第038話 シンワダチ潜入
◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆
シンワダチ株式会社は、2070年創業のハードウェア・ソフトウェア開発会社である。しかし、その事業に注力するようになったのはリングフォンの開発に成功した2100年ごろであり、もともとは医療事業が発祥である。リングフォンからシンワダチのことをよく知ることになった世間からは、かなり若い企業と見られている。
創業者の新轍ナガエは商才あふれる女性医師であり、投資で得た資産を元手に買収を繰り返し、複数の大規模な病院を有する医療法人を打ち立てた。ナガエは医療事業にとどまらず、超高効率リチウムイオンバッテリーや生体センシングデバイスの開発生産といった医療機器関連事業にも手を出して成功を収めた。他にも、エンターテインメント事業など、医療に関わらない領域にもその勢力圏を広めていった。ナガエは、当時観光事業のみで食いつないでいたトスタ市において、その医療・工業分野を発展させるきっかけを作った俊傑であった。
ナガエは2095年に急逝し、シンワダチ株式会社は絶対的指導者を失ってしまった。大慌てで取締役会と株主総会を経て選定された外様の新任代表取締役社長のダイヤ=ディア氏は、医療を始め複数の幅広い領域を、難しい規制を理解しながら事業として成り立たせる能力を持ち合わせていなかった。シンワダチは複数の事業を身売りしてこのまま空中分解するだろうと機関投資家には評されていた。
ナガエには、4人の子がいた。上から、男のクサビ、女のタヅナ、男のクツワ、男のゴウという。4人とも親のコネを利用してシンワダチ株式会社に入社したというのは、周囲の社員にとって公然の秘密であった。
4人はそれぞれ異なる事業部で要職を務めていたが、生前からのナガエの方針で経営には携わっていなかった。ナガエの亡き後に悪化していく業績に有効策を打てずに手をこまねいていたダイヤ経営陣は、急遽その4人を役員に登用した。それは実力を評価したわけではなく、責任を分散し、可能であればナガエの子らにすべて負わせるためであった。新轍の姓をもつ人物を役員に登用したことは、家族経営と揶揄されて投資家らの批判をさらに浴びることになった。
故ナガエの長男、新轍クサビは特に社内の人物から軽んじられていた。しかし、そもそもナガエがこれまでのシンワダチ株式会社の方針とは逸脱する医療機器分野までに手を出したのは、長男クサビの存在が大きかった。名門のトスタ大学医学部医学科で市井の医師ではなく研究医となるべく勉学を修めていたクサビは、無愛想で人から好まれにくい性質であったが、工学の分野において母のナガエを超える専門性を備えていた。クサビの手腕で医療機器開発を無視できない事業規模まで発展できたのである。
クサビは悪意や敵意が渦巻く社内に心底辟易としていた。愛する自身の母が亡くなった諦観も起因して、真面目に仕事に向き合うことはなかった。ただ、ナガエから受け継いだ有能さは間違いなく、斜陽になっていたシンワダチ株式会社を生きながらえさせるだけの采配を発揮した。
その功績もあって、2100年にクサビは代表取締役社長となった。家族経営と揶揄された状況はすっかり落ち着き、絶対的指導者の血を濃く引く存在に社内外の関係者は色めき立った。しかし、2年間はシンワダチの成長曲線は横ばいが続き、盛り上がりはすぐに消沈した。
2102年の末頃、周囲の人の証言によると「クサビ社長は人が変わったように精力的になった」と評されるようになった。2100年に発見された重位相化を応用した高性能バッテリーを利用して、自社が開発生産していた生体センシングデバイスの知見と融合させることで、指輪型のスマートデバイスを開発することに社運をかけたのだ。はじめはその提案に懐疑的であった経営層や株主も、クサビの狂気的とも言える確信めいた言動に揺れ動かされて、クサビの考案した製品の実現に邁進した。ナガエとクサビの双方をよく知る古参の社員は「若い頃のナガエ様がクサビ様に憑依したかと思った」ともいう言を残している。
