第005話 刀の雨
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
なんだ、あの男は。
この展開はまったく予想していなかった。裏路地でも生命の危機を感じていたけれど、あのときは冷静に判断を下せていた。私は、冷や汗を額から垂らして冷静さを欠いている私自身に気がついた。冷静に、迅速に、行動しなければ。
大時計塔屋のレダカンさんに適当な嘘をついて裏の勝手口から出ていくことを許してもらう。表の扉は開けないように言っておいた。できるだけ音を立てずに裏戸を開けて、急ぎ足で飛び出す。このまま裏道を周っていけば、男がいる表口に面した道に出ることなく別の大通りに出ることができる。
前を向いて駆けながら、右眼で男の様子を見る。この眼の透視能力は、私自身のまぶたや頭部を透過してしまえば、360度上下左右制限なく周囲を観察することができる。今回のように、前を向いて逃げながら後ろの様子を確認できるので非常に有用だ。どのように頭の後ろ側の光を眼球の中で結像させているのかはよくわからない。
男は未だに大時計塔屋の表口のそばの外壁に身を預けて待ち惚けている。私のとっさの逃走判断が功を奏したようだ。
数十メートルを全力で走ったせいで、肺にチクチクと痛みを感じるほど呼吸を荒らげる。今日は長距離歩いて、人にタックルして、全力疾走して、などと身体を酷使しすぎている。これ以上負荷をかけてしまったらまた倒れてしまいそうだ。さすがに1日に2回気絶した経験はない。
広い通りまで早歩きで出る。もう24時を過ぎるころだけれど、この道なら常に視界に5、6人の歩行者を認めることができる。人目のある中ならば、相手も無理のある行動はできないはずだ。このまま自宅に向かうのは危険そう。近場のホテルに身を隠すのが良いだろう。
通りを100メートルほど歩いたところで、大手服屋チェーン店を見つける。この22世紀では無人警備システムの性能向上と持ち出した商品の自動決済により、大型の物理店舗では基本的に24時間営業だ。
ごくわずかな可能性まで考慮し、もしかしたら相手は服装や体臭で私を追っているのかもしれない。動きやすいシャツとレギンス、下着や靴やバッグも含めて全身一式服を購入し、更衣室でさっと着替えた。同時に消臭スプレーを購入し、私の身体や髪、バッグの中身に吹き付け、できるだけ身体と所持品の臭いを消しておく。脱ぎ捨てた服にも消臭スプレーを噴射し、古着回収箱の奥の方に捨てる。お気に入りのスニーカーだったけれど、自分の命には変えられない。靴とバッグもゴミ箱に捨てる。帽子も被ってしまえば、外見などを基準にして私を追跡することはできないはず。
……あれ、男が、消えた?
もう一度、大時計塔屋の方を透視してよく確認してみる。数百メートルも離れたところの透視は焦点を合わせにくいけれど、店舗前は照明が明るく灯っていて目印になっているので楽に見通すことができた。けれど、そこにも、その周囲にも男の姿はない。
通りを歩いているときも服屋で買い物しているときも、あの男から目を離したつもりはなかった。気づかぬまま視線を絶ってしまったのだろうか。またもや冷や汗が溢れてきて、蒸し暑い6月のこの日に寒気が走る。
さて、あの男、誰なんだろう?
大時計塔屋の表口に佇んでいた男は、私が叩きのめした下品な男、クローブではなかった。ランニングや筋力トレーニングでもするかのような、身体のラインが浮き出たスポーティな赤黒い衣装に身を包み、身長は190センチ近い筋骨逞しい大男だった。首筋に炎のマークの刺青は確認できなかったから、ガラムの追手ではないかもしれない。
私がその見知らぬ大男に対して強い危機感を覚えたのは、クローブの持っていた2本のナイフを腰に装備していたからだ。あんなに長いナイフを偶然にも別の人物が装着していたなんてことはないだろう。クローブと大男にはなんらかの関係性があると見ていい。
私は、クローブに泥の足跡で追われてしまう可能性をわずかながらに懸念していた。あの男は裏路地に入ってきた時に周囲のゴミや壁の落書きのすべてを記憶しようとするかのような異様な集中力で目を光らせていたからだ。
住宅地区に入ってすぐのところに建っている別の飲食店に入っていくように見せかけた足跡を残し、そこでビニール袋を装着して靴を覆った。そしてビニール袋を履いたまま少し離れた大時計塔屋に向かったのである。だからこそ、足跡の偽装までも見抜けるような超能力者でもない限り私は追跡されないと考えていた。
とにかく、大男が私の方に向かってきていないか確認する必要がある。超視力、暗視能力、透視能力をフルに展開し、通りの奥の方や周囲の建物の影を確認する。
