうか、ここがフィクションの世界だとしてさ、別の世界からきたやつなんか、どうするつもりなんだろうな」

 ポールはなにもいえずに本を手に取った。表紙を開き、ページをめくる。

 「ていうかこの『無題』っての、まだ話の展開も確定じゃないんじゃねえの」

 「どうだろうねえ」

 「まあ、その、お前は魔物に襲われてって書いてあるから、気をつけろよ」

 「そうするよ」

 ポールは本の記録内容にくまなく目を通したが、新しい情報は、先ほどに見たワタルの死が明記されていることだけで、なんのヒントも得られなかった。

 「干渉を受けてる間の自分には反吐が出るっていったけどさ、お前が無事でよかったっていうのは、今の俺も思ってる」

 「そりゃあ、厄介なことに巻き込もうとしてるからな」

 「うるせえよ」

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