クサビの決断は正解であった。重位相化を発見した科学者コルネウス=ホイールが講演の中で開発中のシンワダチの製品を応用例に挙げたことが起爆剤となり、指輪型スマートデバイスのリングフォンは世界中でのメガヒットとなった。
そして現在、2120年においては全世界の成人の99%がそのデバイスを装着するまで浸透している。他社も同様のデバイスを発売しているが、先駆者であるシンワダチ株式会社がシェアの70%を占めている。この成功を受けて、シンワダチ社の内情をよく知る者たちはクサビのことを「シンワダチの怪物」と呼称し始めた。
シンワダチの怪物ことクサビは、2115年に会長職へと就任し、代表取締役社長の座は年の離れた次男のクツワへと譲った。ナガエが後任を育てないまま亡くなったことを教訓にして、次代の経営者を育てるための英断であったと言われている。
リングフォンの稼ぎを多大に投入して、トスタ市北部の学研地区に建築されたシンワダチ先進研究センターは、この国の工学系の最先端の知見が凝縮されていると言われている。センター長の新轍タヅナは工学博士を有する熟練の技術者であり、リングフォンの軽量化とモーションセンサーの性能向上に実務で貢献した立役者である。彼女は、現社長のクツワとは双子の関係にある。
◆ ◆
2120年8月30日、金曜日。
シンワダチ先進研究センターの1階受付を通過した5人の男女がいた。
カワヒサ市長とその秘書リィン。そして、何でも屋一行のセロ、ティオ、レティナ。
カワヒサ市長と秘書は、シンワダチの新研究拠点の開発を含む、次世代の用地活用戦略についてのキックオフミーティングに参加するためにここを訪れている。シンワダチ社やトスタ市だけでなく、トスタ市に本拠地を置く多様な企業の首脳陣が集っている。トスタ市の代表企業であるシンワダチの保有するビルが開催場所となったのは、ごく自然なことであった。
一方で、何でも屋一行の3人は、トスタ市の市職員を装ってここに参加している。カワヒサ市長が別件で用意しておいた「市政に関する内密のご相談」という名目で、センター長のタヅナとの会談が用意されており、そこに何でも屋は参加する予定である。
1階の開けたロビーの片隅で、5人は集まって相談していた。カワヒサ市長が口を開く。
「何でも屋の皆さま。秘書のリィンが確認したところによると、例のシンワダチの怪物ことクサビ様は、社長のクツワ様とともにキックオフ会議へ参加するようです。タヅナ様はフリーとなりますので、作戦通りですな。しかし、タヅナ様も大企業の研究開発のトップを担う傑物です。信頼しておりますが、どうか不義理なさいませんよう」
「カワヒサ市長。あなたのご尽力がなければここまでの場は用意できませんでした。ご忠告も含め、改めて感謝を申し上げます」
セロをはじめ、ティオとレティナも深々と頭を下げた。
カワヒサ市長は秘書リィンを後ろに下げて、セロたちに近寄って小声で呟いた。
「皆さまは例の誘拐犯のように不思議な力を使うことができるんでしょう? くれぐれも危ないことは避けてくださいな」
「市長、ご安心ください。絶対に不審に思われないようにしますし、何かが起こっても市長との関与は漏らしません」
セロは胸を張って力強く答えた。
理由は不明ながら、《
カワヒサ市長が《
「それでは、私たちの方は時間になりましたな。いろいろご準備あるとは思いますが、お手隙ならば皆さまはお時間まで1階の展示コーナーでもご覧になってはいかがでしょう」
カワヒサ市長はそう言い残して秘書リィンとともにエレベータホールへと向かい、キックオフミーティングが開催される階へと昇っていった。
