第006話 追跡者
◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆
レティナが大時計塔屋で舌鼓を打っているとき、犯罪組織ガラムの上級構成員クローブは苛立ちを募らせていた。彼は、トスタ中央街と住宅地区の境付近にあるイタリアンレストランの中にいた。
「くそ、確実に足跡は追っていたはずだぞ! 店員も客もいねぇじゃねぇか」
この飲食店は明かりが点灯していてドアの鍵は空いていた。ついさっきまで人がいた温かみがあり、キッチンではディナーに使う予定であったコンソメスープがいい匂いを放っている。クローブは、レティナ以外に客や店員がいたとしても全員皆殺しにするつもりでこの店に踏み込んでいた。椅子やテーブルで蹴り散らすことで苛立ちを発散させるが収まらない。
「いや、まさかな……。あんな小細工を弄してくるクソ女のことだ。この店にトラップを仕掛けてるんじゃないだろうな? クソが!」
この店の不自然さにようやく疑いを持ち始める。クローブは人追いや死体処理、ナイフの取扱いについてはガラムの中でも一級品の腕前を備えていたが、瞬発的な状況判断能力が乏しかった。それゆえに、長い年月ガラムで活動していても幹部候補の上級構成員止まりだったのである。
辺りをキョロキョロとせわしく見回すクローブに、何者かが声をかけてきた。
「残念だ。この店にはなにもないぞ。ただお前は、あの女の仕掛けた単純な足跡消しのトリックに引っかかっただけなんだ。トリックやトラップは単純なものほど良いとはいうが、正にその通りだな、クローブ。お前の目が万全であればそんな見落としをする人間ではないのだろうが」
「あぁ? あっ……」
突如店の奥から大男がのそっと現れた。長い前髪を左右に分けて両耳の上に流した赤黒い髪が店の暖色の照明に照らされて光る。同じ色の太い眉毛と長いもみあげが特徴的な男だ。目の彫りは深く、鼻は高く鋭い。薄い唇は横一直線に伸び、表情から感情が読み取れない。
首は顔の幅と同じくらい太く、肩の筋肉がごつごつと隆起している。上半身はピタッと身体に貼り付く黒いストレッチタイプの薄い服に包まれており、逞しい上半身の筋肉の様子がありありと観察できる。その太い首から髪の色と同じような赤黒いマントが垂れ下がっている。白い顔の肌に対する髪とマントの赤黒い色のギャップが印象的だ。
その佇まいに圧倒され、大男の190センチ弱の身長を2メートル以上の巨人に錯覚してしまうことに無理はなかった。
「……だ、誰だテメぇ⁉ 何だよこの店は⁉」
「オイオイ、質問は1度に1つだけにしてくれ。俺の名前はセロ=ミデンだ。訳あってお前を殺しに来た者だよ。そして、この店は何の変哲もないただの大衆イタリアンレストランだ。危険を避けるために客と店員は事前に避難してもらった」
「ミデンってあの『何でも屋』か⁉ ッチ、俺も表立って活動しすぎたか。いいぜ、返り討ちにしてやるよ」
クローブは、セロ=ミデンと名乗った大男の名前に心当たりがあるようだ。闘争心を剥き出して、2本のナイフを両手に構える。ナイフを構えた途端にクローブの身体の震えが止まる。
「まあ待て、2つ質問に応えてやったんだ。俺の質問にも2つだけ応えてくれ。お前と争っていたあの女は何者だ? いくらお前が油断していたからといって、そこらの一般人に遅れは取らないだろ」
「あ⁉ 知らねえよ。俺はあそこの路地を小遣い稼ぎとストレス発散の場にしてたんだ。俺を追ってたんなら分かってんだろ? そこに入り込んだその女を襲おうとしたら逆にやられて逃げられたんだよ」
「……そうか。女のほうは後で様子を見に行く必要があるな」
セロは顎に手を当てて少し考え込む。
その時、クローブはセロが自分から視線を逸した瞬間を見逃さなかった。
予備動作なしで左脚を強く踏み込んで強襲を仕掛ける。注意を払って事前に予測していなければ、相手に避ける術はない速攻だ。踏み込んだフローリングが大きく凹んでいることが、その勢いの凄まじさを物語っている。
だが、2本のナイフはセロの命を刈り取るには届かない。セロは凄まじいスピードでクローブから見て90度右側に移動したのだ。刃が全く届かなかったわけではない。セロの顎の下には数ミリの切り傷が走り、左手首付近に掛かっていたマントの一部が切り刻まれている。
「ちくしょ……っ!」
必殺の間合い詰めとナイフ術が避けられて苦い顔を浮かべるクローブ。
