第009話 冷たい少年
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
銀髪の少年が振り撒いた液体から異臭を感じない。有機溶媒ではないということは、爆発するようなものではない可能性が高い。事前に感づいて数歩分だけ事務所の奥に逃げておいたのが功を奏して、私の身体に液体はかからなかった。毒や腐食性のある酸やアルカリかもしれないので、できるだけ触れないようにしなければ。
「誰!?」
私は叫んで銀髪の少年を睨みつけて威嚇し、状況を把握することに努める。背負ったバックパックの中にあるタンクには液体が7割程度残っている。7月の真夏の季節だと言うのに、少年は灰色のロングコートを身にまとっている。けれど、暑苦しそうな様子は見られない。私よりも低い150センチのほどの身長。小柄な体型だ。幼い印象を受ける大きな目は両端にシワをためて攻撃的な視線が私に向けてギツギツと放たれている。
透視能力により、衣服の中にどのような形の物体が隠れているか判断できる。相手がどのような武装しているかを確認できることは格闘戦において重要だ。裸体までも透けて見えてしまうが、そんなモノに気を取られている暇はない。
少年のコートにはナイフと銃が隠されている。銃の構造には詳しくないけれど、弾は入っていなさそうだ。距離を取って物陰に隠れるべきか……?
ここで、スンと冷たく乾いた空気が鼻孔を通ることで異常事態に気づいた。
少年が振り撒いた液体がピキキと音を立てて凄まじい勢いで凍り始めている。同時に、空調機で25度に調えられた部屋の温度が急激に下がったように感じられる。サーモグラフィの能力で確認すると、周囲に撒かれた液体が零度に近いことが分かる。
「これは、水、いや氷……っ! セロさん、この人もしかして能力者じゃっ…?」
空気に触れることで反応し急激に温度が低下し凍るような液体とも一瞬考えたが、そんな液体は私の知識の中には無いし、実際にそんな物質があったとしたら簡素なタンクで運べるような代物ではないはずだ。おそらく、この銀髪の少年は《眼の能力》を持つ者で、「水を凍らせる能力」を有しているんじゃないかと判断した。
加えて驚かされたのは、呼びかけたセロさんの姿が見えないことだ。私が透視で銀髪の気配に気づき大声を上げた時点で既に気配が失われたように思える。セロさんの常識外れのスピードなら、何のアクションも起こさせずに銀髪の少年を拘束することができるはずだ。
私に何も言わずに、この場を離れたということは。
ああ、さっきのセロさんの話から考えると。
うん、なるほど。
「ははあ、さっきセロさんが言っていた研修終了の試験として、私に襲い掛かってきたというわけですかね……?」
その私の呟きに、銀髪の少年がピクリと反応した。周囲の水を凍らせるスピードが若干速くなった。どうやらその指摘は図星で、この少年はセロさんの協力者だろう。
「……怪我をしても知らないよ」
銀髪の少年が冷ややかな声で言葉を発した。その反応と言葉から、これが試験だという推測は当たりのようだ。セロさんが監督する試験ならば、おそらく死ぬまでの危険はないと見込める。どうなればセロさんに認められて試験合格となるのか分からないけれど、怪我をしないように出来る限りの抵抗をするべきだ。
◆ ◆ ある少年の視点 ◆ ◆
僕の名前はティオ=ティーズ。
5年前からこの何でも屋の協力者として、セロ師匠の弟子として働いている。師匠に呼ばれたときにだけ出勤し、依頼を基本的に単身で受けている。
ここ2週間は急に呼ばれる頻度が下がり、遺失物探しといったつまらない依頼が激減した。僕としては、お偉いさんの用心棒や企業スパイの依頼の方が刺激的で面白く思っているので、やりがいのある貴重な仕事だけを進められていて楽しい日々だった。
今朝、師匠からいつものように通話が来て本日の依頼を受けることになったのだが、今までにない奇妙な依頼であった。というのも、依頼主は僕の師匠であるセロ=ミデン本人だったのだ。その依頼内容が「事務所の中に入り込んだ女を軽傷程度に痛めつけること」だった。
このトスタには何でも屋だけでなく裏稼業を生業とする団体がいくつかある。依頼内容を聞く限りでは、他のライバル団体のスパイが僕達の事務所に入り込む情報をキャッチしたため、その撃退を任されたのかと思った。しかし、どうやらそういうわけではないようだ。
現場は予め分かっていたので、事前に事務所内に盗聴器を仕掛けておいた。師匠からの教えで、現場となる状況の把握が最重要であると習ったからだ。昼ごろまで師匠しか事務所にいなかったが、14時を回った頃にターゲットと思しき女性が何食わぬ顔で事務所の扉を開き、師匠に馴れ馴れしく話しかけ始める。
2人の会話を聞き漏らさないように右耳に装着した盗聴器の受信機に意識を集中させる。
仕事内容の不満…? 昇給…? 契約…!?