「受付でリングフォンに配られた電子のセキュリティトークンによって、エレベータに乗れる時間と行き先の階層が決まっているんですね。事前の調査でも分かってはいましたけれど、相当厳重な警備体制ですね」
「タヅナ役員のいる階に行くには、まだ30分程度待つ必要があるな」
タヅナ役員との約束の時間までに猶予があるので、何でも屋一行はカワヒサ市長に提案された通りセンター1階に常設されている展示ホールに足を踏み入れた。展示ホールには、シンワダチが過去に開発したデバイス製品が解説とともに展示されており、歴代社長の肖像画とともに社史が示されている。
初代社長は新轍ナガエ、次代はダイヤ=ディア、3代目が新轍クサビ、そして現社長の新轍クツワと並んでいる。外様の社長であったダイヤの肖像画の下に刻まれている社史は、両端のナガエとクサビの文量と比べると、その余白から物悲しさを感じられる。
レティナは、ホール中央に鎮座している一際大きな円筒状の装置に注目していた。直径は3メートル、高さ4メートル程度はある。備えられた曲面のガラスから覗くことのできる内部には、成人が1人収まった状態で自由に寝転んで手足を動き回せる程度の空間が確保されている。
「あれ、ティオくん。これ何か分かる? 小型の宇宙船みたいな」
「数年前にシンワダチが発売したVRポッドの改良版だねー。足元の360度フットコントローラで歩いたり走ったりする移動入力をアバターに送れるし、周囲から吹き出す緻密にコントロールされた風圧で触覚をプレイヤーにフィードバックする機能もあるよ。何十年も前からこういう大型VRデバイスはあったけど、このVRポッドはしゃがんだり寝転んだりする動作も正確に検知できるからスゴいんだよね。これを使って軍事的な訓練をするところもあるらしいよ」
「へぇー、めちゃくちゃ高そう」
デバイス方面には詳しくないレティナは、呆けてティオの解説を聞き入っていた。
「1台あたり億は超えると聞いたことがあるな。ただ、シンワダチエンタメがトスタ市のいくつかの施設で娯楽用途に開放しているはずだ。トスタ大学にもあるんじゃないか?」
「ああ、そういえば工学部棟にも学生の研究用途として予約すれば体験できる施設があるって聞いたことあります」
子会社のシンワダチエンターテインメントは事業者向けのVRデバイスを発売していて、レティナたちが見上げているこの機器が最新鋭のものである。医療関連で得た生体センサリング、そしてリングフォン開発で得たモーションセンサー、360度の空間投影ディスプレイの知見を投入し、業界でも最高峰の性能を実現している。
その他にも各世代のリングフォンなどが展示されており、技術の進化を眺めながら何でも屋一行は時間を潰していた。
「さて、もう時間だな。レティナ、上に向かうぞ。ティオの方は準備進めておいてくれ」
「師匠、了解です。僕も一緒に行きたかったなぁ」
「ティオ君はもうちょっと大人びてからだね」
セロとレティナはエレベータホールの方へ、ティオはシンワダチ先進研究センタービルの外へと向かって行った。
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
非接触式のリングフォンリーダーに、私のリングフォンをかざした。ピッという電子音とともにエレベータホールへの自動ドアが開く。そのあとに続いて、セロさんも入場してきた。
先ほど受付ではワンタイムの電子セキュリティトークンがリングフォンに付与された。これによって、誰がどこに入場したのかを正確に管理している。
私たち2人がホール中央まで歩いていくと、首をわずかに上方に向けた宙空に空間投影ディスプレイが現れて、扉の開いた1機のエレベータへの案内表示が示された。セキュリティ電子キーによって行き先は固定されているため、リーダーのキーを通した時点でエレベータが準備されるシステムだ。エレベータ内でも搭乗者全員の認証が必要なので、外部の人間は要件のない階層に行くことはできない。事前に透視して調査したところ、シンワダチの役員であっても行くことのできない階層があるようだ。