ふと、私のすぐ右手にあるビルの間の細い路地の入り口を暗視して見てみる。
瞬間、赤黒い服に身を包んだ男が凄まじい勢いでこちらに向かってくるのが見えた。
「くっ!?」
男は私の買ったばかりのシャツの首襟を掴み、一気に路地の中に引き込もうとしてきた。身をかわしたり叫び声をあげたりする暇もない。あまりの素早さに身を仰け反るもできなかった。それに、私の身体を引く力も異常だ。私の身長は160センチで体重は平均的な値。どんな大男でも成人女性を片手で引きずるのには苦労するはずだ。それなのに、この男は一歩で2メートル以上も跳ねて軽々と移動している。地面に引きずられる私の新品の靴が両方とも脱げ落ちる。
「ぐっ、この!」
とっさの護身用に使えると思って付けておいた胸ポケットのボールペンを取り出し、ペン先を相手の手首の筋に突き立てようと振りかぶる。しかし、私の動きが読まれたのか、手を離されてしまう。放り離された私の身体はそのまま地面に叩きつけられて、慣性の勢いで3メートルほど転がる。せっかく買った新品の衣類は全身泥だらけシワだらけだ。
地面に突っ伏しながらも透視能力と暗視能力で相手の位置を確認する。10メートルと少しほど離れた位置に男は立ってこちらを睨んでいる。お互いの距離と私の寝そべった体勢は、中央街の裏路地でクローブと対峙したときと同じような状況だ。けれど、あの時とは緊張感がまったく異なる。異常なスピードで移動する相手は一瞬でこの間合いを詰めるだろう。
急いで立ち上がると同時に、私は地面に落ちていたゴミを意味ありげに上に放り投げる。その行動に特に意味があるわけではない。相手の気を一瞬でも逸らすための苦肉の策だ。
立ち上がり終えると、腰と膝に強い痛みが走る。もう身体が限界だ。けれど、もう全力で走って逃げるしか無い。後ろへ振り返り、恐怖と疲労で震える脚を、光の差し込む路地の出口に向けて無理矢理に動かす。
手足をデタラメに振り回して全速力で駆け抜ける。だんだんと頭の中がぼやけてくる。100年以上前のブラウン管構造のテレビは、受信状況が悪いと砂嵐といわれる画面に白黒の粒子状のノイズがザーザーという音と共に流れたらしい。私の頭の中はその砂嵐に満たされようとしていた。
後方にいる男の方を透視能力により観察すると、陸上短距離走のクラウチングスタートのような体勢を取っていた。
スパァンと鋭い破裂音が路地に響く。音速に近い物体が空気の壁にぶつかるときの音だ。速さを誇張するための比喩ではなく、まさにその音だったのだ。
そして、音に対してだけでなく、私を追いかける男の動きにも驚愕した。私の暗視能力と動体視力だからこそ知覚できたと思う。信じられないことに、男はビルの壁を走って、異常なスピードで上方から回り込んで私を追い越したのである。移動スピードももちろんだが、人間の身体能力を超えている、この大男。
さっきまで後ろにいた男が、路地の出口に立って私の行く先を塞いだ。筋肉に包まれた男の巨体の輪郭が大通りから差す逆光で強調されている。圧倒的な強者を演出するには十分すぎるものだった。その黒々とした男の輪郭が急激に膨張する。私のいる方向に超スピードで迫ってきたことで膨張したかのように見えたのだ。
男の右手には、いつの間にか刀が握られていた。クローブの持っていたナイフではない。短い脇差のような、狭い路地でも振り回せる30センチほどの刃渡りの刀だ。動体視力の優れている私は、その太刀筋が私の左肩へ向かっているのに気付く。このままでは袈裟斬りされてしまうと頭で判断する前に、脊髄が反射的に身体を後ろに引き下がらせた。それでギリギリで避けることができた。
既に私の眼は男の左手にも脇差が握られていることに気付いていた。
息つく間もなく、二太刀目が私の胴体の真芯に向けてまっすぐ突かれてくるのが分かる。
ちょうどそのとき、私の肉体は限界を迎えた。一太刀目を避けて後退した身体を支える筋力は既に無く、そのまま私は後ろに倒れ込む。そのおかげで、男の鋭い突きは空気を貫くだけに終わる。私の倒れるという行為は相手にとっても驚きだったようで、一瞬男の動作が止まり、困惑が見て取れた。だけれど、相手は追撃の手を止めるつもりはないようだ。
目もかすんできた。身体を1ミリも動かせない。
最期に幻覚でも見ているのだろうか、男の両手には何本もの刀が握られていた。いや違う、刀身は男の指先から生えている? 合計10本の刀が全て私に向けて降ってきた。この男こそが、私の魂を奪いに来た悪魔だったのか。
私、レティナ=ホイールの眼は、最後に刀の雨を見た。
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