第018話 研究室訪問
◆ ◆ セロ視点 ◆ ◆
今日は2120年の7月20日土曜日。
昨日からしばらく雨が降り続いていたが、昼を過ぎてからはサラサラとした霧雨へと変わったので、夕方には止むことだろう。
今頃、ティオとレティナの2人は事務所で依頼人と面談を終えて依頼内容を整理しているところだ。リングフォンのファイル管理アプリを立ち上げて、事務所サーバ内の入力中の依頼書を見てみると、レティナが編集中であった。もともと用意していたテンプレートを活用して、端的に短く、第三者が見ても誤解のない明確な表現で実施計画を淀みなく書き続けている。
ティオはどんなに注意しても計画書や報告書に自分の感情を含めてしまうので、レティナの書く文章は本当によくできている。
そう、できすぎている。
名門のトスタ大学で、今をときめく原子位相学の研究室に所属する優秀な学生なんだ。研究周りで文章を書く機会は多いだろうし、そういうスキルが高いのは当然ともいえる。しかし、あの夜のクローブとの戦い、そして襲いかかるティオに対して向かっていくところで見せたあの胆力。さらに、能力により向上した観察力を利用して、周囲の環境をも利用して即座に適切に解決策を練る対応力。ただの一介の優秀な理系大学生という枠組みでは収まらない。
《眼の能力》の性能と、空間認識力、想像力、そして体格の4つが能力の活用に役立つというのが俺の持論だ。先日のトレーニングのときにも、そうレティナに教えた。透視して何でも見えるという能力自体の性質により、レティナの空間認識力には際限がない。そして、レティナの想像力が顕著に秀でていることはよく分かる。体力や筋力のなさを十分に補う成果を今日の依頼遂行でも上げてくれることだろう。
依頼は2人に任せて、一方の俺は、レティナの身辺を調べるためにトスタ大学へやって来た。2人にはクローブのナイフホルダーを身に着けて今日もガラム関係者を釣るために外に出ておくと言っておいた。
学内の関係者だと端からは見えるようにオフィスカジュアルな服装に身を包んで、理学部棟の付近までやってきた。
レティナのことを考えるとどうしても思い出すのはスクレラのことだ。そのことについて、直接レティナから聞き出すのは、俺の過去の件があるからどうしても憚られる。スクレラとの関係性に対する何らかの答えを得るためにも、レティナの大学における生活を確かめたかった。
単なる他人の空似であったなら、それでもいい。
休日の雨の日にも関わらず練習に励むラグビー部が俺の体つきを見て、しつこく勧誘してくる事態になったこと以外は、特に問題なく大学に入り込めている。そもそも、大学構内は研究棟を除き基本的に部外者も出入り自由だから、まだ潜入しているとはいえないか。
過去何十件も企業や研究機関の施設に侵入した経験から分かっていることだが、大学という施設はセキュリティレベルが極端に低い。研究機関だけでなく教育機関という側面があり、学生が施設の管理の一部を担うこともあるので、それは仕方ないことだろう。
研究棟の入口は学生カードや教員カードなどによる電子認証を必要とするため、一定のセキュリティが担保されている。しかし、高層階の非常口は簡単な物理錠だけで済ませていたり、酷いときには施錠すらされていなかったりする。