これから私たちが登っていく階層は特に厳重だ。28階は部所長や役員クラスの人物がメインで活用する会議室が並んでおり、予約のない一般社員や外部の者は行くことができない。
私とセロさんがエレベータに乗り込み、壁に設置されたリーダーに手をかざすとエレベータが動き出した。
「レティナ、タヅナ側の状況はどうだ?」
「28階の会議室に、ボディガードと一緒に待機していますね。こちらの参加者2人で指定していたはずなんですが、随分と荘厳な部屋を用意してくださっているみたいです」
学校にある25メートルプールをそのまま置くことができるような広い空間に、ぽつんと応接用のソファとデスクが配置されている。もともとは何十人もの人間が講義室形式で座ることが意図されていそうな空間だ。入ってから右側面に採光用の広い窓が並んでおり、トスタ北区の眺望を視界いっぱいに収めることができる開放感あふれる設計だ。
そこに、今回のターゲットである新轍タヅナが座っている。
情報によると、タヅナ役員は現在52歳。紫色に染め上げた髪を頭頂部で結い上げており、化粧による白い肌と艶やかな臙脂色のフォーマルドレスが合わさると、かなり若く見える。ただ、手のシワの感じを見ると年齢相応の年季が刻まれていることがよく分かる。
また、会議室の装置をコントロールするためのバックヤードのPA室に、ボディガードらしき人物が待機している。
「ボディガード? 秘書ではなく?」
「そうですね、明らかにカタギの人物ではないように見えます。銃器は持っておらず、特に武装はしていませんね。作務衣を着た筋骨たくましい男です。会議室のバックヤードにいるので、会議に参加する雰囲気ではなさそうです」
「作務衣……か」
音もなく上昇するエレベータの中で、セロさんは口元に手を当てて考えこんでいる。
今回は計画を練る時間が十分にあった。例のシンワダチの怪物が会議に同席する可能性、相手が逃亡する可能性など、なるべく不測の事態にも対応できるような計画を練っている。ボディガードがターゲットを警護しているパターンも、当然に予測していた。
「レティナ。クサビという会長が《
「分かっています。そもそも、タヅナ役員が知ってか知らずかブランチにいる能力者に脅迫の代行を依頼していたんですからね。警戒は最大級で行きます」
ボディガードがいるということは、市職員として接する私たちのことをも完全に信頼していないということだ。いきなり核心を突く話題を提示するのではなく、まずは温和に会話を進めたい。
28階に到着し、そのフロアに足を踏み入れると、案内用の人型ロボットが待機していた。人型といっても上半身だけで、下半身は寸胴型でタイヤによって移動するタイプだ。段差が想定されていない場所で動かすロボットで、色んな施設でよく見る。
そのロボットに案内されて、目的の会議室の扉の前にたどり着いた。ロボットが自然な女性の合成音声で「タヅナ様。トスタ市役所渉外課のタナカ様とサトウ様がお目見えです。入室を許可される場合は、リングフォンで承認してください」と発した。すぐに扉は自動で開いた。
「失礼いたします」
「あら、どうぞ。足が悪いので座ったままで失礼」
ソファに腰掛けたまま、タヅナ役員は尊大な態度で私たちを出迎えた。メディア等でごくたまにタヅナ役員は顔を出すことがあり、そこから得られた情報を総合すると気が強くさっぱりとした性格だと読み取っていた。実際に対面してみても、そのままの感想を抱いた。
「トスタ市渉外課の課長、タナカと申します」とセロさん恭しく挨拶をした。
「同じくトスタ市渉外課の課長代理、サトウと申します」と私も続く。
今回も偽名で私たちはターゲットに接することとした。カワヒサ市長と同行してきた渉外課の市職員として入り込んでいるので、疑われる可能性は限りなく低いだろう。
