第004話 計算違い
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
右眼の検証中に身体を休めたおかげで、肉体はある程度回復している。けれど、アップダウンの激しい大学の構内を歩いたことや男への体当たりで確実にまだ自覚のないダメージが刻まれている。きっと明日には筋肉痛が全身を襲うのだろう。
シャワーを浴びてゆっくりと休むべきなのだろう。でも、今日はお酒でも飲んで帰ろうかな。せっかく徒歩で来ているからね。
私は昔から特定の誰かと敵対することもなく、暴力とは無縁で過ごしてきた。普通の生き方というのは、そういうものだろう。けれど、さっきの男への暴力行為は特に抵抗なく実行できた。これが私の本性なのだろうか。私にはこれまでの人生で気づいていなかった側面があるのかもしれない。あの場を生き抜くためには闘うしか方法はなかった。
私は、私が私らしく過ごせる生き方を選んで生きていく。だからこそ、私は心と身体を癒すために、今日は酒を飲むのだと自身に言い聞かせる。
「はーい、らっしゃい」
トスタ中央街から東部の住宅地区の間には座席数十数席の簡素な個人経営の飲食店が多く立ち並んでいる。中央街の内側は学生や観光客向けの店舗が多いけれど、このあたりは住宅地区に住む人向けの店が多く見られる。
大時計塔屋は私が懇意にしている定食屋兼居酒屋だ。大学に入学してからというものの実入りの少ない私にとっては安くてボリュームのある定食はとても魅力的である。トスタ市のがっかり観光スポットとして知られる大時計塔にあやかった店舗名で、外食好みの人間にとっては大時計塔よりもここが観光スポットとして相応しいと信じている。
酒類はちょっとだけ値が張るけれど、他の居酒屋の高いおつまみで腹を満たすのと比較すればいくぶんか出費は軽い。今日はしっかり運動したから、タンパク質多めの定食にビールを一杯つけよう。
日付も変わる間近となってきたので、店内に客は私しかいない。空間投影ディスプレイテレビから流れるニュースの機械合成アナウンサーの声と店主のレダカンさんが食器を洗う音だけが響いている。
「はーい、レダカンさん。バジル鳥グリル定食の『プラス』に生中でお願いします」
「あいよ!」
大時計塔屋にはプラスという注文方式はない。ちょっとした共通点から仲良くなった、気のいいレダカンさんが無料でご飯大盛りに対応してくれることになった。定食の後にプラスという魔法の言葉をつけるといつでも大盛りにしてくれる。常連だけが知っている裏注文方式である。
テーブル席ではなくカウンター席に座ると、カウンターテーブルを挟んでレダカンさんと他愛のない話をしながら飯を食べることになる。
「嬢ちゃん、顔と服に泥がついてねぇか? どっかで転んだか?」
「そーそー、今日大学でも外でも地面に這いつくばっちゃってさぁ」
「身体がヒョロそうとは思ってたが、ほんとに心配になるくらいにヤバいな嬢ちゃん。なるべく車で移動しろよ」
「実は今日、メンテナンスの日で車を点検に持って行かれたんだよね。タクシーで帰っても良かったんだけれど、運動不足解消のために歩いて来たの。まさか4時間かかるとはね……」
「あれ? ここから大学まで4キロも無いくらいだろ? それで4時間って運動不足ってレベルじゃないくらい歩くの遅くねえか?」
「ちょっと寄り道しただけですけどぉ? 疲れたからせっかく1週間ぶりにココに寄ってあげたのに、ひどい言い草だなぁ」
超常の能力を手に入れて気を失い、能力の検証をしてからチンピラをぶっ倒すのは寄り道の域を超えているかもしれない。濃密な4時間だった。
足取りに気をつけながら歩いていると足の関節がだんだんと痛み出したので、日が変わる直前でようやく大時計塔屋までたどり着いた。なお、大時計塔屋は午前2時まで開いている。深夜まで大学に引きこもっていることが多い私にはとてもありがたい。
「ハハハ、すまん! ビールも大ジョッキにプラスサービスしてやるよ!」
「よっしゃ! いつもそんなサービスして大丈夫なの? もともとかなり安いと思うんだけど」
「周りの飲食店に怒られないくらいの黒字ギリギリのラインだな。まあ、ここのちっさいビルの上の階の不動産収入もあるし、そんなこと客が気にするんじゃないよ。おめぇみてえな飢えた人間にたらふく食わせるのが好きなんだ。レティナ嬢ちゃんも沢山食べられるんだし、Win―Winの関係だろ?」
生活が極端に困窮しているわけではないが、節約が大好きな私には大変ありがたい。そして、3階建てのこのビルはレダカンさんのものだったことをこの会話で初めて知る。なるほど、元手の資産があるならそういう不労所得を狙うことができるのか。将来設計の参考にしよう。