日が沈んで人目が無くなった時を見計らって、理学部の研究棟の非常階段を上り、各階の施錠の有無を確かめていった。非常口の開放が非常ベルの鳴動に連動している施設がよくあるが、ここは単純な扉が備えられているだけなので問題なく侵入できる。非常階段のところどころに喫煙の痕跡が認められることからも、内部の人間が休憩のために非常口を頻繁に出入りしていることが窺える。大学構内は全面禁煙だと注意する看板を道中にいくつも見たが、我慢できない奴は我慢できない。
しばらく非常階段を上ったところ、5階の非常口には施錠がされていなかった。金属製の錠であれば簡単にピッキングすることができたのだが、その必要もなくなった。ここから棟内へ侵入していくことにする。扉に耳をあてて、人の気配を探り誰もいないことを確認した。念の為、ドアノブを捻る音が鳴らないように慎重に扉を引き開けて侵入した。
灰色のリノリウム張りの滑らかな床が伸びる廊下の突き当たりに俺は出た。休日の土曜日の夜ということもあり、棟内に入っても人の気配はほとんど感じられない。廊下には実験器具等の物品も何もなく、綺麗に整頓されている。監視カメラは設置されていないようで、セキュリティのルーズさが逆に心配になる。
ここまで入ってしまえば、こそこそと隠れるような動きが逆に怪しまれる。「私は◯◯研究室の関係者です」と主張するように、堂々と歩いていた方が怪しまれない。これだけ大規模な研究棟なのだから、ここにいる人間が研究棟に入る全員の顔を知っているわけがないのだ。
廊下を歩いて建物の中央部まで行くと、メインのエレベータが2機配置されている。その近くに小さく示されていた構内図によると、別の場所に実験装置等を運搬する大きなエレベータもあるようだ。そして、この5階に目当ての原子位相学研究室があると分かった。いきなり目的の研究室の階層を当てられたのは幸運だ。
構内図を記憶して、原子位相学研究室へと続く廊下を歩き出す。広い実験室が廊下を挟んで2つあり、その先に学生たちの共用スペース、そして一番奥に教授室が配置されているシンプルな構造であった。大規模な実験は他の施設でやるのだろうが、世界に名を轟かせる優秀な研究室がこれほど簡素な作りだということに驚かされる。
共用スペース前まで行くと、物理的なネームプレートが掲げられていた。「最後の人は絶対戸締まりを」という注意書きがあることから、このネームプレートで研究室に残っている人を可視化しているのだろう。そこに書かれていた18名ほどの名前を見ていく。上から、教授のエリオン、准教授のハウス、助教のタイセイ、その下からは外部の研究員、博士課程の学生、修士、学部生と続いているな。
研究室のウェブページを覗く程度の情報収集はしていたが、研究室メンバーは個人情報の保護の観点からか教員の名前しか示されていなかった。教授の名前はしばらく前から変わっていない。
……ん?
おかしい、レティナ=ホイールという名前がどこにもない。
簡単にネット上で検索した限り、「破壊神コルネウスには娘がいて、トスタ大学へ入学している」との昔のゴシップが見つかった。ここでも個人情報の保護の観点から娘に関する直接的な情報が得られなかったが、少なくともレティナはトスタ大学生だということには間違いはないはずだ。普段の会話からもトスタ大学に対する造詣の深さが窺えるから、嘘だとしたら完成度が高すぎる。
先月のあの夜にレティナは身分証明書を破棄してしまったと言っていたので正確な身元の確認を後回しにしてしまっていたのだが、もしかすると何か俺に嘘をついていたのか?