「どうぞ、そちらに座ってくださいな」
タヅナ役員の手招きに応じて、私たちは広い会議室の空間を歩いてソファの近くに寄り、そこに座った。
ティオ君にこの場を離れてもらったのは、企業の役員と市職員との内密な会議という場に、あまりに幼すぎる外見のティオ君は不似合いだろうと思われたからだ。その代わり、ティオ君には別件で動いてもらっている。
私が主にタヅナ役員との交渉を進める立場であるので、喉の調子を整えるために軽く咳払いをした。
「市政に関する内密な話ということでしたが、どういうお話でしょう?」
タヅナ役員は、胸を反った威圧的な態度を崩さずにいる。ただ座っているだけでもここまで存在感を示せることに、この人のリーダーとしての実力を感じさせられる。私はあまり人を見る目が無い方だけれど、カワヒサ市長が言っていたオーラというものがなんとなく伝わってきた。
例のシンワダチの怪物という新轍クサビ会長はもっとスゴいに違いない。別階で行われているキックオフ会議を透視すればその姿を確認できるかもしれない。けれど、今は眼の前に集中する。
「サトウ君。頼みます」とセロさんが私を促す。
「タヅナ様。私、サトウより説明させていただきます。現在、市議会ではトスタランドの用地を御社の新研究拠点として利用する特例を可決する見込みです。しかしながら、カワヒサ市長が市長権限による動議を発動させて、今期中の可決を順延させる計画であることを役所内で確認いたしました。役所としては、動議の際に合理的な理由を付して議事録に残さなければなりません。しかしながら、なぜかカワヒサ市長はその理由の提示に拒否されているのです。市長には珍しく、その辺りの細事を我々に丸投げされており、職員一同混乱しているのが実情です。そこで、御社の中でも唯一の開発反対派であったタヅナ様にご指導ご鞭撻いただきたく参じました」
市長の特別な権限として、市議会進行中に提出された条例案に対する追加の審議時間を得ることができ、それを動議と言うらしい。市長は動議の発動に当たって、動議に至った理由を関係者間の議事録とともに議長に提出する必要がある。
もちろん、そんな動議を市長は出していない。
脅迫を実行していたブランチのロイジを、セロさんが私財を投じて買収した。そして、「無事に工作は完了し、カワヒサ市長は新研究拠点の開発停止に向けて動いている。まずは動議によって可決を順延させる見込みである」と依頼主のタヅナ役員に偽の報告をしてもらった。
今回の作戦は、市長を意のままに操れていると思い込んでいるタヅナ役員から情報を引き出そうとするものだ。市長が動議を出して市議会を止めているというストーリーに基づいて私は話を進めていくのだ。
タヅナ役員はわずかに口角を上げた。
「渉外課の方もなかなか聡いわね。今、用地戦略会議でウチのお偉いどころは出払っているでしょう。その隙をついて、議事録のための適した理由を密かに考えておこうっていう算段ね」
タヅナ役員は上手く私たちの作戦にハマってくれた。期待通りの返答をしてくれる。
「お役所仕事も大変ねぇ。カワヒサ君も利口なんだから、良いように部下に指示してあげればいいのに。……いや、もしものときの道連れを狙っているのかしら」
タヅナ役員は聞かれないようにぽつりと呟いた最後の言葉だけど、唇の動きから何を言っているのか読み取ることが出来た。真実を知らないとはいえ、やはり超大企業のシンワダチの役員。脅迫をした真犯人であるタヅナ役員に対しても責任を取らせることを目的に、新研究拠点開発反対の理由に関わらせたという事実を作らせるために渉外課の人間を送り込んだのではないかと考えたようだ。それが「道連れ」の意だろう。
