第019話 天才の過去

◆ ◆ セロ視点 ◆ ◆


 夏場の雨の日に、着慣れていないオフィスカジュアルに身を包んだせいで、どうも全身がジメジメして気持ちが悪い。いや、この教授室は冷房がよく効いているので、天候のせいにするのは良くなかった。単純に、レティナが学生ではなく准教授であったという衝撃に対して、頭が混乱し、それに伴って肌の感覚が一瞬おかしくなったのだ。


「おや、セロさん、もしかしてレティナ君の件、ご存じなかったでしょうか?」


 エリオンは混乱する俺の様子に気づいたようだ。無表情で冷静を装うことを心がけている俺が、一般人の目からも分かるほどの狼狽してしまった。


「え、ええ……」

「もしかして、レティナ君にしてやられましたかな? お話されたことがあるなら分かると思いますが、彼女、そういうイタズラが好きなんですよ。ほら、学生かと思ったら准教授でした、ババーン、みたいなイタズラがね」


 エリオンは頭の上で両手を広げてレティナのお茶目さを大げさに示した。

 思い返すと、レティナは自分が学生であるとは一度も俺に言わなかった。ティオに対してもそうだったはずだ。一介の学生が先進的なミズアメを製造する実験ラインを任されていて、その成果物を私的に利用できるなど、確かにおかしい。寄付金について教授や事務員と交渉できるというのも奇妙だった。


「ぐ……。いやはや、お恥ずかしい限りです。31年生きてきて、こんな経験は始めてでした」

「ハハハ、私はその2倍ほど生きておりますが、彼女と居ると何度も恥ずかしい思いを重ねますよ。まったく、彼女のお茶目な面には振り回されっぱなしです。弊学は基本的には副業に制限があるのですが、数週間前に『エリオン先生、どの枠にも自由に使える多額の寄付金のツテを見つけてきたから、これから週の何日かは副業させてください』と急に言ってきてですね。関係者と諸々の調整するのが大変でしたよ」

「なるほど、その時にレティナ……彼女は私のことをエリオン先生に伝えたわけですね」


 どこまで俺のことが伝えられているのかを把握したいので尋ねてみることにした。


「ええ、『副業先の上司で信頼できるけれど、疑り深い性格なのでもしかしたら研究室に単身で調査に来るかも。ということで、非常口の鍵はしばらく開放しておきますね』と言われました。なんだかよく理解できずに忘れかけていたのですが、あなたがレティナ君の名前を出した時に思い出しました」


 俺がここに来ることをお見通しだったってわけか。非常口から侵入するルートまで誘導されていたらしく、レティナが敵でなくて良かったと思うばかりだ。


「私も彼女を高く評価しています。エリオン先生のお時間が許すのであれば、レティナのことをもっと深くお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん。レティナ君は『もしその人が来たら、私のこと好きに話していいですよ。私から話すよりも信頼してもらえると思いますし』って言っていましたからね。私も今日は休日で、趣味の文献整理で研究室にやってきていただけですから、お話しましょう」


 俺がレティナの過去を聞き込むことも当然予測していたようだ。まったく。


◆ ◆ エリオン教授の回想 ◆ ◆


 まずは、レティナ君の父であるコルネウス先生と私のことをお話しましょうか。


 2090年頃ですかね、私はトスタ大学理学部物理学科の素粒子関連の研究室のポスドクとして燻っていて、成果の出ない研究だけに明け暮れる生活を送っていました。その研究室に、コルネウスという精悍で頭の良い男が学部生で配属されました。私がそのとき30歳で、コルネウス先生が20歳でしたね。

 コルネウス先生はその当時でも有名人で、大学入試を全教科満点で入ってきたとか、90分の専門講義を彼の質疑応答で使い切らせたとか、その質疑応答の内容が相当に芯を食っていたらしく聞いていた他の学生が試験で好成績を修めたとか、色んな噂が流れていました。まあ、その噂はすべて本当だったのですが。当時の私はなんだか生意気な奴が研究室に入ってきたなと煩わしく思っていたのを覚えています。


 彼は研究室に配属された途端に当時の教授と良好な関係を築いていきました。ポスドクの私ですら関与することを許されていなかった産学連携の研究プロジェクトにも配属後数ヶ月で参画していました。彼は研究そのものだけでなく、コミュニケーションや調整まわりも達者でした。最初の方は嫉妬の炎を少しは燃やしましたが、彼の学部の卒業論文がほとんど改稿されることなくトップジャーナルに掲載されるとなったときには、嫉妬の欠片も感じることはありませんでしたね。むしろ、共著者の一員として加えてくれたことをありがたく思っています。

