第026話 暗号化

◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆


 作業着に身を包んだレティナは、機械室から身動きできないままであった。

 機械室の出口には、ナイフを構えた女、ジュニパーが立ちはだかっているからだ。ジュニパーは、開いた扉に左手を添えて少しばかりそこに体重を預けており、右手に握ったナイフの刃先をレティナに向けている。その握りは安定しており、ナイフの扱いに長けていることを感じさせる。


 レティナは、ジュニパーからできるだけ離れるため扉から最も遠い壁を背にしてしゃがんでいた。その眼はジュニパーを捉えて警戒している。

 床パネルが持ち上げられた場所に大きく開いた穴から光が上方に差し込んでいる。下の階から激しい金属音が鳴り響く中、2人は光の柱を挟んで会話を続けていた。


「あの小さい子、随分と逃げ回るのね。カルダモ様も手を焼いているのかしら」


 レティナは、ジュニパーに対して格闘では敵わないと本能的に認めていた。先日のクローブほどナイフさばきが巧みというわけではないだろうが、ジュニパーはレティナの姿を明確に捉えており、そこに油断はほとんど感じられない。すでに最大級に警戒されている状況で、クローブのときのように不意をつくことはできない。

 階下ではカルダモが凄まじい勢いでティオを目がけてバーベルウェイトを投げており、そちらに降りて逃げることはレティナにはより危険なことであった。


 ジュニパーにとって、レティナを拘束してセロ=ミデンに対する人質とする作戦はすでにほぼ完遂している状態であった。後は下の5階に落ちたティオがカルダモに捕縛されるのを待つだけだ。そのため、ジュニパーは無理をしてレティナを拘束することなく、この睨み合いの状態が続いていた。


「ジュニパーさん、あなたは下に加勢しに行かなくていいの?」

「カルダモ様に助力など、必要ございませんわ」


 レティナは透視によってカルダモの異常な膂力を視ている。たしかに、カルダモが本気で殺しにかかればティオの敗着の目が大きくなる。セロであってもいくらか手を焼くかもしれない。人質とするためにカルダモが手を抜いているからこそ、ティオは逃げられている。


「何でも屋と言えば、これまで色々と我々の組織に手を出してきたようですけれども、どなたからの依頼でこの施設まで忍び込む運びとなったのでしょうか?」

「……それを答えたら解放してくれるの?」

「それだけじゃダメね。あなたたちの頭であるセロ=ミデン、その男を捕らえるために人質として十全に協力してくれるなら命だけは残してあげましょう」


 レティナは下を向いて数秒考えた。


「いくつかは情報を渡すよ。今回の潜入は、私の上司のセロさんが発案したことなの。詳しいことはセロさんに聞いて」


 ジュニパーという女が実質的にこの一帯のガラム組織の人的リソースを管理していることをレティナは知っている。ジュニパーの人物観察眼が鋭いと判断したレティナは、回答に下手な嘘は交えることは得策ではないと判断した。レティナ自身がこの潜入を計画した主たる人物であるが、セロが発案に関わっていたというのは間違っていない。


「……何か隠しているようだけど、嘘は言っていなさそうね。カルダモ様の尋問を受ける前に、なるべく口を割っておくことをおすすめしますわよ。とっても刺激的ですから」


 レティナの判断は間違いではなかった。ジュニパーはレティナの発言の真意を的確に読み取っている。


「私は抵抗しないし、人質ということには協力する。聞きたいことは私の上司に尋ねた方が、二度手間にならず効率的だと思う」


 レティナの返答を聞き、ジュニパーは諦めたように首を振ってため息をついた。


「元よりそのつもりですから、まあいいでしょう」

「……よかったらあなたのことを聞かせてくれない? 私の眼からは、あなたはガラムなんていう組織に居るような人材ではないように見えるんだけれど」

「我々の組織を下げているようにも聞こえますが、それはお褒めの言葉ということで受け取ってもいいのかしら? いいでしょう、カルダモ様がお仕事を終えられるまでの暇つぶしとしてお話させていただきましょうか」


 レティナもジュニパーも、階下の戦いが終わるのを待つだけであった。二人はただ言葉を交わすことでその時間を潰そうとしていた。

 ジュニパーにとっては、ガラムの機密となることを漏らすことになる。それでも話そうとするのは、下の階に落ちたティオを確実に捕らえて2人を確実に管理下に置くことができるという自信と、カルダモに対する信頼の表れであった。