「そうですわね。初期の反対案の1つに、観光のために整備された西区の街道に無骨な研究所が建つことに嫌悪感が生じるということが挙がっていたでしょう。そのため、反対派からは建築物の外観を環境に適合させる景観条例を先に通してから議論するべきだという反駁があったはずです。ただ、特例で認可する一回限りの研究所の設置であり、十分に景観に配慮したデザインで設計することを覚書に含めることで、施行まで時間のかかる景観条例までは不要と判断されました。その議論を再び持ち起こせばいかがでしょうか」
一番提案して欲しい理由の案を挙げてくれた。カワヒサ市長によると、実際にそういう反対の声が挙がっていたらしい。
「それはいいですね。反対派の意見として、公的な市が一企業だけを優先することは好ましくない、というのも利用できそうです。つまり、企業の競争の公平性を保つために、まずは景観条例を通す必要があると主張します。それに基づいて、カワヒサ市長は動議を出されるという流れです。確かに、これならば筋が通りますね」
こちらで用意していた企業間の競争公平性の観点での理由も合わせて、タヅナ役員の提案に賛同する。これで、お互いが歩み寄って合意したという演出ができるはず。
「あらあら、すぐに結論が出たじゃない。これで新研究拠点の建設は遅らせることができるわね。完全に計画を停止する策も考える必要がございますが……」
にっこりと白い歯を見せた笑顔を見せてくれた。私たちへの警戒心はいくらか解けているかもしれない。体温や心拍数からも、安心している様子が見れ取れる。
セロさんは握った手の内で簡易な指信号を示し、計画していたどの話を進めるかを指示してくれている。このタイミングで、本題へと徐々に移っていこう、と指示があっただ。
「タヅナ様、せっかくの機会ですので追加でご相談させてください。我々は別件で市長の本心を確認したいと考えております。動議を出す計画が役所内で内々に連絡されたとき、市長は御社が過去に運営されていたシンワダチ病院について調査しておりました」
シンワダチ病院の単語を私が口にした瞬間、タヅナ役員の心拍数が急上昇した。表情には現れていないものの、やはり何かを知っている。
「十数年ほど前に御社が医療事業から撤退する前に運営されていたシンワダチ病院は、タヅナ様が病院長であったと聞いております。その関係性もあって、今回タヅナ様とご面談させていただく機会を設けさせていただきました。カワヒサ市長が調べていたことについて、何か思い当たる点はございませんでしょうか?」
ここまで突き詰めると、さすがのタヅナ役員でも表情を崩した。
「……カワヒサ君が私たちの病院を? まさか、そんなわけは」
「何か、ご存知なのですね?」
隣に座っているセロさんが畳み掛けてくれる。ここで圧のある課長役の男性の低い声で追求されると心理的に効くだろう。
「いえ、気になさらないで。確かに私は院長を務めていましたが、過去のことですわ。新研究拠点の件とは関係ないでしょう」
タヅナ役員は、ふと表情を戻し、ソファの背もたれに背中を預けてそう言った。うーん、やっぱり手強いな。ここからはセロさんに任せるとしよう。
リングフォンのタップ通信で、セロさんに話を進めてもらうように伝えた。
「……失礼ながら、タヅナ様はなぜ新研究拠点の建設には反対なのでしょうか? 研究開発のトップであらせられるタヅナ様が反対であるにも関わらずクツワ社長が率先して建設が進められようとしているところに、何らかの背景を感じられますが」
「そうね、内輪揉めのように理解していただければよいです。詳細は市の方にお話しするようなことではございません」
無理筋で隠そうとしていることは明らかだ。これは、核心に迫るような情報を提示しない限りは言葉を引き出せないだろう。
私はカバンから例の捏造写真のコピーを取り出して、セロさんに手渡す。それをセロさんは、丁寧にデスクの上に置き、タヅナ役員へと見せた。
「内輪揉め、ですか。しかし、内輪揉めで市政に干渉するようなことをされると困ります」
「……っ⁉ なぜその写真を渉外課の方が?」
素人でも分かるほどの典型的な驚きの表情。そして、これまでにない心拍数の増大。