「おじさんの生き方かっこいいねぇ。これからも貫いて欲しいな。お世話になりまーす」
「テメェ、おじさん呼ばわりは辞めろや!」
レダカンさんは年上のため言葉の端々に丁寧語を交えて話すことが多い。けれど、心持ちとしては全く畏まらずに話すことができる。レダカンさんは私とあれこれ話しながらも、手元だけはしっかりと調理に専念している。それほど長い時間待つことなく、目の前に定食の盆とサービスされた大ジョッキが置かれる。
「腹減った、腹減った。いただきまーす」
バジルがふわりと香る鶏もも肉と塩ダレは炊いた米にとてもよく合う。一口大にカットされたチキンステーキを口いっぱいに頬張ると、フワリと柔らかい肉とパリパリの皮の隙間からじゅわじゅわと脂が溢れ出て、唇を脂で光らせることとなる。
泡がジョッキの縁から今にも零れそうな生ビールにそっと口をつけ、丸く膨らんだ上部の泡だけをゾゾっと吸い取り、コップを傾けて黄金色に輝く液体の3割を喉へ一気に流し込む。ジョッキの上部には泡のリングと脂ぎった唇の後が残っており、それらが暖色系の電球にきらきらと照らされている。
再び鶏もも肉に箸を伸ばして口に投げ入れると、ほどよく焼けた皮から滴る熱々の脂が、ビールの冷たさと対比して舌を刺激する。柔らかな肉の芯にはバジルの風味が染み込んでおり、噛むごとに爽やかな香りが口の中に広がる。
鶏、米、ビールを順番にお腹に詰め込んでいく幸せのループを続け、10分ほどで定食を平らげてしまった。
急いで食べ終わった後にすぐ身体を動かすのは億劫だったので、レダカンさんと話しながらしばらく座っていようと思った。けれど、おじさんは店の奥で作業があるようで姿を消してしまった。
手持ち無沙汰を解消しようと、店の天井角に浮かんだ小型の空間投影ディスプレイで放映されているニュースを見ることにする。
「……あなたの指先にさらなる未来をもたらす……」
ああ、シンワダチのリングフォン、新しいの出るんだったね。今のも性能に不満はないんだけど、来月には買い替えちゃおうかな。
「……トスタ市のカワヒサ市長が先日の記者会見で連続任期25年目の抱負発表を……」
私が生まれる前からずっと市長やってるって根気あるな。大企業やテーマパークの誘致成功で財政は潤っているらしいし、ずっとこの人が市長してて文句ないかな。市内の研究推進のために大学関係者への住宅補助などの施策は私もフルに利用させてもらっている。
「……一方で、爆弾魔と自称する人間から脅迫がされていた市議が要求を固辞していたところ、市議の自宅が爆発し中から身元不明の……」
へえ、また例の爆弾魔の仕業で政治家死んじゃったかもしれないんだ。いい加減捕まらないのかな。
「……こちらも悲しいニュースです。ガラムを主張する組織が犯行声明通りに警察署を襲撃し、署内1階が爆発。3名の警察官と1名の民間人が……」
あちゃあ、ガラムがまた警察署を襲撃したの。ここでも爆弾が使われたんだ。爆弾魔といい、トスタの治安はどうなっているんだか。
次々と流れる時事ニュースに心の中でコメントしながら眺めていた。特に、最後のガラムのニュースには目を引くものがあった。
ガラムとは全世界で最大級の犯罪組織で、その存在が世間に認められてから5年間、警察も未だにその全貌を把握できていないという。このトスタのどこかに重要拠点があると噂になっているが、その真偽も分かっていない。
把握できていない理由として、小規模であることが挙げられる。最大級なのに小規模とはどういうことかというと、被害は最大級で構成員は小規模という意味だ。構成員ひとりひとりが何らかの領域でエキスパート級の人材を取り揃えており、サイバー攻撃、テロ、暗殺、薬物売買、武器密輸など、ほとんど痕跡を残さないまま多くの被害を生み出している。世間にも警察にも知られていない犯罪が多く眠っているに違いない。全世界の警察組織の悩みのタネだ。
ニュースを聞く限り、ガラムの構成員の1人が逮捕されたらしい。その報復として、今回の警察署襲撃はあえてガラムの犯行だと分かるようにしたようだ。
なかなか尻尾を掴ませないガラムだけれど、ガラムの構成員がどうかを判断するためのある基準が、真実性の乏しい噂として知られている。
―首筋の裏に、炎のマークの刺青
軽々しくワルになりたがろうとする街の不良も、警察とガラム双方に睨まれるのが怖くてこの刺青を冗談でいれることはないという。
そう、あのクローブとかいう男、首筋にこの刺青が入っていた。まさか、ガラムの構成員だったのか?
