第025話 怪力
◆ ◆ ティオ視点 ◆ ◆
8メートルほど先で、カルダモはトレーニング用のベンチにゆったりと腰掛けた。僕という敵と対峙しているのを感じさせず、その動作に緊張感は感じられなかった。
その目は僕の姿を常に捉えているが、手元は床に置かれた何か黒い物を探っている。その黒い物をひょいと持ち上げて、腕と腹の中に隠すように抱えた。
カルダモは低い姿勢のままベンチから腰を下ろし、僕に向けて右肩を前に突き出すように縮こまった。逞しい広背筋と右上腕で隠されて、抱え持った黒い物が見えない。何か力を込めているようだ。
その様から熱気と圧迫感が感じられ、夏場のアスファルトから立ち上る陽炎のように上半身がゆらめいて動いているように錯覚した。
カルダモが凄まじい速度で腕を広げると同時に、僕の背後に激しくガギィンと金属音が鳴り響く。
背後をチラとみると、胸筋周りを鍛えるために座りながら胸の前で腕を閉じたり開いたりするマシンがあった。その筐体を支える鉄製のポールをへし曲げるように黒い円盤が刺さっていた。これは、バーベル用のウェイトだ。
ウェイトには20という数字が書かれている。これ1枚で20キログラムということか。
へし折れたポールに挟まって支えられていたウェイトは、重力に引っ張られて床に鈍い音を立てて落ちていった。床のタイルカーペットに円形の跡を残しながらコマのようにウェイトがぐわんぐわんと回って、最後には床に倒れた。
バーベル用の円盤型のウェイトを、フリスビーのように軽く放って投げたのか。
こんなものが命中したら骨折で済めばマシなほうだ。
カルダモは別のウェイトをひょいと拾い上げ、僕の方へとまた投げつけてくる。慌てて横跳びして、別のトレーニングマシンの陰にかくれた。
1つ、2つ、3つ……、轟音を鳴り響かせて黒い円盤が短い間隙にいくつも飛翔する。中学生の頃にアイスホッケー部に入っていたが、そこで経験したどんなシュートよりも速い。この部屋に身を隠すスペースがなかったら避け切るのは至難だっただろう。
「んんー、足ぐらいに当てようと思ったんだが、コントロール良くねぇなぁ。頭とか胴体に当てると死んじまうから、直接締め上げるか」
カルダモは投擲をやめて立ち上がり、肩を怠そうに揉みほぐしながら僕の方へ歩いてくる。僕は隠れている場所から離れて、距離を取ろうとした。
カルダモが腰を落としたと僕が認識した瞬間、一気に僕の方へと飛び込んできた。トップアスリートスプリンターのスタートダッシュを優に超えるスピードだ。このまま100メートルを駆け抜けたら、きっと5秒もかからないと思わせる勢いだ。奴が先程まで立っていた場所の床面ユニットがひしゃげている。もっと足場の硬い環境であれば更に速いのだろう。
そのダッシュをほとんど反射で横跳びして逃げ、別のトレーニングマシンの陰に入り込もうとした。しかし、後ろに残された僕のカツラの長髪をカルダモに掴まれてしまう。
「ぐっ!」
脱げ落ちないように固定していたので、カツラをカルダモに引き剥がされるときに首を少し引っ張られてしまった。これが自毛だったら首の骨ごと持っていかれていたかもしれない。
そのままバックステップで3回ほど跳ねて、僕はカルダモから距離をとった。
「なんだ、この髪、カツラかよ。テメェ、男か……?」
「……はん、男で悪いかよ」
「ははは! 別にどうでもいいぜ。か弱いガキには変わりはねぇ」
ふうん、なるほど。
汗のかいた右腕の皮膚にカツラの毛が貼り付いて、カルダモは煩わしそうにそれを剥がし床にポイと捨てる。その間に、僕はさらにバックステップで距離を取る。先ほどと同じように八メートル程度は距離を空けておかないと奴の猛ダッシュ避けきれずに確実に掴まれてしまう。当然、隅に追い詰められないようにしないといけない。
カルダモがにじり寄ってくるのに合わせて僕が後ずさっているうちに、初期位置がちょうど入れ替わった。つまり、天井に穴が開いた真下の位置に僕が、バーベルウェイトが投げ飛ばされた先にカルダモがいる。この場所を狙っていた。催眠ガスを封入したガスボンベが転がっているのだ。
それにしても、師匠との戦闘訓練のお陰で目が慣れていてよかった。
カルダモは凄まじい身体能力で動き回るが、動きが直線的だし踏み込むタイミングが読めるので躱しやすい。師匠は直立した状態から縫うような軌道で高速移動するから動きを読むのが難しい。相手の動きに注視していれば、カルダモの接近から逃れるのは容易い。
とはいっても、相手はまだ本気になっていない。僕を舐めているし、僕らを人質にするために明らかに手を抜いている。
だから、このまま逃げと防御に徹していてはそのうち捕らわれてしまう。上の階に残ったレティナさんもジュニパーと対峙しているはずだ。もしものときは加勢が必要になるかもしれない。
ゆえに、こちらも攻めなければ。
膝を地面につけて、左手に握っていた水鉄砲を前に掲げて、折れた右手で支えながらカルダモへ照準を合わせる。