「ま、まさか、師匠が、新入社員を……?」
僕の顔が青ざめる。
そうか、この2週間、僕への依頼が少なくなっていたのは、あの女に依頼が回っていたからだ。師匠と女の話を聞く限り、近日中に研修期間を終えるらしい。つまり、今日の僕の仕事は女の研修期間を終えるための試験を課す者っていうわけだ。僕が師匠から正式雇用を認められるときにも、兄ちゃんと一緒にずいぶんと痛めつけられたのを思い出す。
長く師匠と関わってきた僕なら分かる。師匠は盲目に人を信じることはない。盗聴器から聴こえる会話は専門的で理解が及ばないが、あの女の父親が《眼の能力》を解き明かす鍵を握っているということは理解できた。師匠は女のもつ血縁関係と専門知識を高く評価しているようだ。その点に関しては僕にとっても好ましいことだ。僕にも舞い込んだこの能力の謎が解けるのなら本望だ。
でも、許せない。僕には話したがらない師匠の教師時代の過去の話などを、あの女には気軽に教えている。女は軽口を叩いて師匠の精神的にパーソナルな領域に平気に踏み込んでいる。
自覚している。これはただの嫉妬だ。だけど、僕のトゲトゲした心臓が鼓動とともに心をチクチクと刺して、いらだたせる。
残念ながら、レティナとかいう女には万が一にも勝ち目はない。女にも《眼の能力》が宿っているようだが、盗聴時に女の口から能力を聞き取ることが出来た。透視能力と暗視能力らしい。《眼の能力》をもつ者との戦いにおいて、事前に能力がバレるのは負けに直結すると師匠から教わっている。
僕自身は能力者と戦った経験はない。ただ、どんな能力でも限界や弱点はあり、事前に対策すれば完封できることを理解している。女は《眼の能力》を使えばいくらか逃げ続けることはできるだろう。だが、攻撃に転化できない能力で僕の《氷グレイシー》に抵抗することは不可能だ。
事務所内の様子を盗聴で把握しながら、飛び込むタイミングを図る。いざ飛び込まんとドアノブに手をかけたとき、思いも寄らない叫び声が盗聴マイクとドア越しに同時に聞こえてきた。
「セロさんっ⁉︎ 外に液体を背負って―」
そうか、気配を絶っていたが、透視能力を使われたなら無意味だった。これは僕のミスだ。相手の能力を把握していたにも関わらず、後手に回ってしまった。
強襲をかけるつもりだったけど仕方ない。勢い良く事務所に飛び込む。背中に背負ったバックパックの中に入れたタンクに接続したホースを取り出し、女に向けて放水する。しかし、僕の襲撃に勘付かれたがゆえ避けられてしまう。
衣服や皮膚を濡らしてしまえば、凍らせて身動きを取れなくさせて、体温を奪い無力化させることができたんだけどね。撒き散らした水が凍るのを見て、女も僕が能力者であることに気づいたようだ。だが、このまま散水して氷結させていけば自然と追い詰めることができる。
「ははあ、さっきセロさんが言っていた研修終了の試験として私に襲い掛かってきたというわけですかね……?」
「っ!」
この女は僕と師匠との関係を知らないはず。この事務所には基本的に僕に関する情報は残されていない。まさか、僕が事務所に踏み込んだ瞬間に先生が姿を消したことで、この状況を理解したのか? もしそうなら、随分と頭が回るのが早い。華奢で根暗そうな外見のせいで、僕はこの女を過小評価してしまった。
身体的な実力は確かに勝敗を大きく左右する。しかし、相手の能力や状況の把握能力も同等以上に重要だ。《眼の能力》をもつ者どうしでの戦いでは相手を甘く見る考えが命取りになることを師匠から教わってきたのに。
すみません、師匠。この女相手に軽傷で済ませるのは難しそうです。
「……怪我をしても知らないよ」
嫉妬に駆られて激情的に行動していることは自覚しているが、生命に危険を及ぼすような攻撃をするつもりはなかった。これは師匠からの正式な依頼なのだ。軽傷で済ませるという依頼内容を忠実に守りたいからこそ、コレは封印するつもりだった。しかし、この女に対してはコレを使わないと試験にならない気がする。
僕の奥の手である銃をコートの内ポケットから取り出す。女が警戒心を高めて机の後ろに隠れるのが見えた。この銃は、グリップエンドの部分にホースを接続することができる。何度か引き金をカシュッカシュッと引くのを繰り返すと、タンクの水がホースを通って銃の内部に充填されていく。
要するに、これは水鉄砲だ。
安全装置を解除し、女が隠れている木製のテーブルの脚に狙いを定め、銃の引き金を引く。
バスンッ! ……ピキキッ、バォン!