 そのまま彼は特例で色んな課程を飛び越えて博士号を取得し、すぐさま教員のポストを得ていました。あれよあれよと彼は周囲を巻き込み、28歳で彼は自身の研究室を持って教授職に就任しました。幸いにも私は無能とまでは言えない研究の才は持っていましたので、彼の研究室で准教授として取り立てていただきました。


 彼は、教授の就任前に学生時代からお付き合いしていた女性と結婚しており、つづく年、2098年に可愛らしい女の子を授かっておりました。それがレティナ君ですな。写真を見せられて毎日のように自慢されていました。

 ただ……、レティナ君は生まれてすぐに重い病を患ってしまったそうです。ずっと病院暮らしとのことでした。コルネウス先生が病院に見舞いにいくために研究室を留守にすることが頻繁にありましたな。それでも研究も事務作業も学生指導も恙無く終えていたので恐ろしいばかりです。


 教授になると実務の研究から退かれる方が今の私のように多いのですが、彼は精力的に実験を進めていました。レティナ君の看病もあり大変な中でしたが、運命の2100年がやってまいりました。電子の重位相化を発見したのです。それをすぐにプレプリント論文にまとめて発表し、立て続けに各素粒子や原子の重位相化、基本的な単原子分子の重位相化を発見し、わずか1年で工業的な実用化を果たしました。

 その快進撃に神様が応えてくれたのかは分かりませんが、なんとレティナ君の病気も快方へと向かっていったようで、家族の介助があれば外出できるようになりました。1度、コルネウス先生に連れられて研究室に遊びに来たこともありまして、研究室のみんなは愛らしいその姿にデレデレになっておりましたな。


 そして3年後の2103年は、あなたもご存知でしょう。10月にコルネウス先生はノーベル物理学賞を受賞されました。連名で私も受賞できなかったことは個人的には残念でしたが、彼の功績にはほとんど貢献できていなかったので当然です。


 そして、その年の12月、このトスタ大学での記念公演の後に、彼は姿を消してしまいました。代わりとなる人材がいなかったため、要件を満たしていた私が自動的に教授職へと繰り上がることとなりました。本当に、私の出世街道はコルネウス先生に均された道を歩くだけでしたな。


 同年にお母様を亡くされたらしいレティナ君は、孤独の身となってしまいました。コルネウス先生は行方不明となる前に莫大な資産を弟に任せていたようです。レティナ君にとってその叔父となる方が後見人となってくれました。


 小学生になったばかりのレティナ君は1人でも行動できるようになり、この研究室に頻繁に遊びに来るようになりました。

 関係者でない者を学内に入れるのは良くないことですが、研究室一同彼女を歓迎しました。好奇心旺盛な彼女が実験機器に触れてしまうのは流石に危険でしたので、学生名義で借りた電子図書館の膨大な文献ファイルを見せてあげると大人しくなってくれました。そうやって彼女をもてなし、保護者代わりとなった叔父さんが連れ帰りに来てくれるのを待つというのが毎日でした。


 多くの学生が卒業して就職したり、他の研究室へ移ったりするなかで、彼女はずっとこの研究室に通い続けました。いつのまにか、私の次にここの研究室人生が長いのが彼女になっていました。自ら実験作業をすることはなかったとはいえ、無数の文献を読み込んで実験の観察を続けていた彼女は、コルネウス先生から受け継いだ天性の才能もあり、私以上に原子位相学の分野に詳しくなってしまいました。


 私は、コルネウス先生の才能が花開き、いなくなってしまう過程を目撃した唯一の人間です。そして、その才能に私は引き上げられて、私は今ここにいます。

 続いて、私の目の前には、さらに若く、さらに有望な才能の塊が、実験もできずに手をこまねいて燻っていたのです。このとき、私は私の存在意義をようやく知ることができました。彼女の類まれな才能をできるだけ早く花開かせることこそが、私の責務だったのです。


 彼女の意志を尊重しながら、大学に早期に入学できるあらゆる法律や制度を調べて教えました。彼女は私が想像する以上に精力的に取り組んでくれて、15歳で弊学へ入学し、基礎課程の大部分を飛び級してこの研究室へ配属されました。