カルダモは両手を広げ、撃ってこいと言わんばかりに僕を見下して余裕の表情を浮かべている。
なるほど、あの計画書には僕の持つ武器は水鉄砲と書かれていた。計画書の内容をジュニパーから共有されているカルダモは、僕のこの水鉄砲がただの水を出すだけのおもちゃであり、威嚇のための道具だと思い込んでいるのだろう。さっきから僕の水鉄砲に警戒していないのはそういうことか。
いいよ、驚かせてあげようじゃん。
僕は慣れない左手で引き金を引いた。
水鉄砲からパシュッと放たれた氷弾は、カルダモの上裸の左脇腹へと吸い込まれていった。
水鉄砲の予想外の衝撃に、カルダモは驚きの表情を見せた。しかし、カルダモと同時に、僕も驚くこととなった。着弾時の《
「痛ッつぅ……。なんだぁ、ガキィ? マジの銃だったのかそれ。俺の身体を貫通させるならライフルでも持ってくるんだな」
僕の《
本物の銃弾よりは貫通力は劣るけど、アルミ製のプレートにめり込ませるぐらいの推進力はある。生身の人体なら確実に突き刺さる。そうして着弾時の衝撃で解けた氷を再凝固させて破裂させることで威力を発揮するのが僕の《
奴の口ぶりから考えて、ライフルほどの貫通力のある弾丸でなければカルダモの肉体を傷つけることはできないということか。銃を突きつけられて余裕の表情を見せていたのは、僕の銃をただの水鉄砲と思い込んでいただけではなさそうだ。
カルダモが左脇腹をさすりながら2歩ほど後ろへ下がり、トレーニングマシンの陰へと身を隠した。目などの急所に《
「あん? いや、銃弾ならさすがに皮膚ぐらいは抉れるはずだ。硝煙も薬莢も出てこなかったし、なんか濡れてるし、どういうこった?」
カルダモは《
……あれ、おおっぴらに能力を見せていないとはいえ、こいつ、僕の能力にピンと来ていない?
発想のスケールが一般的すぎる。
超常の能力の存在を知っている能力者であれば、よく分からない境遇に陥ったときにはまず《眼の能力》の関与を疑うはず。
これまでの依頼では、敵対する相手は能力者かもしれないということを常に念頭に置いていた。それが師匠からの教えであった。自分だけに特殊な能力が宿っていると驕ることは、死に直結する。
ガラムという裏社会の代名詞的な環境の幹部に身を置いていながら、超常の能力に対する警戒心がカルダモの独り言や表情からは感じられない。
他に能力者がいるという発想がない? それとも、能力者ではない?
しかし、天井の鉄骨やグラスウールボードを腕の力で引き裂き、20キロもあるバーベルウェイトをフリスビーのように軽く投げ飛ばし、《
どういうこと?
こういう疑念が浮かんだときには、師匠は経験から、レティナさんは地頭の良さから適切な回答を導き出せるだろう。僕は、経験不足で頭も良いとは言えない。そして、今この瞬間、2人の援護はしばらく受けられない。自分で考えなくちゃいけない。
1つ、考えられることがある。
師匠の話に出てきたスクレラという少女も、身体能力が異常に向上する超常の能力を持っていたけど、《眼の能力》の性質による情報消失が起こらなかったと言っていた。つまり、それは能力者だけが能力に関する記憶を維持できるという性質にスクレラが当てはまらないということだ。
カルダモも異常な身体能力を有している。スクレラと同じタイプで、情報消失の性質の範囲外の能力者である可能性は高い。物理法則を捻じ曲げる僕らの《眼の能力》とは異なり、身体能力を高める能力は何かが違うのかもしれない。
相手が《眼の能力》に対する知識を持っていないというのは、こちらにとって非常にアドバンテージとなる。相手の常識を超え、一方的にこちらが先手を取り続けることができるからだ。
しかし、《眼の能力》の性質というのは、能力に関する記憶を長期間維持できないというだけで、能力を持たない者にも普通に能力自体は認識できる。
カルダモは物言いこそ粗雑だが、頭の回転は遅くなさそうだ。僕が超能力を持つと思われてしまえば、逃げの姿勢に回られてしまうかもしれない。未知の脅威にさらされた生物は、まず逃げる選択肢を採るものだ。師匠がこちらの救援にいつやって来るのか分からない以上、時間をかけるのは得策ではない。
では、どうするか。
ここぞの1発をぶちかまして、一気にカルダモを拘束する。それが最適だ。
僕は覚悟を決めて、足元のガスボンベに装着したレギュレータを取り外し、元栓を開放した。ブシュウと音を響かせながら部屋の中全体に白い煙が巡っていくが、視界を遮るほどの濃さではない。
「おいおい、煙幕のつもりか? それとも、持久戦か? そのガスは15分吸引すると倒れるんだろ。動き回って息も絶え絶え、身体の小さいお前の方がすぐに倒れちまうんじゃねえのか?」
「いいんだよ、これで」
ここからは、あの計画書には書かれていなかったことにチャレンジすることになる。僕にとって、ここからが本番だ。
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