「凄まじい蹴り出しと正確なナイフの狙いだな。首元と左手首の急所を同時に狙い、俺のスピードを僅かながら目で追えていた。お前が万全の体調で、かつ今のようにお互いが睨み合った状態で戦えば数パーセント程度の確率で俺は負けるだろう」
「ぐ……」
「だが、右脚と目を負傷したお前には万に一つも負ける要素はないし、そんな万全のお前を相手するほど俺は馬鹿じゃない」
「ふざけっ……!」
クローブの今の目では、相手との距離感が上手くつかめない。再びクローブはセロに飛びかかろうとするが、自傷していた右の大腿に強い痛みが走る。その痛みがわずかにクローブの身体が強張らせる。その瞬間、クローブの正面からセロの身体がまた消え去る。
感覚を研ぎすませ、クローブは弱った目でその動きを追おうとするが見失ってしまう。殺し合いの連夜の裏社会を生き抜いてきた者の動体視力をもってしても、セロのスピードを捉えきれない。
「そう死に急ぐなよ。もう1つ質問が残っている。時間がないからすぐに応えてくれ」
クローブの背後から、低い声が響いてくる。背後に回り込まれたのだ。クローブの全身に鳥肌が立ち、スキンヘッドの頭皮から顔面までいっぱいに冷や汗を浮かべる。
「質問だ。トスタ市におけるガラムの拠点はどこにある? 言ってくれたら五体満足とは言わないが解放してやる」
「くっ!」
クローブは言葉に詰まる。それを言ってしまえば、どんな弁明をしても上の人間に殺されてしまう。だが、応えなければ今の背後に居る巨体の化物に殺されるだろう。後で死ぬか、今死ぬかの2択にクローブの人生は定まってしまった。
2、3秒ほどクローブは悩む。クローブにとってそれは数十分にも感じられたが、悩んでもクローブの捻り出す答えは決まっていた。ガラムが犯罪組織として過激に活動し始めた最初期から活動しているクローブは、自分の生き方を変えるつもりはなかった。だから、叫んだ。
「誰が言うかバカやっ―……っふぐ!」
「……残念だ」
言い終える前にクローブの腹から5本の刀が飛び出す。刺青の男は、歯茎から血が滲むほど歯を食いしばり眉間に強くシワを寄せて痛みに耐え、自らの身体を貫く刀身を睨みつける。ナイフを強く握った両腕はピクピクと震え、脚は脱力している。刀の1本が脊椎を貫通し、下半身を動かす能力が断たれたようだ。
全体重を刀に預けて胸を大きく反らし、彼の頭は後ろ首に刻まれた炎のマークの刺青を隠すようにガクリと後方に力なく垂れる。彼は過酷な日々の走馬灯とともに、赤黒髪の男の上下逆の顔を見た。セロと名乗った男は未だに無表情だった。
口から垂れた血液混じりの唾液が、コポコポと鮮血の泡を立てて頬へと流れる。クローブの表情は、最期まで怒りに滲んでいた。
「ふぅ」
セロは煩わしそうに刀を抜き、クローブの死体を床にドサリと倒す。
「自らの生き方を変えないのは素晴らしいことだ。それこそが信念であり個性だ。悪く言えば、それは個人のワガママとも解釈できる。でもな、ワガママを通すにはそれなりの力が必要なんだよ、クローブ。その力っていうのは腕っ節の強さでも、頭の回転の早さでも、財力でも、人柄の良さでも、なんだって良いんだ。お前は確かに類まれな暴力の才能を持っていた。ただ、その暴力は俺に及ばなかったし、頭の回転はあの女に及ばなかった。お前は今日、ワガママを通すことができない日だったんだな。お前に必要だったのは、その現実を悟って、振る舞いを正す決断をすることだったんじゃないのか?」
セロは無表情のまま、優しく低い声でそう言った。返事をする者はいない。そのままクローブの身体を床に下ろし、腰ベルトに結いつけられたナイフの鞘と両手に強く握られたナイフを回収する。その亡骸を残してイタリアンレストランのドアを開く。
「クローブ、お前の信念の拠り所である2本のナイフを最期まで離さなかったのは立派だ。そこは尊敬しよう」
小さく口角を上げてセロは後ろを振り返った。すぐ無表情に戻し、リングフォンを操作しながら外へ出た。
「さて、あの女だ。立ち回りが異常にスムーズすぎた。暗くてよく見えなかったが、あの顔……、まさかな。クローブよりも危険度を高く見積もって接するべきか。抵抗する場合は加減ができないかもしれん」
セロはビル群の屋上からクローブを尾行していたところ、ビルの隙間から天をつんざく光が漏れていたことを不審に思い、その場に居たレティナを監視していたのだ。
レティナに、本物の悪魔が近づいてくる。レティナが大時計塔屋から逃げ出す15分前の出来事であった。
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