 レティナ君は、その特異な育ち方ゆえにコルネウス先生とは異なるタイプの天才です。

 コルネウス先生は実験を積み重ねて得られたデータから確固たる理論を導くスタイルでした。性質のよく分かっていない基礎物理の領域でしたので、実験データの収集を先行し情報を集めて理論を構築するのは王道のスタイルでした。逆に言えば先行きが見えないプロジェクトとなるため、いくつものバックアッププランを用意して着実かつ迅速に研究を進める姿に惚れ惚れしたものです。

 一方のレティナ君は、先に頭の中で仮説を構築し、いきなり実験で検証していくのです。幼少期はただ文献や実験を見るだけしかできなかった環境が、そのスタイルを作り上げたのだと思います。こういうスタイルは、考えた仮説が合っていると盲信してしまい、実験データを歪める誘惑を研究者に投げかけてきます。研究倫理も優れたレティナ君にそんな心配は必要ありませんが。

 周囲の人間からすると、レティナ君の実験手順は突拍子が無いように見えるでしょう。数年間まで水の重位相化は困難だとされている中で、突然私に向かって「この反応系使えば上手くいくと思うんですけど」と意見を求められ、理論物理屋の私としては何も答えられずにいたら、その日のうちに成功させたという報告を聞き、乾いた笑いが出たものです。


 コルネウス先生の功績をさらに発展させたことが認められ、レティナ君は21歳で准教授に就任しました。彼女はいくつかの講座で既に教鞭を取っています。自分と同年代の天才の講義を聞いてみたいと考える学生や院生が多く、学内でも人気を博しています。

 私はあと数年で退く予定です。しばらくすれば彼女が最年少の天才教授として就任し、コルネウス先生の正式な後継者として活躍してくれるでしょう。


◆ ◆ セロ視点 ◆ ◆


 レティナの過去とともに、幸いにもコルネウスの過去も聞くことができた。コルネウスの逸話は過去によく報じられていたので知っていたが、当事者目線で語られる話には興味が尽きなかった。そして、何よりも、レティナの思考力が培われた背景を知ることができた。


「エリオン先生、ありがとうございます。レティナのことを知ることができました。まさか、そこまで優秀な研究者であったとは、普段の言動からは思いも寄りませんでした」

「ハハハ、そうだよねぇ。私の軽い口ぶりが移ってしまったのかな。研究者としての不甲斐なさは移らなくてよかったよ」

「レティナは、エリオン先生を親のように想っていると思いますよ。そして、エリオン先生の優しさは、彼女に確実に受け継がれています」

「……そう言ってくれて嬉しいよ」


 終始朗らかにホイール父娘のことを離してくれたエリオンは、最後に少し寂しそうにそう言って俯いた。

 念のため持参しておいた菓子折りをお礼としてエリオンに手渡し、俺は深々と礼をした。そのまま研究室を去り、研究棟に侵入してきたルートを遡るように外に出た。いつの間にかずいぶんと夜が深くなっている。今日は涼しい夜だ。


 今回、トスタ大学原子位相学研究室を訪れることで、レティナの過去を知るという目的は達成することができた。しかし、スクレラの情報は得られなかった。スクレラは年齢から逆算すると2104年に生まれたはずで、父のコルネウスが行方知らずとなり、母が亡くなってしまった2103年よりも後だ。時系列で考えれば、腹違いでも無い限りレティナの妹としてスクレラが生まれたという仮説はありえない。


 22歳のレティナと、生きていれば16歳のスクレラ。6歳の年齢差はあるが、俺の記憶の中では一卵性双生児のように似ている2人。この謎は、コルネウスに出会うことができれば解決するのだろうか。


 もうすぐ日を跨ぐ時刻だ。

 無機質な外観の研究棟に囲まれて、俺は誰もいない大学構内に取り残されたように感じた。数メートル毎に設けられた歩行者用の道灯に挟まれると、俺の足元に2本の影が交差するように伸びた。数歩だけ歩いて道灯の真横まで移動すると、俺を形作る影は1本だけになる。そのまま道灯に沿って歩いていると、影が1本になったり2本になったりを繰り返した。


 俺だけ一方的にレティナの過去を知るというのは不誠実だよな。このまま事務所に帰ったら、機を見てレティナ、そしてティオに俺の過去を知らせよう。スプールのように、俺を見限ってくれてもいい。

 リングフォンを開くと、まだ2人が受けた依頼の報告書は書かれていなかった。

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