スクレラとよく似た容姿から生じていた、レティナに対する僅かな不信感が俺の心の中で大きくなる。
ネームプレートを見る限り、今日は教授のエリオンだけが研究室にいるようだ。休日にも関わらず熱心に仕事をしているところ申し訳ないが、少々手荒な真似をしてでも聞き出したくなってしまったな。
教授室の前まで行くと、確かに室内から人の気配が感じられた。縦長の磨りガラスが入った大きな引き戸の隣に「御用の方はこちらのブザーを」と書かれた貼り紙がボタンと共に書かれていた。廊下から見るだけでも貼り紙の注意書きが何枚か見えるので、そうやって学生に指示しているのだろう。貼り紙が多いと組織内のコミュニケーションがうまくいっていない可能性があると聞いていたので、小さいながらも組織をまとめなければならない俺としては研究室内での関係性が上手くいっているのだろうかと少し気になる。
その貼り紙の案内に従ってボタンを押すと、ドア越しの教授室の中からブーとブザー音が鳴り、年を召した男性のしわがれた声で「おや? 今日は誰もアポは……」と呟く声が聞こえた。ガタガタと机周りの物品を片付けるような音の後に「どうぞ、お入りくださいな」と警戒もせず呼びかける声が届いた。
その言葉に甘えて、俺は引き戸をゆっくりと空けて礼儀正しく「失礼します」と会釈して中へと踏み込んだ。60歳近くだろうか、両頬がとっぷりと膨らんでいて、髪は長めの坊主頭に刈り込まれた恰幅の良い男性が、雑多に紙資料や本が積まれた机の前に座っていた。この男が、ウェブページでも確認した原子位相学研究室の現教授、エリオンだ。
エリオンは、まさか190センチ近い大男が入ってくるとは思わなかったであろう。座っているオフィスチェアの肘置きを両手で握り、リクライニングする背もたれに体重を預け、呆けた表情で高い位置にある俺の顔を見上げた。
「おやまあ、大きな方ですな。どちらさまでしょう」
「お初にお目にかかります。そして、急なご訪問失礼いたします。トスタで探偵業を営んでいる、ミデンと申します。エリオン教授でお間違えないでしょうか?」
「はい、私がエリオンでございます。探偵さんがこちらに何の用でしょうか? 今日は特に誰からもアポを受けていなかったもので……」
エリオンはそう言いながらオフィスチェアから立ち上がり、部屋に入ったところで立ち止まっていた俺を招き入れるようなジェスチャーで応接用のソファに案内した。それに従って、俺は恭しくソファに座る。対面にエリオンがのっそりと座った。
「ある女性について調査しているのです。レティナ=ホイールという女性を。こちらの研究室の前教授であるコルネウス=ホイールの娘にあたる方です」
レティナの名前を出した瞬間に、これまで開いているのかどうかハッキリしなかったエリオンの目が見開いた。
「レティナ君を……。もしや、あなたがセロさんという方なのですね?」
「……! はい、私がセロ=ミデンです。どうして私の名前を?」
先ほど、俺は姓しか名乗らなかった。エリオンは俺に心当たりがあるようだ。
「何週間か前に、うちのレティナ君に言われていたのです。いずれ、セロと名乗る男性が研究室にやってくるから、もてなして欲しいと」
「うちのレティナ……? しかし、不躾ながら先ほど廊下のネームプレートを拝見したところ、レティナという名前はなかったように見えましたが……」
「ああ、そうですね! すっかり忘れていました。彼女、ほら、お父さんがアレで色々と世間の好奇の目に触れてしまうでしょう? なので、特例として大学での活動はペンネームで登録されているんです。まあ、レティナ君は学内でも有名人で、理学部の教員も学生も医務室の先生もみんな本名で呼ぶことが多いもんですから、効果があるのかは分からないのですが」
ハハハと気持ちの良い笑い声を交えながら、エリオンは張ったお腹をぽんぽんと鳴らすように叩いている。
なるほど、ペンネームで活動しているから、ネットで検索してもレティナの研究に関する報告が一切見られなかったのか。
「そうだったのですね。それで、レティナ=ホイールは何というペンネームで活動されているのでしょうか?」
「『ハウス』ですよ。家とか研究室とか、室内にいるのが好きだからって、ひどく安直なネーミングセンスですよね。彼女はあんなに頭が良いのに、そういうところはテキトウなんです。ミズアメとかクウキアメとか、シンプルな名前が好きな子です」
ハウス……、ハウス? 先ほど見ていたネームプレートの全体を思い返して、そういった名前の学生はいなかった。いや、そう、学生にはいなかった。ネームプレートの上部にあったはずだ。
「え、ハウス……准教授?」
「そうです。いやあ、レティナ君はコルネウス先生をも超える大天才ですよ。正確な統計は知りませんが、22歳という若さで准教授のポストに就いたのはこの国での最年少記録ではないでしょうか?」
ハウスこと、レティナ=ホイールは、世界に誇るトスタ大学原子位相学研究室の准教授だった。
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