クローブと対峙した感想として、犯罪のエキスパートという印象を特に抱くことはなかった。異常に長いナイフで武装していることを除けば癖の強いチンピラという表現が的確で、また襲ってきてもなんとか逃げ切れそうな気がする。もちろん、炎のマークの入れ墨がガラム関係者であるというのも都市伝説的なものであり、そもそもエキスパートとも称される人間がわざわざそんなわかりやすい証を身体に刻むはずがない。
ガラムの非道なやり方が以前からニュースで伝えられてきているので、その脅威が私の脳裏にこびりついている。あのクローブがガラムに与する者ではない、と簡単には唾棄できない。ガラムに敵対したことで報復があるのではないかと一抹の不安を覚える。先ほどの警察に対する報復劇のニュースが印象的で、頭から離れない。
あの路地は暗く、私の顔は正確に覚えられていないはず。私を同定できる痕跡も残していないはず。脚に切傷を負い、目が潰れ、気を失った後では私の後を追うこともできないに違いない。それに、それなりの対策はしてきた。そう自分に言い聞かせながらも不安感を募らせる。
その不安感は顔には出さないように心がけながら、定食とビールの会計を電子決済で急いで終える。タクシーを呼んで家まで運んでもらおうと思いながら、店の開き戸に手をかける。戸を開ける寸前に、念のため外を透視してみた。
2本のナイフを腰に身に着けた男が1人、店の外壁に背を預けて腕を組んで立っている。
これは計算違いだ。マズい。
◆ ◆ クローブ視点 ◆ ◆
あの女、股から胸までを俺のナイフで引き裂いて殺してやる。
俺は上級構成員のクローブ様だぞ? 追跡術と死体の隠蔽、ナイフの取扱いはどこの誰にも負ける気がしない。あんなライトの小細工で目をやられなければ、あのクソ女はあそこで犯されて死んでいた。石か何かを投げられてかなり痛めつけられちまったが、とどめを刺さなかったのは失敗だったな。明日にでも、薬品で溶かされた女の亡骸が山に埋められることになるだろう。
あの女の靴跡は把握している。スニーカーを履いていたから、滑り止めの靴溝に泥が入り込んでいる。長年技術を磨いてきた俺なら、アスファルトの上でも僅かな泥の痕跡を追うことができる。あの光と頭への衝撃のせいで目がチカチカしているが問題ない。
体当たりに怯んで無様に右脚を自傷してしまったが、ガラムで活動する以上この程度の傷は日常茶飯事だ。100パーセントの力を出せるわけではないが、軽く走り回ることはできる。ガキの頃の地獄の日々に比べれば屁でもねぇ。もう油断することはない。どこまでも、どこまでも追って、息の根を止めてやる。
裏路地を抜けて大通りに出てきたが、どうやらあの女は住宅地区方面に向かっていったようだな。歩幅が短くてゆっくり歩いているようだから、楽に判別できるぜ。
地面に残った僅かな痕跡を視覚、嗅覚、そのほか説明できない俺だけのセンスをフル稼働させて追い続ける。
さて、住宅地区まで足跡を追ってやってきた。あのクソ女はこの飲食店に入り込んだみたいだ。人を殺しかけておいて、呑気に食事するなんてかなり図太い性格なようだ。
「すぐに絶望させてやる。アイツは怒らせてはいけない人間を怒らせてしまった。女だからといってもう油断はしない。命乞いも色仕掛けも無駄だ。小細工を仕掛ける隙も与えねえ」
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