テーブルの脚に破裂とともに大穴が開く。
この銃は、改造したガス式水鉄砲だ。重位相化から解放した窒素ガスの圧力を利用して少量の水を高速で真っ直ぐ打ち出すことができる。火薬やレーザー銃が制限される環境で利用される代替の低殺傷能力の武器だ。5メートル程度の距離でこの水弾を受ければ皮膚を抉り取る程度の威力があるが、それより離れてしまうと水弾が散り散りになってしまう。
水を氷に変える僕の能力《
重要なのが、《
《
もともと相手の全身にかけた水を凍らせて行動力を奪うことが僕の戦い方のスタイルだった。師匠の指導のもとでこの水鉄砲の扱いを習得することができ、戦い方の幅がかなり広がった。最初期は能力の使いすぎで眼が焼き切れそうだったけど、今では無意識に《
木製の丈夫なテーブルの脚ですら破裂させて壊すことができるこの氷弾を人間に打ち込めば、見るも無残な結果をもたらす。つい先日も用心棒の仕事でコイツは活躍してくれた。依頼主に害を成そうと近づいてきた奴の左肩に打ち込むと、そいつの肩はズタズタに引き裂かれて吹っ飛んだ。
引き金を引いて《
女は別の物陰に隠れようと身をかがめて横方向に逃げ出すが、その行く手の床に《
「早くギブアップしなよ。痛い思いはしたくないだろ?」
「いやあ、中々絶望的な状況だけれど、まだまだ頑張るよ」
諦めが悪い女だ。女に命中させる《
「動くなよ、頭や胴体に当たったら死んじゃうかもよ」
「ぐっ、死ぬのは嫌だけど、動かないわけにも行かないんだよねっ!」
床から伸びた高さ10センチ程度の氷柱を女は蹴り折り、僕に向けて投げつけてきた。投げるフォームを見ると運動しなれていない様子がうかがえる。大した速度も出ていないので払い除けてもいいけど、攻撃に専念するためにさっと身を屈めて避ける。またも女が氷柱を投げつけようとしたので、掴んだ氷柱の回りに付いている水滴を凍らせて指の自由を利かなくさせた。
「うあっ……手がっ」
女が慌てて手から氷柱を引き剥がす。
氷柱の回りに流れていた液体状態の水が多い状態であれば、手のひらの皮膚が全て凍りついていただろう。何本かの指の皮膚がはがれて軽い出血で済んだようだ。
水鉄砲を構えた僕には近づけないらしく、事務所の壁際に沿って机に身を隠して走り回りながら事務所に備えられた文具などの備品をこちらに投げてきている。ナイフといった武器を投げつけるなら気をつけるべきだが、今の女の行動は脅威と思えない。先程の頭の回転が嘘のように見える。
何らかの奥の手を投げつけてきたとしても問題ない。この程度のスピードで投げつけられる物なら《
僕は事務所のドアから入って数歩のところにとどまって銃を構えている。それに対する女は僕を中心とした円弧を描くように反復横跳びし続けている。動きは緩慢だが不規則に動くので、ここから急所を避けて女の身体を撃ち抜くのは難しい。
僕が事務所に踏み込んで2分も経っていない。しかし、動き回っている女の顔には疲れが見える。そろそろ引き潮時だろう。
ここで女の動きが変わった。
少し速めに投げつけられた直径40センチほどの円形クッションを僕が撃ち落とさんとするタイミングで女が急に走る方向を変えた。こちらに一気に向かってくる。なるほど、今まで撃ち落としやすいように物を投げていたのは僕が1度に1回の弾しか撃てないことを確認するための行動ってことかな。身体の動きは素人そのものだけど、能力者としての戦い方は巧みだ。
だけど、真っ直ぐこちらに向かってくる的は動いていないのと同じだ。体勢を立て直して水鉄砲に水を充填して構え直す。相手の走る速度は遅く、こちらに手が届く前に的確に狙いを定められる。仮にこのまま近づかれても相手には肉弾戦しか選択肢がない。師匠から格闘術も習っているので遅れをとることはないはず。勝ちを確信して言い放つ。
「イイ線いってると思うけど、そんな攻め方じゃ危ない依頼で死んじゃうかもよ!」
最初に事務所に踏み込んだときに撒き散らした水がここで活きてくる。凍らせずにそのままにしておいた水たまりに踏み込んだ瞬間に、その水たまりを凍らせて女のスニーカーを絡め取る。氷の形状を変化させて女の右足首まで完全に固定した。
「うっ! 冷たっ…」
「はーい、チェックメイト。そのまま動かないでね。動いたら《
3メートルほど先で足を押さえてもがいていた女がピタリと動きを止める。
ここで試験は終わりだろう。師匠がこのままこの女を合格にして何でも屋に正式に雇用させるかどうかは分からないが、女もそれなりの戦い方を見せたので師匠にとって好印象に映っているだろうか。
女の動向を注視しながら師匠からの制止する合図を待っていると、女がズボンのポケットから直径1センチ、厚み5ミリ程度の円柱状の半透明の小さな物体を1つ取り出した。錠剤、いや飴玉か? それを僕に見せつけるように上に放り投げた。
「はあ、動かないでって言ったじゃん。しょうがないけど、痛みに悶えてもらうよ!」
女に向けて《
《
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