数パーセントくらいの可能性でタヅナ役員ではなく別の人間が脅迫に関わっているのではないかと訝しんでいたけれど、これで確信に変わった。あの脅迫は、タヅナ役員が主導していた。
セロさんは冷徹に言葉を重ねていく。
「やはり、この写真についてご存知なのですね。市長が無理筋の動議を出すまでに至ったのはこの写真による脅迫が原因であると推察されました。そして、この写真に写っている市長は特殊メイクによる偽物であり、この工作を依頼したのがタヅナ様であることも突き止めました。どうしてこのように脅迫までして建設に反対するのか、これでもご教示いただけないのでしょうか」
タヅナ役員は苦虫を噛みしめた表情を見せている。両手を強く握りしめ、長い付け爪が手のひらに食い込んでいる。ここまで固辞する理由があるのだろうか。
タヅナ役員が軽く腰を浮かしてソファに座り直したかと思うと、険しそうな表情は数秒で解消され、先ほどまでと同様の尊大な態度へと戻った。
「ふう。なによ、あの人達、工作は恙無く完了しましたとかいっておいて、ぜんぶバレているじゃない」
「お認めになるのですね?」
いや、尊大な態度というよりは、何かのストレスから解放されたような安心感が見て取れる。開発を止めたかった理由は、タヅナ役員ではなく、もっと上位からのプレッシャーがあったように思える。
タヅナ役員は年相応の優しい妙齢の女性が見せる温和な雰囲気を醸し出しつつ、軽く握った手の甲を机に2回、コンコンと叩いた。
「……お兄様、本当にイヤらしい人ね。気持ち悪いほどに」
「タヅナ様、何を……?」
透視して周囲を警戒していた私の眼に、バックヤードにいたボディガードが動き出すのが映る。
「ボディガード配置しておけって、何のことかと思ったけれど、まさか市役所の連中がこんなに頭が回るだなんてねぇ。申し訳ないですが、お二人は返すわけにはいかなくなりましたわ」
屈強そうなボディガードがいる時点で、この計画へと進む可能性は非常に高いとは思っていたけれど、まさかこうなってしまうとは。
(セロさん、武力行使、来ます)
(オーケー。俺が制圧する)
タップ通信でセロさんと会話する。
奥のPA室で待機していたボディガードが、タヅナ役員の合図に反応して扉を開けて私たちのいる会議室へと入ってきた。会議室が広いので、PA室の出入口から10メートルは距離がある。警戒して、セロさんと私はソファから立ち上がった。
「タヅナさんよ、待機時間が長過ぎるぜ」
青みがかった薄手の作務衣を着た男だ。身長は185センチで、セロさんよりも少し小さい。筋骨も十分に鍛えられているように見えるが、セロさんほどは肥大していない。ティオ君よりも明るい灰色の短い髪とヒゲが、オスライオンの鬣のように顔の周囲を覆っている。顔つきは若々しいけれど、肌や体内の臓器の状態を観察する限り40代後半くらいに見える。
タヅナ役員のことを座っているだけでもオーラのある人物だと評していたけれど、この男は異なるベクトルでおかしい。オーラそのものが人の貌を成している。
《
この男は、強い。
「あんたは……っ!」
横から、聞き慣れない声の上擦りが耳に入ってきた。セロさんの声……?
私の数メートル前にセロさんは足を踏み出し、男と私を守るように間に立ちはだかってくれた。セロさんはすでに両手の指先から数センチの刀を出し、顔面以外の体表に薄い鋼鉄の鎧をまとわせている。これまでに見たことがない、セロさんが展開できる最大級の迎撃姿勢だろうか。
「レティナ。あの男に、絶対に! 絶対に……手を出すなよ」
そう私に忠告するセロさんは、鎧の下で全身から汗を吹き出している。
セロさんがこれほど狼狽し戦意を喪失しかける、この作務衣を着たボディガード。その存在に、私は心当たりがある。
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