◆ ◆ ジュニパーの独白 ◆ ◆


 リングフォンを代表として、近年のセキュリティ技術に採用されている量子重位相暗号化は、我々のような電子戦を生業とする者にとって闇の時代の訪れでした。生体認証以外のアクセスが原理的に不可能となるその暗号化は、日常生活におけるセキュリティはもちろん、軍事の面でも革命をもたらしました。

 かの破壊神の発見が元となって生まれた暗号化技術は、我々の技術、いえ、生き方を破壊したのです。国際平和条約の下で攻撃兵器への暗号化技術の応用が厳格に禁止されることとなり、世界の軍事を防衛方面へと一気に傾けさせました。ああ、そうそう。ここでの攻撃兵器とは、無差別な範囲攻撃が可能な兵器か、大陸間の射程を有する兵器を指すのはご存知のことでしょう。


 戦争の手順が高度にルール化された現代において、軍事利用される兵器はすべて登録制となっております。攻撃転用可能な兵器に量子重位相暗号化技術を採用したことが分かると、軍事企業は暗号化技術の適用権を失います。今の世の中で量子重位相暗号化されてない通信機器は、自在に外部からアクセスして操ってくださいと言うようなものです。数十年前までは小型精密ドローンで局所爆撃することが効果的な近代戦闘であると評されていましたが、それはもう過去のものです。今は、光ファイバーを張った有線ドローンが細々と生き残っている程度でしょうか。

 暗号化技術の使用権に縛られずに隠匿されて開発された兵器や、非通信型の原始的な兵器を除けば、どの国にとっても攻撃兵器を保有するコストは無意味に高くなるばかりでした。セキュリティホールを軍事中枢に抱えることになるのですから。


 革新的な国際的合意によって兵器による攻撃が成り立ちにくい世の中になっても、人類は他者を攻撃し威圧することで自らを守る力を得ることに注力し続けました。この環境において、高い能力を有する武装歩兵が白兵戦で活動することが現代の戦争における攻撃面で有効な策であるとみなされるようになってきました。

 1人の男が発端となった、ただの暗号化という技術が、戦争の形を古めかしく変えてしまったのです。


 あの方、カルダモ様は天に恵まれた神の如き肉体をお持ちのお方。新たな時代の頂点捕食者です。人間兵器とも称されるあの方をサポートすれば、新時代を築ける。

 ガラムという場は、私たちの成り上がりのための土壌です。

 セロ=ミデンを討ち取れば、カルダモ様は主幹に上がるための十分な功績を打ち立てられたと認められるでしょう。あなた方も、我々の糧として利用させていただきます。


◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆


 数十年前まで、量子力学はその処理の複雑さゆえ技術的な発展が停滞していた。量子コンピュータによる圧倒的な計算速度を実現後、新たなブレイクスルーが生まれていなかった。その頃はセキュリティの分野において、RSAやハッシュ関数など計算の困難性を信頼の指標とする暗号は悪意のある攻撃者に次々と攻略され、新しい暗号技術の提唱とその崩壊が繰り返される暗黒時代があったそうだ。

 私の父さんが見つけた原子位相学は後に量子力学と組み合わされ、計算機科学の分野で目覚ましい発展を遂げた。


 重位相化は、素粒子を重ね合わせたりそれを解除したりすることができる。そのとき、素粒子の量子的なふるまいを安定して保存できるという性質がある。コンピュータのメモリ的な役割を物理的な機構だけで実現することができるようになった。

 量子ゆらぎは、観測という物理的な刺激によって確定させることができる。重位相化は、特定の物理的な刺激によって解除することができる。量子力学の専門家たちは、その2つの特性を上手く設計することで、特定の人間が覚醒状態で観測しなければ演算が進まない機構を物理的に組むことを実現させた。これは暗号化の分野で応用され、特定の人物による観測キーを通さなければ原理的に復号化できない仕組みを実現した。


 特定の人物が、意思を持った状態でなければ復号化することができないという絶対的なセキュリティが、ローコストで実現できる。圧縮しなければ数ギガバイトにも及ぶ、リングフォンのセンサーで読み取った経時的な生体情報を複合化のための観測キーとして投げるため、偽装は実質的に不可能である。

 量子重位相暗号化は、人類が開発した最強の暗号化であった。


 逆に、重位相化の支援を受けた最新の量子コンピュータの高度な演算により、既存の通信における暗号化技術は容易に突破されてしまうこととなった。そのため、外部のネットワークに繋がりうるあらゆる電子機器は、量子重位相暗号化が施されることがスタンダートとなっている。


 この新技術に対して、2105年に国連加盟国は攻撃兵器への採用を見送る平和条約を締結することとした。これにより、事実上は侵略戦争が困難な平和な社会が構築されることとなった。2102年に起きたエント国首都への核攻撃が条約締結の契機とはなったらしい。名だたる列強国が自身の軍事力を低減することになる条約を承認したことは驚きと喜びをもって世間に受け入れられた。

 父が行方不明になっていなければ、条約締結の年のノーベル平和賞の受賞者にも名前を連ねていただろうと言われている。


 しかし、人類における戦争は終わっていない。

 兵器の使用が困難なのであれば、人間が動けばいい。そんな安直な考えで白兵戦が採用されることになっているとは初めて知って驚いた。もちろん、白兵戦とはいっても人と人が素手で殴り合うということを意味しているのではなく、これまで通信機器を介して任されていた作業を人間が行うということだろう。


 その流れを受けて、ジュニパーはカルダモと協力してガラムで名を上げようとしているらしい。下の部屋で大暴れしているカルダモの様子を見れば、そんな夢を見てしまうことは仕方ない。ティオ君の氷弾を貫かせない肉体を始め、あの運動能力、尋常ではない。カルダモが本気で戦えば、セロさんでも手を焼きそうだ。

 ティオ君は勘付いているようだけれど、カルダモは私達の《眼の能力》とは体系の異なる異能力者のように見える。おそらく、セロさんの話に出てきたスクレラちゃんと同様のケースで、《眼の能力》とは異なる何らかの影響で身体能力が異常に高まっている。

 つまり、カルダモもジュニパーも情報消失の性質を受ける対象であり、《眼の能力》については知らない状態ということだ。所詮は身体能力が高いことに過ぎない力に対して、物理法則をも塗り替える《眼の能力》という超常的で絶対的な力がある。2人の夢はいずれ非現実的な現実に阻まれることになることだろう。

 こう考えると、どこかの国のどこかの組織では、《眼の能力》を軍事的に利用しようとしている動きもあるのかもしれない。


「ジュニパーさん、あなた現実を知らないのね。腕力が強いくらいで新たな時代をつくるとか、そんなことできるわけないでしょ」

「ふふ、大それたことを申し上げているのは承知しているわ。でも、カルダモ様の力をその目で見れば、そうは言ってられないと思うわ」


 ジュニパーはナイフを握りしめ右腕の二の腕に力こぶを作るポーズを取った。細身のスーツには似合わないポーズだ。

 実際に私は階下の様子を眼で見ているんだけどね。

 そのとき、穴の開いた床からもうもうと白い煙があがってきた。ティオ君がガスボンベのレギュレータを開放したことで下の部屋から昇ってきた催眠ガスだ。それと同時に、ジリリと警報音が辺りを包んだ。


「……⁉ ちょっと、なに? これも計画なの?」


 そう、これはあのサーバに保管していた計画書には書いていなかったことだ。私たちの行動を読み切っていたはずなのに、予想していない事態が発生したためジュニパーは慌てている。


「さてね。計画外のことなんて、日常茶飯事でしょう?」


 警報音に負けないよう、私は大きく返事した。

 焦ったジュニパーは白い煙があがる床の穴を飛び越えて、私に向かってきた。先ほどまで、私を下に見て舐め腐った表情は消え去っている。ダミーの事務所を誤って襲撃した部下から報告を受けたときに見せたものと同じ怒りの表情だ。

 飛びかかってくるジュニパーに押し倒され、私は天井を見上げることとなってしまった。私の腹の上にジュニパーが乗りかかる。腹部が圧迫されて、咳き込んでしまう。


「嘘をついているわね、あなた! 何を考えているの?」

「ぐっ……、やっぱり、嘘を見分けるの上手いんだね」

「質問に答えなさい。この白い催眠ガス、15分吸い続けると昏倒するんでしょう? 早く話さないと、殺すわよ」


 私の胸の中央に、ジュニパーの膝が乗せられ、さらに圧迫される。肋骨全体が私の肺を膨らませないように締め付けてくるように思えた。


「ゴホッ……。ねぇ、ジュニパーさん。あなた、人殺しには慣れてるの?」


 肺に残った少ない空気で、何とか言葉を発した。


「なに、私の良心に訴えるつもり? 安心して。直接手にかけるのはあなたで6人目よ。このまま話さないなら、苦しみながらこのナイフを受け入れることになるわよ」

「……そう。じゃあ何も話すことはないね」


 私は口を横一文字に閉じた。その様子から私の黙秘の覚悟を読み取ったジュニパーは、私からは聞き出せることはないと判断し、私の首元にナイフを滑らせようとした。

 その瞬間、爆音が鳴り響いた。

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